喚起する、歓喜する

 ある日、僕は図書館に行き、それで小説を書き始めた。


 実のところ、小説を書く以前に小説を読むことすら長いことご無沙汰だった。そんなやつが小説を書き始めるなんて、おかしな話だ。でも、あの頃、世の中には学ばないといけないことがたくさんあって、学ぶことを長い事さぼっていた僕はそのつけを支払うだけで精一杯だったのだ。だから、小説を読んだときの揺れが心の奥底の不要物コーナーに封印され、指は小説のページをめくる感覚を忘れてしまったのも大目に見てほしい。

 もちろん、指はページをめくることはできたが、そのときにめくるものは新しい紙の匂いしかしない書類か、触ると壊れそうになる古い文書、あるいは紙ですらないpdfファイルとなった。とりわけ、このpdfファイルで読むものは、指も匂いも臭いもなくしてしまったのと同時に自由さ、気ままさも失ってしまったような小難しい文章ばかりであった。

 小説を書き始めたのは県立図書館に行った日のことだった。県立図書館にしかない郷土資料が必要で、それを閲覧していたのだが、予定より随分とはやく用事は済んでしまった。その日の僕はすぐに帰るのがもったいなくなって、図書館の中をふらふらと歩き回ることにしたのだ。

 雑誌をめくり、近代文学のコーナーに目もくれず、現代小説のコーナーを素通りし、料理のレシピ本をめくり、おなかがすいたところで帰ろうとしたときに通りがかった大型本コーナーで僕の足はとまった。

 そこに並んでいた本の文字列に見覚えがあったのだ。

 昔、ドキュメンタリー映画で知ってから、読みたいと思っていた本、思いの外、高価で購入をあきらめたものがそこにあった。

 あの頃の僕は大学院生で、下宿と学校の往復しかしていなかった。だから、大学の図書館になく、生協で(懐事情ゆえに)注文できない本は存在していないも同然だった。

 毎日やらねばならないことは多く、楽しいこともまた多く、だから、僕はすぐにヴィヴィアン・ガールズとその物語を孤独に紡いできた男の存在をすっかり忘れていた。

 ぱらぱらとめくる。

 彼の物語を収めるには大型本一冊であっても足りない。だから、そこに載っているのは断片でしかない。ただ自分だけの物語を紡ぎたいという男の欲望は、おそらく大部の詳細だが必要のない描写を含んでいるのだろう。解説として記された文章がそのことをしっかりと伝えてきた。

 でも、抜粋された物語は、実のところ、よくわからなかった。彼はこの物語を通して何を表現したかったのか。

 六〇年にもわたって書き続けたというのは、情熱のあらわれなのだろうが、考えてみれば、それだってよくわからない。

 わからないことだらけだけど、僕の心の奥底によくわからないものが灯ったのは確かだ。

 閲覧用の机で、奇妙な挿絵と奇妙な物語を眺めていた僕はカバンから常に数冊持ち歩いているノートを引っ張り出した。

 ボールペンを握りしめて、「小さな島」と書きつける。

 しばらく考え込む。小さな島、小さな島。

 ありがたいことにここは図書館だ。

 僕は社会科学のコーナーにたどりつき、380番の本棚の横を歩き、いくつか本を引っ張り出した。

 小さな島がどういう島なのか、教えてくれる本はたくさんあった。

 あの場所は小さな島ではなかったし、風景も異なっていたし、あいつは僕とさしてかわらない年齢であったが、昔のことを思い出していた。

 そう、あいつ、ジョナサンだ。

 質問ばかりしてくるやつだった。

 仲良くしているときもあれば、ケンカをしているときもあったが、それなりに良いやつであるし、彼は僕に多くの学びを与えてくれた。

 ケンカの理由は同族嫌悪。今ならば、それはわかる。

 僕がエキゾチックなものばかりに興味を示し、勝手に解釈しようとするのをジョナサンは鼻で笑う。

「なんか意味があるのかって? 昔っからこうだから、こうなんだよ。お前だって、誰かと話すたびに頭下げたり、上げたりする意味を答えられないし、なんで俺たちのところに来ているのかも答えられないだろ?」

 大変むかつく言い方であったが、実のところ、先行研究でもジョナサンと同じようなことを主張しているものはあったのだ。

 そう、僕は相手に夢見て、彼を野の賢人にしたてようとしているいけすかないやつだった。

 ジョナサンはジョナサンで僕のやることにひたすら意味を求めようとする野の起業家で偉大な観察者だった。様々な奇妙で現実感のないアイデアの宝庫だった。自信満々で資金援助のための即興のプレゼンテーションがはじまる。それが日常だった。聖なる世界に夢見がちな僕と俗世界に夢見がちなジョナサン、どちらも夢見るだけでリアリストになれない点で同じだった。だから、僕もジョナサンもさして華のない人生を歩んできた。そもそも、ジョナサンはそれほど歳を重ねないうちに、その歩みをとめてしまった。

 僕は結局、彼らのことがわからなかったし、ジョナサンも僕のことなんてひとつもわからなかっただろう。

 でも、それでもいいのかもしれない。

 ジョナサンは不幸なことにほどなくして亡くなったわけだが、彼のまわりでは、彼に感化されて、いろいろなものが変わっていった。

 良くない方向のものもあるかもしれないが、良い方向のものも多いだろう。ジョナサンが皆の心に何かをともした。

 よくわからないけど、まぁ、色々考えるきっかけになったよ。あいつは、そんなことを言っていた。

 雨と泥の匂いにつつまれて、飲んでいた雨季の一晩のことであった。

 雨粒がトタン屋根を打つ大きな音がしきりに聞こえた。ランプの芯がじりじりと燃えていくかすかな音もどういうわけか聞こえた。

 そう、僕がジョナサンの心に火をともしたのだし、僕の目論見が当初とは大きくずれ込んだとしても、僕の心の中のエンジンのイグニッションスイッチを、ジョナサンは常に刺激し続けた。

 あいつは僕の何かを掻き立てようなんて、ほんの少しも思っていなかっただろうし、僕だって同じだ。やはり、僕らは似た者同士だった。

 気がつけば、外は暗くなり、閉館を告げる音楽とアナウンスによって僕はようやく現実に戻る。

 白昼夢とさしてかわらない回想と空想の中、僕の手は動き続けていたようだった。

 真っ白だった僕のノートはびっしりと、自動筆記でもしたかのような汚い字が連なっていた。

 地下鉄を乗り継ぎ、家に帰る。

「片付けないといけない仕事があってさ」

 夕飯のあと、いつもとは違ってそそくさと部屋でパソコンを立ち上げた。

 ノートの上でのたうつ汚い文字列を移していく。

 打ち込んで、読み直し、読み直して、また打ち込んで、さらに推敲して。

 そうして出来上がったのは、よくわからない物語。

 

 皆はどう読むのだろう。

 熱に浮かされるようにして書き連ねた物語、僕だってどういう代物なのか、わからない。

 そもそも読んでもらえるのだろうか。

 そもそも僕は読んでほしいのだろうか。

 彼がどこにも発表せずに書き継いでいったのには到底およばないにしても、僕もただ何かを書きつけたかっただけではなかろうか。

 何もわからない。

 自分のことも、自分のつくったものも何もわからない。

 でも、もしかしたら……もしかしたら、どこかの誰かに何かが届くのかもしれない。そんな妄想にふけるのは、楽しかった。


 数日後、晩酌をしていたとき、ウイスキーのボトルが空いた。その日、同居人は出張していて、僕は僕一人で抱え込んだ物語――誰にも見られないからと、僕はこいつをプリントアウトしていた――とチョコレートを肴に呑んでいたのだ。

 神の思し召し、運命なんていうのは、僕の勝手な解釈でしかない。

 でも、たまにという頻度、舐める程度という量でしかたしなまないのだから、その程度の解釈をしても罰は当たらなかろう。

 プリントアウトした物語を丁寧に折りたたみ、油紙に包み、さらにビニール袋に入れる。

 ビニールごとくるくると丸めてすぼめて、瓶の口から差し込んでいく。

 瓶のキャップをしめて、接着剤とテープで固定していく。


 明日、海に行こう。

 これを流しに行こう。 

 瓶はどこかで割れてしまうだろう。

 僕の物語を読むのはクラゲくらいか。

 それでもかまわない。

 もしかしたら、誰かに届くかもしれない。もしかしたら、誰かに読んでもらえるかもしれない。もしかしたら、誰かの心に。

 ボトルが海を渡っていくのを見送ったら、書店に行こう。

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Fabula Nos Benedicet, Mundum Benedicemus 黒石廉 @kuroishiren

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