第7話
陽菜の笑顔に少しだけ勇気をもらったものの、胸の中にはまだ迷いが渦巻いていた。陽菜の「応援するよ」という言葉が、嬉しい反面、その優しさが彼女を巻き込んでしまうのではないかという恐怖も生まれた。
「陽菜、ありがとう。でも……」
言葉を続けようとして止めた。陽菜を巻き込みたくないと言えば、彼女は「そんなこと気にしない」と笑うだろう。けれど、俺は陽菜の「空白」の中にある自由さを守りたい。それが俺にできる、唯一のことかもしれない。
「でも、何?」
陽菜が小首をかしげて聞いてくる。その目は純粋に俺の話を聞きたがっていた。
「いや、何でもない。とりあえず、あの男について、もう少しだけ知りたいんだ。それだけ」
俺が笑ってごまかすと、陽菜は少しだけ不安そうな表情を浮かべたが、すぐに笑みを戻した。
「わかった。無理しないでね。篠宮くんが決めたことなら、私、信じてるから」
その言葉が胸に響いた。陽菜は俺の数字を見ることはできないけど、俺を信じてくれる。その事実だけが、今の俺を少しだけ支えている。
翌日、俺はあの男の姿を探して街を歩いていた。善意99が放つ異常な輝きをもう一度見なければいけない気がしていた。あの数字の裏には、何かが隠れている。俺にはそれを知る必要がある。
しばらく歩き回った後、ついにあの男を見つけた。彼はビルの前で誰かと話している。周囲の人間の好感度が異常に跳ね上がっているのが見えた。
俺は慎重に距離を保ちながら彼を観察した。善意99の数字は相変わらず強烈だ。その数字が放つ光が、人々を引き寄せているように見えた。
すると、突然、彼がこちらを振り返った。
「また君か」
その冷たい目が俺を捉える。彼は薄く微笑みながら歩み寄ってきた。その善意99という数字が、まるで俺に迫るように輝いている。
「君は本当に、僕に興味があるんだね」
俺は視線を逸らさず、言葉を選びながら答えた。
「……あんたの数字が、普通じゃないからな」
彼の表情がわずかに変わった。興味深そうな目つきになり、少しだけ口角を上げた。
「なるほど。君は“見える”んだね」
その言葉に、心臓が跳ねた。俺の能力を、この男は知っている?そんなはずはない。俺がこのことを話したのは誰にも、陽菜にすら伝えていない。
「……どういう意味だ?」
「簡単なことさ。僕の数字を理解しているのは、君のような人間だけだからね」
彼の言葉に、背筋が凍る感覚を覚えた。この男は、俺の「見える」能力を知っている。それだけではない。この能力を共有する存在が他にもいるのか?
「君が知りたいなら教えてあげよう。僕の数字が何を意味しているのか、そしてそれをどう使うのかをね」
彼は静かに手を差し出した。その善意99の数字が、まるで俺を飲み込もうとしているように見えた。
「ついておいで。君に僕の世界を見せてあげる」
俺は息を呑んだ。その手を取れば、俺は今まで知らなかった何かに足を踏み入れることになる。その先に待つのが何であれ、戻れなくなるかもしれない。
だけど――陽菜が言った言葉が頭をよぎった。
「自分で選ぶんじゃない?」
俺は自分の拳を握りしめ、彼を見つめた。
「……あんたが何を企んでいるのか、確かめさせてもらう」
そう言って、彼の手を取った。その瞬間、善意99がさらに眩しく輝き、世界が一瞬で変わった気がした。
彼は満足そうに笑った。
「いい選択だ、篠宮くん。さあ、僕の世界を見に行こう」
俺の視界の数字が、いつもと違う形で歪み始めていた。何かが、確実に動き出していた。
彼の手を取った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
善意99の光がまるで生き物のように動き出し、俺の目に突き刺さる。その光は鮮やかすぎて痛いほどだったが、目を逸らすことができなかった。彼の手が俺を引っ張り、次の瞬間、世界が一変した。
気がつくと、俺は見たこともない空間に立っていた。薄暗い空間の中で、数字が無数に浮かび上がっている。それは人の頭上にある「好感度」や「善意」のようなものではなく、数字そのものが宙に漂い、一定のリズムで脈打っていた。
「ここは……?」
言葉が自然と口をついて出た。声がやけに反響する。数字が周囲を埋め尽くし、息苦しさすら感じる場所だった。
「ああ、驚くことはない。これは、僕の世界だよ」
あの男の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼はいつものように微笑みながら立っていた。その姿だけは変わらないが、彼の周囲に漂う善意99がまるで炎のように揺れている。
「君が見ているのは、僕が集めた数字のほんの一部さ。これを使えば、世界はもっと効率的になる。もっと美しくね」
彼の言葉に背筋が冷たくなった。「効率的」という言葉が、どこか不吉に聞こえた。
「……これは何なんだ?この数字たちは?」
彼は少し顔を傾け、楽しそうに答えた。
「人間の感情、行動、欲望……それらのすべてが数字として還元される。それを集めて統制すれば、この世界はもっと秩序立つと思わないかい?」
「秩序……?」
その言葉に、俺は胸の奥に警戒心が芽生えるのを感じた。彼が言う「秩序」が何を意味するのか、それがどう人間に影響するのか、考えたくなかった。
「おかしいだろ……人間は数字だけじゃない。数字で割り切れないものがあるんだ」
俺の言葉に、彼は微笑を崩さなかった。それどころか、より楽しそうに見えた。
「君もそう思うのか。だとしたら、君は僕と似ているよ」
「……何?」
彼の言葉に、思わず身構えた。似ている?俺とこいつが?
「君も数字を見ることができるんだろう?その視点からすれば、人間は数字でできているように見えるはずだ」
その言葉に、否定することができなかった。確かに俺の視界に映るのは数字ばかりだ。好感度、善意、悪意――それらが人間のすべてを決めているように見える。でも、それだけではないことを俺は陽菜を通じて知った。
「違う……俺は数字だけで人を見ているわけじゃない」
「それでも君はその能力を使い続けている。否定することはできないよ」
彼の言葉に息が詰まった。確かに、俺は数字を頼りにしてきた。それがなければ、俺はもっと無力な存在だったからだ。でも、だからといって――
「それで?この数字を使って、あんたは何をする気なんだ?」
俺は問い詰めるように尋ねた。彼の善意99が、目の前でさらに大きく輝きを放つ。
「簡単なことだよ。僕はこの世界をもっと効率的で幸福なものにする。それだけだ」
「効率的で幸福な世界……?」
「そう。人間は時に無駄な感情や行動で自らを不幸にする。でも、すべてを数字で管理すれば、その必要はなくなる。善意も悪意も、適切に分配されれば、すべてが最適解に収束するんだよ」
その言葉に、俺は嫌悪感を覚えた。彼の言葉には冷たさしかなかった。それが「善意99」という数字から発せられていることが、余計に不気味だった。
「それで人間を幸せにできると思ってるのか?」
俺が問い返すと、彼は微笑を浮かべたまま答えた。
「もちろんさ。なぜなら、人間は感情よりも合理性を求める生き物だからね」
その瞬間、俺は拳を握りしめていた。この男は間違っている。数字がすべてじゃない。陽菜が教えてくれた「数字のない世界」の自由さを、この男は理解していない。
「……そんなの、間違ってる」
俺の声は震えていたが、はっきりと言葉にした。彼の表情がわずかに変わる。興味深そうに、少しだけ驚いたように。
「間違っているか……君がそう思うなら、それを証明してみたらどうだい?」
彼の言葉に、俺は一瞬息を飲んだ。
「僕はこれからさらに数字を集め、完璧な秩序を作る。君はその結果を見て、それが正しいかどうかを判断すればいい」
彼はそう言い残し、背を向けて歩き始めた。その背中に漂う善意99が、最後に一度だけ振り返るように輝いた。
「君が僕に立ち向かいたいなら、君自身の数字で僕に挑んでみるといい」
その言葉が耳に残ったまま、視界がまた歪み、元の街の風景に戻っていた。
俺はその場に膝をついた。何も分からない。ただ一つだけ分かるのは、このままではいけないということだ。
「……陽菜に相談するべきか?」
その考えが頭をよぎったが、陽菜を危険に巻き込むことへの恐怖がまた俺を縛る。それでも、陽菜が教えてくれた「数字のない世界」の感覚が、今の俺の唯一の救いだった。
「どうすれば……?」
俺は歪んだ世界の感覚を引きずりながら、その場で答えを探していた。
俺は膝をついたまま、街の喧騒の中で一人取り残されたような感覚に襲われていた。善意99を背負ったあの男、彼の言葉が頭の中で何度も反響していた。
「君が僕に立ち向ち向かいたいなら、君自身の数字で僕に挑んでみるといい」
数字で挑む?どういう意味だ?俺の「見える」能力は、ただ数字を認識するだけだ。それをどうやって彼のように「使う」ことができるというんだ?
拳を握りしめ、頭を抱えながら考える。もし、あの男の言う「数字を使う」という言葉の意味が、数字そのものを操作することだとしたら……俺にはそんな力はない。
「でも……何かしないと」
立ち上がりながら、心の中でそう呟いた。このまま放置すれば、あの男が「秩序」と呼ぶものが、人々を支配していくのをただ見ているだけになる。それは絶対に許せない。
次の日、俺は陽菜に会いに行くことを決めた。彼女に何を話すべきかは分からない。それでも、今の俺には彼女の「空白」が必要だった。
例の通りでスケッチブックを抱える陽菜を見つけた瞬間、胸が少しだけ軽くなった気がした。彼女の「数字のない」存在が、どれだけ俺を救っているのか、今になってようやく分かる。
「篠宮くん! また会えたね!」
陽菜の声が風に乗って届いた。
俺の目の前で、いつものように彼女が笑っていた。大きく手を振る姿は、まるで空の青さに溶け込んでいくようだった。
その笑顔を見て、俺は一瞬だけためらった。
この話を、今ここで陽菜にしてもいいのか。
彼女を巻き込むことになる。だけど、俺一人では……進む勇気が持てなかった。
「陽菜、少し話をしてもいいか?」
真剣な声が自分の口から出たのが、自分でも驚きだった。
陽菜は目を見開いたけれど、すぐに頷いた。
「うん、いいよ。何かあった?」
俺は少しの沈黙の後、あの男との出来事を語り始めた。
善意99、彼の思想。数字による支配の構想――そして、俺に「挑んでみろ」と言い放ったあの夜のことを。
言葉がすべて終わったとき、陽菜はしばらく黙っていた。
けれど、彼女の顔に浮かんでいたのは困惑ではなかった。怒りだった。
「……ねえ、篠宮くん。それ、一人で決めたの?」
その一言に、俺は言葉を失った。
陽菜の声には怒りと、そしてかすかな悲しみが混じっていた。
「“一緒にやる”って、言ったよね? 私、そう言ったはずなのに……なんで一人で抱えようとしてるの?」
「……でも、お前を巻き込みたくなかったんだ」
「巻き込むって何? 私は最初から、もう巻き込まれてるの。自分から入ったのよ!」
声が震えていた。陽菜の目には、涙がにじんでいた。
「篠宮くんが戦うって決めたなら、私も戦うよ。怖いけど、それでも……私、篠宮くんのそばにいたいの」
まっすぐ俺を見つめるその目に、嘘はなかった。
俺はようやく、素直に言葉を吐き出すことができた。
「……陽菜、ありがとう」
陽菜はふっと微笑みながら、そっと胸に手を当てた。
「篠宮くんが見えてるもの、私、わかるよ。私にも、人と違うものが見えるの」
「え……?」
思わず聞き返す。陽菜の言葉は続いた。
「数字ってね、私には全部ノイズに見えるの。時間も、お金も、善意も悪意も……全部意味がない」
俺の世界と正反対の感覚だった。
「でもね、代わりに私には“気持ち”が見えるの。怒りは赤く尖ってて、優しさはふわって金色で……」
その言葉が、胸の奥に波紋を広げた。
「篠宮くんの中にも、それがあるの。あの絵にも、私への言葉にも。数字で測れないものがね」
「でも、だから怒ってるの。一緒にやるって言ったのに、私を信じてくれなかったの?」
「……違う。巻き込みたくなかっただけで――」
「違うわよ。私はもうここにいるの。同じ場所に、ちゃんと立ってるの。見えてるものが違うだけで、戦えるんだよ、私も」
その声に、俺の迷いは焼き払われていった。
陽菜は、静かに、でも確かに言った。
「篠宮くんがあの人に立ち向かうなら、私、応援するよ。だって、篠宮くんには……数字じゃないものがあるもん」
「数字じゃない……もの?」
「そう。私が描いたスケッチ、篠宮くんがくれた絵……全部、数字の外にあるでしょ? それを信じてみて?」
陽菜の言葉が、心に深く沈んでいった。
俺の描いたあの絵。数字じゃない、感情の産物。あの男には、それがなかった。
「……陽菜、ありがとう」
陽菜の笑顔が、今の俺を支えていた。
その夜、スケッチブックを開いた。
あの男を描いたページを見て、ゆっくりとページをめくる。
「数字じゃなく、俺自身の何かを信じる……」
呟きながら、ペンを取った。描き始めたのは、陽菜だった。
数字のない存在。自由で、何者にも縛られない笑顔。
描くたびに、胸の奥で何かが芽吹いていく。
あの男に対抗する鍵――それは、俺自身の中の「数字の外側」にある。
「俺にだって、きっと何かがある」
描き終えた陽菜の姿を見て、俺は拳を握った。
次にあの男と会うとき、俺はもう数字に頼らない。
陽菜が信じてくれた“俺自身”で、挑むつもりだった。
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