喚起する、歓喜するへの応援コメント
書き出し、すごく力が入っていますね。均整な美しさみたいなものを感じます。最初の一文なんか特に凄い。
「小さな島を流れるにはやや不似合いな大河をカヌーが走る。」
前提として「小さな島」と「大河」の対比関係があって、「流れる」「走る」も対の関係を作ってますよね。「やや不似合い」が構文の中央に来ると思うんですが、あんまり重くないワードなので、文章両端の対比関係の邪魔にならない。また、字面も「小」「不似合」「大」のような八の字に流れるタイプの字がドミナントカラーとしての役割を果たしている。めちゃくちゃバランスの良い一文です。
「◆◆◆」以降は、語り口が一気にしなやかになって、柔軟性を増すんですが、文体の使い分けの妙を感じました。書き出しは「僕」が自動筆記のような文字を整えながらデジタルに打ち込んでいった、という性質が強いと思うんですが、以降はジョゼフの内面に入り込んだような語りとしての性質が強くなる。「ジョゼフと若者」には、世界の層が二つあるように感じられます。「僕」が書いたテキストとしての世界と、ジョゼフが本当に動き出して若者と交流している世界が。
そう考えると「あなたは」でまた文体が変わっているのにも意味を感じられますね。ここでは「あなたは」と語り掛ける語り手がいるだけですが、ちゃんと作品の外に「あなた」と呼び掛けられる存在はどんな語りをするのだろうと想起し期待させられるような指向性がある。
緩やかな自由さを持ちながらも、構造に強さを持った作品だと思いました。
また、作品内の物語のリレーの構図なんですが、かなり広義に考えると
←「皆」←「ジョナサン」←→「僕」→「ジョゼフ」→「あなた」→読み手→
みたいな波紋めいた構図が生まれますよね。「僕」と「ジョナサン」の二人だけの関係から、より広いところより遠いところへとどこまでも受け継がれていく。
最初読んだときはジョゼフと「僕」両方の視点が入っていることから、一見、双方向の関係性が意識された作品なのかなと思ったんですが、単にそれだけではなかったというわけです。すると作品タイトルや話タイトル、キャッチコピーの全てがめちゃくちゃしっくりくるようになって興奮しました。
密林での民俗学ものという点では『胡蝶』と共通することもあると思うのですが、作品がしていることそのものは大部違うと感じました。『胡蝶』では、どちらかというと外界から来た若者が密林の世界の原理から何をどう受け取るかという側面が強かったですが(恐らくそれゆえに『胡蝶』の彼の試みは「スパイ」と呼ばれたり挫折したりするのですが)、『Fabula Nos Benedicet, Mundum Benedicemus』ではジョゼフや「あなた」といった人々が「僕」から何をどう受け取るか、更に他の人が「あなた」やジョナサンから何をどう受け取るかみたいなところにも強いスポットライトが当てられています。こうして比較すると、本作を書いてくださったのはめちゃくちゃ光属性かつ祝福属性の黒石さんだなーっとしみじみ感じます。
また、二者のやり取りから「あなたへ」の第三者へと物語が手渡され、その第三者がまた物語を書く……に代表されるような、つながり、受け継がれる構図は、ある種祝福の原義に近いところがあるんじゃないかなと思います。わたし、祝福って未来への指向性というか直線的な性質を持っているものだと思っているんですが(例えば「はなむけ」という言葉から読み取れるようにです)、波紋のように祝福が広がっていく本作は、王道であり王道ゆえに強いタイプの祝福に真正面からがっぷり組み合った作品だと思いました。
細部としては、口承、紙、データへの向き合い方も好きなんですよね。「指も匂いも臭いもなくしてしまったのと同時に自由さ、気ままさも失ってしまったような小難しい文章ばかりであった。」とはありますが、小説全体を見るとそんなに否定的ではないんです。不自由さも込みでそれぞれの特性を受け入れていくような感触がある。それはジョゼフや「僕」がわからないままに相方を受け入れたのに通ずるところがあるように感じられるんですよね。
余談にはなりますが、ジョセフ視点の若者がめちゃくちゃかわいいですね。そりゃあジョセフを始め色んなひとが彼を気に入って面倒を見るわけだと思えるような愛嬌があります。みんなから可愛がられる説得力がはちゃめちゃにありました。
あと、タイトルがラテン語なのいいですよね。街の言葉でも学校の言葉でも、「若者」の国の言葉でもなく。物語→わたしたち→世界へと祝福が受け渡されていくに当たって、密林と日本、海の向こうで完結しないような豊かさがある。それはヘンリー・ダーガーが挟み込まれることにも繋がっていると思うんですけど、つながりは必ずしも一対一ではないのです。ジョナサンから多くを受け取った「僕」の中にはジョナサンしかないわけではなくて、他の人や本から受け取ったものも彼の人生には確かにある。そういう風に考えると、波紋の構図は単なる同心円ではなく、幾つもの同心円が絡まり合うような、もっと複雑でもっと広大なものになるでしょう。という妄想をしました。こちらの小説、こんなに緻密なのに無限に広がるような広さがあるの凄いですよね。限界みたいなところを一切感じさせない。
そしてこれは雑談めいたものになるんですが、黒石さん、バルガス・リョサの『密林の語り部』って読まれたことありますか? 『胡蝶』や『Fabula Nos Benedicet, Mundum Benedicemus』を読んでいると、黒石さんが『密林の語り部』を読まれたらどんな感想を抱かれるのかなーと思うことがしばしばあるのです。
密林の民俗学という舞台というか、ジャンルというか、そういった部分では近いものがあると思うんですけど、作品自体のアプローチみたいなのにはけっこう違うところもあって。個人的に比較しながら読んで楽しむことがあります。
黒石さんが『密林の語り部』通過済みか未通過か存じ上げないのでネタバレめいたことは書けないので、深入りはしませんが、主人公が研究対象にどういう姿勢で向き合うかなど、読んだ後に「ああ! 『胡蝶』とかのあれは黒石さんのカラーだったんだ!」と気付けるような楽しさがあります。
話が二転三転してしまいましたがともかく、素敵な作品をありがとうございました!!!
この作品を拝読できて、嬉しかったです。
作者からの返信
藤田様
コメントありがとうございます。
こんなに読んでいただいて、こんなに書いていただいて、嬉しい限りです。
まずは心から御礼を。五体投地したまま、嬉しさでくねくねしてどこかに転がっていってしまいそうです。
さて、何からお返事していけばいいものか。
>書き出し
藤田さんから、「力が入っている」と言っていただけると嬉しいなぁ。藤田さんの小説の書き出しの真似はなかなかできないのですが、以前より書き出しに敏感になりました。
私、どういうわけか、密林が好きなんです。生と死、聖と俗がみっちりと詰まっているようなイメージが湧いてくるんです。
実際にそこで暮らしている人にとっては、勝手なイメージの押し付けって言われそうとも思うのですが、その反面、エイモス・チュツオーラとか読んで(最近になって初めて読みました)みると案外間違ってもいなそうな気もします。
私のイメージの中での密林は何がおこっても不思議ではない場所で、聖なるものや異界みたいなのが色濃く出ると以前書いた『胡蝶』にみたく、同じ聖なるものでも祝福、そして喜びみたいなのが全面に出てくると今回の『Fabula Nos Benedicet, Mundum Benedicemus』のようになるのかもしれません。
とはいっても、私は相当意識しないと暗い方に話が流れていってしまう癖があります。
だから、執筆途中、若者はワニに食われそうになったり、イニシエーション中に死んだりしそうになったりして大変でした。このままじゃ前書いたのと変わらないじゃんと思いつつもなかなかどこか得体のしれないところに連れ去られそうになる若者を救ってくれたのが、今回の裏テーマでした。「祝福としての文学」という裏テーマのおかげで若者は無事帰国し、ゆるやかにつながるお話になりました。
>波紋の構図は単なる同心円ではなく、幾つもの同心円が絡まり合うような、もっと複雑でもっと広大なものに
自分でもよく言語化できていなかったところで、藤田さんのご指摘をうけて、ああ、そうだよ、私はこんな話が書きたかったんだよと、思わず膝をうちました。
それぞれお互いがよくわからなくても、すこしずつなにかしらでつながっていく。それはとても素敵なことなんじゃないかなと。それにしても、波紋のイメージは美しいですね。
あとはわからなさ。
今回は、わからなさをどこか幸せなものとして描けたらいいなと思っていました。
というわけで、ラテン語を使ってみたり、ヘンリー・ダーガーを呼び出してみたり、若者のことばをたどたどしくしてみたり、色々と試みてみました。
>『密林の語り部』
未読です。海外文学をあまり読まずにここまできてしまいました。
ただそれこそ波紋みたいな広がりは、私のところにもやってきていて、実は藤田さんがおすすめされていたジャミル・ジャン・コチャイ『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』を読み始めたところです。
ここのところ、どういうわけかマジックリアリズムと評されることがある海外小説をよく手に取っていて、閻連科『丁庄の夢』、チュツオーラ『やし酒飲み』ときて、この前ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読み終えたのです。ディアスの本の中でバルガス・リョサの名前が何度も出てきて気になり始めていました。
いろいろと素敵な作品を読みたくなるような感じで名前をあげてくださって、それが私の読書に大いに影響しているのですから、これもまた波紋のような広がりですね(波紋が気に入ってしまって使いまくっています)。
今回も『密林の語り部』読みたさに狂おしくなってきました。
うふふ、ありがとうございます。
最後に今回の企画、お疲れ様でした。
藤田さんの力の入った一連のコメント拝読して、脱帽の思いです。
どの作品も読み込んで良いところを素敵な言葉で記していくのは、とても時間をかけられたことと思います。
五三六Pさんも繕光橋てゃ(色々あって「てゃ」呼びさせていただくことになりました)も素敵なコメントを紡がれていて、他の参加者の方々の作品を読むとき、コメント込みで楽しませていただきました。
第一回まやかしの小説広場、参加させていただいてとても楽しかったです。
評議員(? あるいはメンバー)の四名の方々には御礼申し上げます。ありがとうございました。
喚起する、歓喜するへの応援コメント
素敵な話でした。島で暮らすジョゼフはある男と出会い、異文化を通じて絆を深め合っていく。わからないまま友達になれた、というのはとても印象的で、理解できなくても繋がりをもてるという希望を感じる部分でした。
第二部と第三部では視点が移り、わからないことが増えます。そんな中でも創作の喜びや届かなくてもそれでいいという諦観が書かれ、様々な余白、考える余地を感じます。それこそが「わからなくてもいい」ということとつながっているように感じました。
時系列的に言えば2話が最後に当たるのでしょうが、私はもうこの話を読んでいるのでそれはボトルメッセ字が届いたようなもので、それこそが祝福なのだと思いました。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
>時系列的に言えば
ご指摘の通りで、最後の最後で2話と3話を入れ替えました。
昔読んだ小説を読み直して、ああ、あのとき、全然読めていなかったなぁと思いながらも、あのとき感じた楽しさやわくわくは色褪せていないなんて経験がよくありまして、なんか、色々ともがきながら書きました。
書く方でも、毎回、ああ、うまく書けなかったなぁ、うけなかったなぁと思うのですが、それでいながらも、それでも書くのは楽しいもので。
そんな諸々を詰め込んだセルフ祝福の作品ということで。
書いているうちに自分でもよくわからくなってきましたが、それもまたテーマということで(^o^)
喚起する、歓喜するへの応援コメント
「読める、読めるぞ!?」(ムスカ風)
黒石先生にとっての祝福って「そっち派」なんですね。多分僕は近しい考え方をしているかもしれません。
この祝福の描き方。一対多、自分から外界へ向けて、祝福の方向性が拡散されています。これを文学に落とし込もうとすると薄ーく薄くなりがちですが、それを補う筆力があるので「思いの総量」が小説内に蓄えられ、まとまって保たれているのではないかと思いました。
これほど思いを傾けて書いてくれてありがとうございました。それとも、書き足りなかったでしょうか?
物語について、1,3の写実的な文体の中に散文詩的な2が埋め込まれ、一見すると「紡ぐつながる紡ぐ」というキャッチを現すアクセントとして見えます。しかし僕はこの2章目を前後の章と「親和性を持った」領域として捉えました。それはただボトルメールが題材だからというのではなく。僕がかつて審査員の辰井さんに指摘された「空白(沈黙)こそ雄弁に空気を語る」という仕掛けが、この章をまるまる使って書き出されているように感じます。
だからこそ、これは枠物語でなく、これ自体を一つの作品としてお出しされたのではないでしょうか。
とても小説らしい小説でした。ただ、同氏が一番力を発揮できるのは一章目のような小説だとも思いました。
書架番号368n号より。
作者からの返信
きゃー、嬉しいコメントたくさん。
ありがとうございます!
実のところ、祝福をどのように捉えていたのかは、自分でもよくわかっていなくて、繕光橋さんに言われて、自分の中の言語化できていなかった部分が整理できそうな気がしてきました。
「思い」はどこかに届き、火を灯す。
もちろん、それは悪意が燎原の火のごとく拡がっていくなんてこともあるでしょう(最近まとめてポストトゥルース系言説を扱った本を読んでいたので、そちらの例のほうのストックがたくさんあります)。
ただ、そちらに流れてしまったら、祝の示偏が口偏になってしまうので、別のものを提示したいなとか考えていたのかもしれません。
そう考えると、タイトルは予祝でもあり、意思表示でもあるのかもしれません。うーん、いろいろ考えてるな、私の潜在意識。
抽象的な(裏)テーマには、いつもひーひー言わせられるのですが、同時にとても楽しんでもいます。だから、書き足らなかったということはなく、書ききったと爽やかな思いです。発表したあとに、「もっとうまく書けたかも」と思い悩むのが常ではありますが。
>2章目を前後の章と「親和性を持った」領域として捉えました
おそらく、私も同じようなつもりで書いた気がします。
真ん中が軸(あるいは締め)で、1話をあとから書いたのです。
私は常に妄想で外国や異界をさまよっているところがあるので、1話目みたいな「ここではないどこか」の描写がたくさんできるのは書いていて楽しいもので、これはこれで頭の中の妄想映像をなるべく丁寧に写していったつもりです。だから、1話目ほめていただけるの、これまたとても嬉しいです。
読み込んでいただき感謝感激でございます。
喜びのリンボーダンスを奉納しちゃいます。
あ、最後に1つだけ。
「先生」は気恥ずかしいのでやめてください。
「ちゃん」か、「さん」か「てゃ」がいいなぁ。
喚起する、歓喜するへの応援コメント
黒石さん、私がこれまで読ませてもらった範囲では、あなたの最高傑作だと思います。しかし、きっと次がある。次の作品なのか、次の次の作品なのか、分からないけれど、最高傑作はそう遠くないうちに塗り替えられるのだろう、そんな予感に満ちた作品でした。
これまで黒石さんは過去の、学生時代のことばかり書くと思ってきました。私は正直、「もう先に進めばいいのに」と思っていました。しかし、違うのだと、違ったのだと思います。
作家には、世界から物語を引き出す根源的な穴がそれぞれにあって、黒石さんの場合、その穴が学生時代やフィールドワークの時代に開いているのだと思います。だから、一度そこに帰っていくのは当然で、そこから黒石さんは無限に物語を紡げるのだと思います。
それは、「だとするなら、もう学生時代やフィールドワーク時代と一見して全く異なるものも書ける」に繋がっているのですが、そちらに行くかどうかは黒石さんの望み次第なのだと思います。
なぜ黒石さんがこれまで学生時代の話をフィールドワークの話を大切に大切に書いてきたのか、そしてそこに罪悪感を滲ませてきたのか、今なら分かる気がするだなんて思うけれど、多分分かっていないのです。
でも、瓶は届いたよ。世の中には素晴らしい物語が満ちていて、だから、私一人で戦わなくていいのだと、そう思えました。ありがとうございます。
作者からの返信
辰井様
コメントありがとうございます。
最高傑作、それが塗り替えられるなんて言っていただけると、嬉しくて、嬉し涙やら嬉ションやら色々と漏れ出そうです。
学生時代の頃の話ばかり書くというのは、言われてみて実ははじめて気が付きました。
多分、歳を取ると日々が穏やかに、それでいながら高速で流れていくからかもしれません。
若い頃の尖っていて、日々異なる刺激の中でがむしゃらに動いていたのが懐かしいのかもしれません。
歳を重ねてからのなにもない穏やかな暮らしはとても素晴らしいもので――ですから期待しながら楽しんで歳を重ねられてください、おいちゃん(今回だけは)嘘吐きません――、日々それを満喫しているのですが、だからこそ、あの頃感じていて書けなかったこと、若い人たちの話を書きたくなってしまうのかもしれません。
(中年男性が犬をマッサージしているうちに1日が過ぎるという小説を書くだけの筆力がないだけかもしれませんが)
だから、過去のことばかりという理解も、それはそれで的確なご指摘なのだと思います。
別の話を書くのかといえば、多分書いていくのでしょう。どのようなものができあがるか、書いてみたら、また同じ話かなんてことはあるかもしれませんが。
そういえば、昔、識字障害のある子に関わった経験があります。
ひらがなの形の区別がつきにくくて、1文字1文字たどっていっても「は」を「け」と読んでしまったり。
それでもお気に入りの本があって、その一部分だけを繰り返し繰り返し、読んだり眺めたりしている。そんな姿が記憶に残っています。
だから伝わり方はどのようなものであっても、誰かに何かは届くのだろう。それは祝福という言葉にふさわしい素晴らしいことなのだろうとか思っています。
瓶、いろいろなところで行き交っていますよね。
私のところにも、辰井さんを含めたくさんの方々が流していった瓶が届いていますし、それが私の中で消化されて、別の瓶になって送られていくのかもしれません。