Fabula Nos Benedicet, Mundum Benedicemus

黒石廉

ジョゼフと若者

 小さな島を流れるにはやや不似合いな大河をカヌーが走る。

 使い込まれたカヌーの側面には災いを避ける渦巻きと波の文様が彫られ、舳先はワニを模した彫刻が施されている。

 粘り気のある水面が光を打ち返し、操舵者の顔を照らす。

 日に焼けた、しかし、このあたりの者よりも色白な若者の顔はどこか誇らしげだ。

 使い込まれたカヌーとオールは、ジョゼフが譲ったものだ。

 この老人は、腰痛で持て余し気味となった舟をそれなりの大金と引き換えに若者の自由にさせることにした。

 

 ◆◆◆


 若者は、ジョゼフの住む集落に数ヶ月前にやってきた。

 数日に一度、人や物を乗せた大きめの船が集落に立ち寄る。若者はこれに乗ってきた。

 大きな背負い袋を船からおろした若者は、船着き場のそばで煙草をくゆらしていたジョゼフに軽く頭を下げると、横に腰を下ろした。そのまま、シャツの胸ポケットから煙草のケースらしきものを取り出した。ここらで見かける赤い色ではない見たことのないケースだった。

 たまにここを通り過ぎていく観光客よりは浅黒いが、あきらかに異国の人間だ。街で働いている外国人によく似ているが、彼らに比べると、みすぼらしい身なりである。それに街の外国人は一人で行動しない。どこかまた違った国から来たのかもしれない。

 若者を観察しながら、すぅっと息を吸うと、ジョゼフの指先が少し熱くなった。指先を炙るくらいに短くなってしまった煙草を地面に放り捨てると、ジョゼフは若者に手を差し出してみる。最近は煙草を吸う外国人がめっきり減ってしまったが、かつてはこうすると高確率で煙草をせしめることができた。もちろん、もらえなくとも、別に困ることもない。

 ジョゼフの目論見はうまくいった。

 若者は見慣れぬケースを揺らして煙草をジョゼフに差し出す。指先に挟むと、みっちりと葉っぱがつつまれているのがわかった。ジョゼフは、鼻の下に煙草を持っていき、甘い香りを楽しんでから、口にくわえた。

 若者はライターをカチカチと言わせながらジョゼフの煙草に火をつけ、街の言葉で話しかけてきた。 「ここのチーフに会いたいのです。どこに行けば良いですか」

 ここを訪れる外国人はジョゼフたちの言葉どころか街の言葉もわからない。学校の言葉を奇妙なアクセントで話すだけであった。学校にほとんど行くことがなかったジョゼフが彼らと交わすのは「煙草」と「ありがとう」という二つのことばだけであった。

 だから、この奇妙な外国人の若者が学校の言葉でなく、街の言葉で話しかけてきたことにジョゼフは驚いた。

 驚いて少し黙ってしまっていると、若者は肩からかけたカバンから本を取り出して、何かを確認し、もう一度、同じことを聞いた。

「ああ、あんたが何を言っているか、わかっているよ。吸い終わったら連れて行ってやろう」

 これがジョゼフと若者との出会いである。

 若者は、集落の長のところで、数日の滞在の許可を得た。数日、客用の部屋で過ごすと、今度はそのまま居着く許可を貰っていた。こうして、若者はジョゼフの家に連れてこられた。


 若者は変わった名前を名乗った。

 街の外国人のやっている店先で金色にぴかぴか光る文字と学校の言葉で記された小さな硬めの紙片を差し出してきたが、若者の故郷や話す言葉は、街の外国人のそれと少し違うらしい。

 川を少し下れば、言葉が変わる土地で生まれ育ってきたジョゼフだ。

 そこは理解できた。

 理解できないのは、彼らにはジョゼフたちが用いるような街の言葉がないことだ。

「だったら、あんたらはどうやってお互いに話すのかね?」

 若者は、頭をぼりぼりとかきむしりながら、「英語学校の言葉か、筆談」と答える。

 言葉は通じないのに、文字だけは通じるとは、おかしなやつらもいたものだ。

 ジョゼフはからからと笑う。

 若者はジョゼフの家の使っていない小屋に住み着いている。

 小屋と中の寝台の主である孫のマークは長期休暇が来ない限り街で学校に通う身だ。夏休み、どうするかは、そのとき考えればよいだろう。

 学校といえば、この若者も学校に通っているのだという。

 毎日ふらふらと集落の中を歩き回っては、酒と煙草を呑んでいたら、留年するのではないか。事実、長の孫ドンは街の学校に行ったものの、酒場で馬鹿騒ぎすることをおぼえてしまって、すでに四度も留年している。ジョゼフの心配に若者はやはり頭をぼりぼりとかきむしりながら、「実はこれが自分の勉強なのです」と答える。

 ジョゼフはその言葉に思い当たるところがあった。祖父たちの時代から、この手の輩はよくやってきたという。人々につきまとい、神の教えを説く。

 ジョゼフの祖父たちがその教えを受け入れたのは、はるか昔のことだったが、父の代やジョゼフが父となり祖父となった今でもたまに新しい神はやってくる。神はたくさんおわすのか、はたまた、たくさんの顔を持つのか。あまり信心深いとはいえないジョゼフはそんなことを考えたことが何度かある。

 この若者も新たな化粧をほどこした神を連れてきたのだろう。

「そうか、お前はここに教会を建てにきたのだな? あんたの神様はどんな神様だね?」

 ヒゲをしごきながら問うジョゼフに対して、若者は首を横に振った。違うのだという。首を横に振ると否定の意味らしいことがジョゼフにもわかってきたところだった。若者が口を開く。「僕はあなたがたの神や精霊に興味がありますが、僕自身の神は……置いてきました。僕はあまり熱心な信徒ではないのです」

 おかしな若者だ。口をすぼめて、煙を空に泳がせている若者をじっと見つめる。

 若者は少し頬を赤らめていう。「あなたがたの文化は素晴らしい。だから、僕はそれを学びたいのです」

 一本吸い終えたジョゼフは手を差し出す。自分たちの文化とやらが学ぶに値すると言われるのはまんざらでもないが、これだけみっちりと葉の詰まった煙草や、この国でも見かけるような自動車を作る国の若者が何を得るのかはよくわからなかった。


 ジョゼフの家の居候となった若者は、雛鳥のようにジョゼフのあとを追っかけてくる。

 食事時には普通にジョゼフの小屋にやってくるので、妻のマリーは、この若者にも食事を与えた。若者は家賃と食費と称して気前よく金を払ってくれたし、たくさん食べてくれるから、マリーも気分が良いことだろう。

 たまにボートに乗って訪れる観光客たちと同じように、若者はジョゼフたちの行動を常に目で追っていた。

 マリーがサゴを練っているのをじっと見つめる。火を起こす様子を写真に撮りたがる。

 若者は鍋の中で煮えていく魚を眺めている。ヤシの葉を割いて作った串に刺されたイモムシがしゅうしゅうと音を立てながら、炙られていくのを眺めている。

 たまにボートに乗って訪れる観光客たちと違って、若者は何でも食べた。

 皿に入った団子と魚の煮物を食べ、観光客がほとんど手をつけないイモムシを頬張っていた。

「お前の国でもサゴを食べたりするかね?」

 ジョゼフの質問に若者は首を横に振る。地方によっては似たような食物を食べていたころもあったのだそうだが、彼自身はそのような経験はなく、もっぱら米を食べるのだそうだ。

「米は美味いかね?」

 若者は首を縦にふる。ジョゼフにとって、米は街の食べ物で、たまになら食べてもいいが、毎日食べろと言われたら逃げ出してしまうだろう。ジョゼフは少し意地悪な質問を思いつく。

「わしらのサゴより美味いかね?」

 若者が困った表情を浮かべるのは予想通りだった。

 文化を学びに来たとか抜かすくせにと続けてしまうのは、少しかわいそうになった。酒や煙草をくれなくなるのも困るし、このくらいで助け舟を出してやることにする。

「生まれ育った土地の食い物が一番だからな」

 若者は顔を赤らめながらうなずいた。

 ジョゼフの中の意地悪な気持ちはなくなっていたが、若者がこちらにしてくるように自分も質問してやるのは面白い、そう感じる自分がいることに気がついた。

 だから、ジョゼフは若者に質問をするようになった。それに若者を観察するのはなかなか面白いのだ。


 若者は図体こそ、それなりに大きいものの、驚くくらいに何もできなかった。

 一人前にナタなんて持ってはいたが、それをもって森に行っても、へっぴり腰でろくに触れない。研ぐのも下手くそ――それどころか、研ぐためのヤスリすらもっていないのだ、この若者は――で、この若者が手伝いに来ても、鉄の塊をもって奇妙な姿で踊っているだけでしかない。だから、ジョゼフは定期的に若者にヤスリを貸し、研ぎ方を教えてやることになった。

 それでも、陸の上なら、まだましなほうである。雨季に畑に行くと、毎日必ず泥土に足を取られて転ぶし、乾季は乾季で石につまずき、ツタに足を取られて転がっているが、それでも水の上よりはましである。

 カヌーに乗せたらひっくり返る。汚れはしないが、大変危ない。そもそもワニがいそうな場所の見分けもできないので、危なっかしくてたまらない。

 大体、この若者は、洗濯すらろくすっぽできないのだ。見様見真似で川べりの石に叩きつけ、汚れを落とそうとしているが、まったくなっていない。大抵の場合は、一緒に洗濯しにきていた女子どもが笑いながら、代わりにやることになる。

 そのうえ、若者はたいそう弱々しかった。図体がでかいくせにやたらと貧弱なのだ。

 いつも「予防薬」とやらを飲んでいるくせに、マラリアには、よくかかったし、マラリアになると何日も動けないようだった。

 若者は尻を上げて刺す蚊がマラリアを運ぶのだと手をぱたぱたと振っていたが、それがわかっていても、防げなければ意味がない。

 尻を上げて刺す蚊以外にも蚊はいるし、蚊以外にも人の血を掠め取る虫はいる。若者はどの虫にやられたのか知らないが、かきむしるものだから、しばしば肌をじゅくじゅくとさせていた。

 ひ弱で何もできない。どう贔屓目に見ても、ここで暮らしていけるようには見えない。

「どうして、お前はここを選んだ?」

 故郷を離れるにしても、ひ弱な人間でも生きていける場所を選ぶべきだったろうに。ジョゼフは問いかける。

 若者は最初のうちこそ、「あなたがたの文化と暮らしを学びたい」と繰り返すばかりであったが、質問を変え、そして重ねていくうちに、ぽつぽつと違う話もするようになった。

 何でも昔、本で読んだのだという。

「お前は、本で読んだ場所すべてを訪ねるつもりなのか?」

 若者は首を横に振る。

「ならば、どうしてここなのかい?」

 若者は腕組みをして、しばらく虚空を眺めてから、「ここにはまだまだ明らかになっていない価値あるものがたくさんあると思ったからです」と答えた。

 ジョゼフはなるほどと思う。何かしらの金になるのだろう。


 言われてみれば、この若者は外で草花を集めていた。

 ジョゼフが腰の痛みを和らげるためにマゴネの葉を取りに行くとき、若者はついてくる。

 若者が森に行くときに背負うカバンには古い新聞の束と板切れが入っている。ジョゼフがマゴネの葉を取ると、若者もそれを真似してマゴネの葉と枝を取る。若者は、いそいそと古新聞に挟み、Magoneという文字と日付らしき数字をマジックで書きつける。そうして、古新聞を板切れの間でぎゅっと押しつぶし、紐で板の上からしばるのだ。カラダネの樹皮を剥ぎにいくときも、サラカの青葉を採りにいくときも、やはり新聞紙と板切れを持って、にこにこしながらついてくる若者にジョゼフは質問をする。

「薬草を取って、故郷で売るのかね?」

 若者は首を横に振る。「僕はファーマコロジストではありません」

 ファーマコロジストが何なのかと重ねて質問をして、ジョゼフはその意味を学び、若者の目的をたずねる。この若者はただ集めて名前を記録するだけなのだという。

 ジョゼフはわからなくなってしまった。

「わしらの生活を学ぶと、儲かるのか?」

 わざわざ豊かな国からやってくるのだ。この若者のやることには何かしらの目的があるに違いない。それは金儲けにつながることなのだろうとずっとジョゼフは思っていたが、若者はいつも首を横に振る。今回も「あまり儲からないと思います」と答えた。

 ジョゼフは質問を重ねる。

「どうしてお前は、たいして儲からないことをやるのだ?」

 若者はあごに手をやり、虚空を見つめながら、首を幾度もひねる。しばらくそうしてから、「やりたいから。好きだから。楽しいから」と若者は自信なさげに答えた。

「やりたいことをやっていれば、食えるのか?」

 若者が畑をもっていないことは以前に聞いたことがあった。

 普段は街で学校に通っている孫のマークでさえ街の小屋の横で小さな畑を耕しているのだ。最初こそ冗談と思ったが、考えてみれば、若者は嘘なんてついていないのだ。あれほど何もできないのだ。畑なんか持っていないかわいそうなやつなのだ。

 もちろん、街に移住した年の離れたイトコのロブのように、ホテルで働くなんて仕事もある。でも、ホテルで働くために、観光客もあまりこない川沿いの小さな集落で薄汚れた服を着て毎日を過ごす必要はなかろう。

 ジョゼフは問う。

「お前の国では畑も金もなくても食べ物が手に入るのか?」

 若者は首を横に振る。「畑はなくても大丈夫ですが、お金は稼がないと生きていけません」

 国に帰ったら、仕事を探すのだという。

「お前は何になりたいのだ?」

 教師を目指していると若者が答える。

 何を教えるのかと、ジョゼフたちの暮らしや考え方だという。

「学校でそんなことを学びたがるものがいるのか?」

 マークはグラマーやマスとかいうものを学んでいたはずだ。そういうものを学ぶことが街で生きていくために必要なのに、この若者は何を言っているのだろう。

 若者は首をひねってから、うつむく。「いるかもしれませんし、他のことも教えます」

 若者の答えを聞いても、結局、若者が何を言いたいのかはよくわからない。それでも、この若者のわからなさに最近、だいぶん慣れてきたジョゼフは、「教師になりたいというのはいいことだ」とまとめる。

 すると、若者は首を横に振るのだ。「教師になりたいわけではなくて、教師として働きながら、自分のやりたいことを続けるつもり」などと言う。

 ジョゼフは慣れてきたなんて思っていたのが過ちであったことに気がつく。この若者は本当によくわからない。わかったと思ってもすぐにわからなくなる。多分、若者自身も自分のことがよくわかっていないに違いない。


 ジョゼフだけではなく、若者のほうもよく質問をした。

 最初のうちは草木の名前や用途、道具、畑の耕し方にカヌーと漁の技法であったが、気がつくと、どこかで聞きつけたらしき、ありとあらゆること、考えなくてもかまわないようなことまで質問をするようになっていた。

 忘れっぽいのか、常に小さな手帳に書きつけていたし、小さな手帳に書きつけているくせして忘れてしまうのか、日をおいてから、同じような質問を繰り返すことも多かった。

 ジョゼフたちの先祖の霊や精霊たちのことに興味があるらしく、その手の話になると、目が輝いていた。

 ただ、ジョゼフや他の村人は先祖の例や精霊たちについて聞かれても、あまり答えられなかった。

 この若者は図体こそでかくても大人になっていないし、たとえ大人になっていたとしても、それこそ何と答えればいいものか。

 見えなくてもそこにいる。なんでそれがわかるのかといわれても、困る。わからないし、見えないけれど、そこにいるのだ。昔からそう言われている。あたりまえのことを問われても答えるのは難しい。


 一年が過ぎる頃、若者はようやくカヌーを操れるようになった。

 ワニのいそうな場所と時間帯を避けることも知り、魚を採るのもうまくなった。

 近くの集落におつかいにやることもできる。この頃になると、おつかいを頼むと、若者は代わりに酒や煙草を駄賃として要求するようになっていたが、そのあたりもある意味、この集落の者に近くなっていた。

 それでもお人好しではある。若者のカヌーはジョゼフが結構な大金で譲ったものであることは冒頭に示したとおりである。相当に値切ってくるだろうことを想定してふっかけたら、思いの外に大金をよこしたのである。

「おまえは国に帰ってもカヌーを使うのか?」

 若者は首を横に振った。

 畑仕事も漁もそれなりにできるようになったのに、もったいないことだとジョゼフはつぶやく。

 若者はジョゼフのつぶやきを聞いて、少し顔を赤くした。

 

 仕事が多少できるようになっても、いや、仕事が多少できるようになってからのほうが若者の質問は多くなった。

 相変わらず先祖の霊や精霊たちが好きらしく、何度も何度も似たような質問を重ね続けた。

 ジョゼフだけではなく、村中で質問をし続けた。

「大変、面倒くさいやつだ」

 集落の長はそう言って、煙草に火を付ける。長は若者からせしめた煙草を大事にとっていたらしく、それを男たちに配った。

 〈男たちの家〉に集まった者たちが笑いながらコロンと舌を鳴らして同意を示す。

「ただ、まぁ、そこまで悪いやつでもない」

 ジョゼフのことばに長が舌を鳴らした。みっちりと葉の詰まった煙草をくゆらす男たちも、これを持ってきたのが誰なのか思い当たったのか、再びコロンという音を舌で奏でた。

「あいつを大人に男にしてやるか」


 大人の男になるためには、父と母が必要だ。

 父と母がいない場合は親戚がそのかわりを務める。

 若者に父と母はいるようだったが、呼び出すのは無理だという。だから、ジョゼフとマリーが父母役をやることになった。マリーは、この随分と遅れてできた新しい息子をかわいがっていたから、嬉しそうであった。

 二人は父母役というには歳を取りすぎていたが、それをいえば、若者とて周囲の大人になろうとする子どもに比べて一〇以上歳を取っているのだ。

 集落の大人たちは〈男たちの家〉にしまってある仮面を取り出すと、それをかぶり、ツタで編んだマントを身にまとう。それから、〈子どもを殺す〉棍棒を手にし、踊りながら外に出た。ずっと昔から変わらない踊りだ。どうせ、この踊りについても後で聞きたがるに違いない。ジョゼフはワニを模した仮面の中で口角をつりあげた。

 集落の中央に集められた男の子と男の子というには少々老けてしまった若者を取り囲むと、地面を棍棒で叩きながら、叫ぶ。

「お前たちは殺されるのだ! お前たち子どもは皆死ぬのだ!」

 子どもたちが泣き、周囲に集まってきた母たちが泣きわめく。

 大きく突き出た口吻と細長く黄色い目をした仮面は、母――泣きながら子どもに手を差し伸べる母のところに突進していく。

 子どもたちが食べられてしまった。子どもたちはワニに食べられて死んでしまった。母たちが泣き叫ぶ中、男たちは怯えた子どもたちを連れ去ると、〈大人になるための家〉に向かう。

「お前たちは、死んだ。お前たちは死んでいく。お前たちは死んでいる。これから、お前たちは、大人の男になる。大人の男は強くならなければならない」

 ツタをほぐして撚り合わせたムチで地面を打ち据える。ジョゼフが子どもの頃は、実際にムチで子どもたちを打ち据えたものだが、今はそのようなことはしない。

 ジョゼフは面越しに若者の顔を見る。実際に打ち据えられることを覚悟していたのかもしれない。若者の顔に安堵の表情が浮かんでいた。おかしなことに、そこにはどこか残念そうな感じも含まれていた。

 ――お前は昔のやり方を見たかったのか?

 問いかけたくなったが、無駄口を叩いている暇はない。若者も質問したくてたまらないだろう。ジョゼフの口元が少し緩んだ。

 面を被っていて良かった。ジョゼフは地面を思い切り打ち据えた。


 子どもたちと子どもというには歳を取りすぎた若者は、昼間は集落に戻って、家々や畑から食物を盗み食べ、夜は大人の男として知らねばならない世界の始まりから今までの出来事を唄い、学ぶ。

 カラクの樹液と泥を顔や上半身に塗り、食べ物を奪っていく彼らに集落の者たちは決して目をやらない。

 灯火のもと、発せられる歌声は集落まで届く。

 まだ年端もいかず集落に残っている子どもたちは、毎夜毎夜〈幽霊の叫び〉におびえていることであろう。

 九日が過ぎ、彼らは棍棒を振り回しながら、村を疾走するようになる。

 さらに九日が過ぎ、彼らはツタで編んだマントを身につけることを許されるようになる。

 その次の九日が過ぎたとき、彼らは仮面を被り、夜中に集落に走り、大人として広場の篝火の下、踊りを披露し、自信に満ちた顔つきで〈男たちの家〉に入っていくのだ。

「お前はどうして、そんなに踊りが下手くそなのかね?」

 ジョゼフは若者に問いかける。若者は首をかしげる。「僕らはあまり踊る習慣がないのです。ところで、この踊りには……」

 明日の太陽が出てくるまでは質問はお預けだ。ジョゼフはそう告げる。若者は笑顔でうなずく。


 若者は大人になってからも、もちろん質問を続けた。しばらく質問することを禁止されていた反動からか、矢継ぎ早に質問をするようになった。

 質問をするだけではなく、その中で、時折、若者は自分の考えを披露した。

 死んだ父母兄弟たちを先祖の霊にする儀礼によって、先祖の霊は別の世界の存在となるのではないかとか、ワニの精霊が川を流れていくなかでマリシネ集落の祖先と出会った事柄にはこれこれこういう意味があるのではないか。

「どれも面白い話だな。でも、わしにはよくわからないさ。昔からこうなのだから」

 若者は残念そうな顔で、ふっと息を吐く。

「昔からこうだ、では駄目なのか?」

 若者は首を横に振る。「駄目なんかではないです。でも、僕はついつい色々といらないことを考えてしまうのかもしれません」

 このあとも、時折、ジョゼフたちが気づきもしなかった面白い考え方を披露してくれることはあったが、それも次第に減った。

 常に小さなノートとボールペンを手放さず、事あるごとに写真を撮りたがるのは、ずっと変わらなかったが、それでも来た頃に比べ、随分と落ち着いていた。

 子どもを大人にする儀礼をしたからなのだろうとジョゼフは考える。

「お前も儀礼で子どもから大人になったな」

 若者が笑みを返す。

 よくわからないやつだし、面倒くさいやつだが、そこまで悪いやつではない。

 お互いに質問をして、お互いによくわからないまま、それでもやりとりを続けるのをジョゼフはそれなりに楽しんでいる。

「お前に質問をするのは、なかなか楽しい。いくら質問しても、何一つお前のことはわからないがね。お前もそうかね?」

 若者は微笑む。「案外、似た者同士かもしれませんね、僕たち」

 今度はジョゼフが首を横に振る番だった。

「照れなくてもいいじゃないですか?」

 ジョゼフは、若者の真似をして首を横に振り続ける。


 気がつけば二年が過ぎていた。

「お前はだいぶんここに慣れた。ここで大人としても認められた。いっそうのこと、ここに住むというのはどうかね?」

 ジョゼフの問いかけは、質問というより誘いのことばであったが、若者はやはり首を振った。

「帰ったら、もうここには来ないのか?」

 激しく首が横に揺れる。


 こうして、若者は帰っていった。

 一年ほど経った頃、ジョゼフとマリーのところに手紙が届いた。

 分厚い封筒の裏側には若者の名前が記されていた。

 封筒を分厚くしていたのは手紙に同封された幾枚もの写真だった。村で若者が撮り続けていた写真だけではなく、若者の故郷の写真もあった。故郷の若者の頭は相変わらずぼさぼさであったが、服は随分と小綺麗になっていた。色もまた白くなっていた。

 手紙には第二弾であると書かれていたが、第一弾は届いていなかった。郵便物がどこかに消えてしまうのは、ここで決して珍しいことではない。届くこともあり、届かないこともある。人間のことばも相手の耳に届くことも届かないこともある。郵便もそれと同じだ。

 若者の手紙は、そのあとも、ぽつぽつと飛び飛びで届いた。手紙の合間に本人がやってくることもあった。若者は前のようにずっと集落にとどまることはなくなったが、ぽつぽつと数年おきにやってきた。

 若者は若者でなくなり、ジョゼフは外に出るのが大変なくらいに足腰が弱っていった。


「お前は結局何になったのだ?」

 かつての若者は困ったような笑みを浮かべてから言った。「何かになれたのでしょうか。よくわかりません。あなたのこともあなたがたのこともわからないままでしょう。でも……ここで僕は大人になったし、それにあなたの友だちになれたかもしれません」

「友だち? お前が?」

 ジョゼフはわざと意地悪な口調で言葉を発し、かつての若者の白髪交じりの頭がうつむきそうになるところで、言葉を継いだ。

「友だちなんだ。冗談くらい笑って受け流せ」

 若者がコロンと舌を鳴らしてから、微笑んだ。

 最後までよくわからないやつだったが、まぁ、友だちなんだろう。

 それでいいではないか。

 ジョゼフは目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る