第5話

 翌朝、目が覚めた瞬間、昨日の陽菜の笑顔とスーツの男の冷たい目が交互に脳裏に浮かんだ。あの男が放つ異様な「善意99」の輝き。その裏に何が隠れているのかを考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。

 

 陽菜の空白と、あの男の異常な数字。どちらも俺の「数字が支配する世界」では説明がつかない。何かが確実にずれている。でも、そのずれの正体が分からない。俺はただ、その中で翻弄されているだけだった。

 

「……考えたって仕方ないか」

 

 そう自分に言い聞かせ、顔を洗い、仕事の準備をする。けれど、手元はどこか落ち着かず、さっき見た陽菜の絵のことを思い出していた。あのぎこちない線が、昨日陽菜に「ありがとう」と言われた瞬間に少しだけ愛おしくなった。

 

「また偶然会えるかな……」

 

 つぶやく声は誰にも届かない。けれど、その「偶然」を期待している自分がいることに気づいた。

 

 仕事を終えた帰り道、俺は昨日と同じ場所をゆっくり歩いていた。陽菜に再び会えるとは限らない。でも、どうしてもその可能性を捨てきれなかった。

 

「篠宮くん!」

 

 ふいに背中から名前を呼ばれた。振り向くと、陽菜がスケッチブックを抱えて走り寄ってくるところだった。その顔は昨日と同じように明るい笑顔で満ちていた。

 

「また会えたね!ほんとに偶然だ!」

 

 陽菜が笑いながら立ち止まり、スケッチブックを胸に抱える。その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 

「また偶然……だな」

 

 俺もぎこちなく笑うと、陽菜は満足そうに頷いた。

 

「篠宮くん、私ね、昨日の絵すごく嬉しかったから、今日はお返しを持ってきたんだよ!」

 

 そう言ってスケッチブックを開くと、そこには俺の姿が描かれていた。俯き加減で無表情な俺が、陽菜の優しい線で描かれている。まるで昨日の俺を見透かしたような、その絵に俺は言葉を失った。

 

「……これ、俺?」

 

「うん。昨日の篠宮くん、なんだか守りたいものを抱えてるみたいに見えたから、描いてみたんだ。どうかな?」

 

 陽菜の言葉に胸が詰まる。数字しか見えていなかった俺を、陽菜は数字を超えた何かで捉えてくれた。その事実が、妙に重く、そして心地よかった。

 

「……ありがとう。なんか、すごいな……」

 

 それしか言えなかった。陽菜は嬉しそうに微笑んだ。

 

「絵ってね、不思議だよ。描くことで、自分でも知らない気持ちが見えてくることがあるんだよね。篠宮くんも、昨日の絵、そうだったんじゃない?」

 

 俺は言葉に詰まりながらも頷いた。確かに、あの絵を描いたことで、自分の中の数字に囚われない感情を少しだけ掴めた気がしている。

 

「でも、陽菜……なんで俺なんだ?」

 

 俺は思わず聞いていた。陽菜は少し首をかしげ、困ったように笑った。

 

「なんで、かな?でも……篠宮くんが数字ばっかり気にしてる感じがしたからかも。なんとなく、それじゃ窮屈だなぁって思っただけ。」

 

 その言葉が、俺の中で何かを突き崩した。数字ばかり気にしている俺。陽菜にはそれが見えている。数字が見えない彼女の方が、数字に縛られた俺の本質を見抜いているなんて。

 

「窮屈か……」

 

 その言葉を反芻しながら、俺は陽菜を見つめた。その空白に満ちた笑顔が、どこまでも自由に見えた。

 

 そんな中、ふと陽菜の表情が変わった。目線の先を追うと、スーツの男――あの「善意99」の男が通り過ぎていくのが見えた。

 

「あの人……」

 

 陽菜がぽつりとつぶやく。彼女の声に何か引っかかりを覚えた。

 

「知ってるのか?」

 

「ううん……知らない。でも、なんか怖い感じがするね。」

 

 怖い。陽菜がそんな言葉を口にするなんて。それだけで、俺の胸がざわついた。

 

 陽菜が「怖い」と言ったあの男が何者なのか。その正体を知るべきだという気持ちが、心の奥で静かに芽生え始めていた。

 

 

 

 陽菜の「怖い」という言葉が耳に残った。陽菜が何かを怖がるなんて想像もしていなかった。その無防備な笑顔の奥に、あの男に対する何か得体の知れない感覚があるのだとしたら――それは俺の中で何かを強く揺さぶった。

 

「怖いって、どういうことだ?」

 

 思わず尋ねると、陽菜は少し困ったように笑って首を傾げた。

 

「うーん、上手く言えないけど……あの人、見た瞬間に、なんか胸が詰まるような感覚があったの。私、普段そんなこと感じないんだけどね。」

 

 胸が詰まる感覚。陽菜がそう感じたのなら、それはきっとただの直感じゃない。数字が見える俺には、「善意99」の異常性がはっきり分かっている。でも陽菜には数字は見えない。その彼女が不安を覚えたのだとしたら――あの男には、目に見える数字以上の何かがある。

 

「……あの男、普通じゃない」

 

 俺がつぶやくと、陽菜は驚いたように俺を見た。

 

「篠宮くんも、そう思うの?」

 

「いや……ただ、なんとなくね。」

 

 本当のことを話すべきか迷った。でも、数字のことを話せば、きっと陽菜にも俺がどうしようもない奴だって思われる。だから、話せなかった。ただ、あの男が「異常」であることだけは確かだ。

 

「気をつけた方がいいよ。あの男、何か分からないけど、普通じゃない気がする。」

 

 陽菜は少しだけ目を伏せ、考えるように黙った。そして、何かを振り払うように明るい声を出した。

 

「そっか。そうだね、篠宮くんもそう言うなら、あの人には近づかないでおこうかな!」

 

 その無邪気な笑顔が、逆に胸に刺さった。俺は、陽菜が何も知らないまま、危険に近づかないでいてくれることを願った。

 

 陽菜と別れた後、俺は一人で街を歩いていた。視界にちらつく数字を無視することはできなかった。善意や好感度、精神力――どれも数字として俺に見える。それがいつも俺を縛りつけてきた。

 

 でも、あの男の「善意99」はそれ以上だった。あの数字は輝きすぎている。人間の善意はそんな単純に測れるものじゃない。何かがおかしい。

 

 俺はもう一度、あの男の姿を思い浮かべた。その冷たい目。数字とは裏腹の、冷淡な空気。そして周囲の人間が彼に引き寄せられるような異様な光景。

 

「一体、あの数字の裏には何がある……?」

 

 初めて、数字を見る能力が「役立つ」と思った。この目であの男の本質を見抜かなければ、陽菜が言った「怖さ」の正体も分からない。

 

 数日後、俺はまた街であの男の姿を見つけた。善意99を放つ異様な輝きは変わらない。その周囲にいる人間たちの好感度が次々と跳ね上がっていく。男が立ち止まり、誰かと話すだけで、数字が溢れるように増えていくのだ。

 

「……なんだ、これ」

 

 俺は無意識に足を止めて、その光景を見つめていた。数字に支配される俺の世界の中でも、これほどまでに異様な光景を見たことはない。

 

 その時、男がふと振り返った。視線が俺を捉えた気がした。冷たい目がこちらを見ている。それはまるで、俺の存在そのものを見透かしているような目だった。

 

「君、名前は?」

 

 その声が、妙に耳に残った。男が笑いながらこちらに近づいてくる。善意99という数字が、その顔の冷たさとまるで一致しない。

 

「……篠宮奏」

 

 俺はとっさに答えていた。男の視線が俺を貫くように感じる。それでも逃げることはできなかった。

 

「篠宮くんか。面白いね、君みたいな子がこんなところにいるなんて。」

 

 男は微笑む。その笑顔には、善意や優しさの気配が全く感じられなかった。俺はその場から動けず、ただ男の言葉に飲み込まれていた。

 

「ああ、また会おう。君みたいな人間には、興味がある。」

 

 そう言い残して男が去った後、俺は立ち尽くしていた。あの善意99の男が、何を意味するのか。頭の中で、陽菜の「怖い」という言葉が反響していた。

 

 

 

 男が立ち去った後も、俺はその場に立ち尽くしていた。善意99という異常な数字。その数字を持つ男の冷たい目、そして俺を見透かすような言葉。

 

「あいつ……」

 

 胸の奥がざわつく。善意という数字の裏にあるはずの人間らしい感情が、あの男には一切感じられなかった。それどころか、その数字がまるで仮面のように見えた。

 

 善意の仮面を被りながら、本当はその裏に何を隠しているのか――それを知らなければいけない、そんな気がした。

 

 陽菜の言葉が耳に残っていた。「怖い」という直感は、あの男を遠ざけるための警告だったのかもしれない。でも、俺にはもうその警告を無視できない理由がある。

 

 あの男は、俺に興味があると言った。その言葉には何の感情も乗っていなかったが、俺の中にある何かを掴んでいるような確信を感じさせた。なぜ俺なのか?俺に何を期待しているのか?

 

 答えを知るには、もっと深く関わらざるを得ない。俺はその恐ろしい事実に気づきながらも、引き返せない道を歩いている気がしていた。

 

 翌日、仕事を終えた後、陽菜に会うためにまた例の通りを歩いた。ここ最近、陽菜に会うことが俺の唯一の安らぎになっている。

 

 すると、不意に聞き覚えのある声が背後から響いた。

 

「篠宮くん!」

 

 振り返ると、陽菜がいつものようにスケッチブックを抱えて立っていた。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥のざわつきが少しだけ和らいだ。

 

「また偶然だね!」

 

「……本当に偶然か?」

 

 俺がそう言うと、陽菜は軽く首を傾げた。

 

「偶然じゃないなら、何なの?」

 

 俺は答えられなかった。偶然なんかじゃない。この数日の俺は、陽菜に会うためにこの通りを歩いている。でも、それを陽菜に正直に言う勇気はなかった。

 

 陽菜はそんな俺の様子に気づいたのか、少しだけ眉を寄せた。

 

「篠宮くん、なんかあった?」

 

 その言葉に、俺は昨日のことを思い出した。あの男のこと、善意99の異常さ、そして陽菜が感じた「怖い」という直感。

 

「……陽菜、あの男のこと、覚えてるよな?」

 

 陽菜の表情が少し曇った。

 

「うん。あの善意の仮面みたいな人、でしょ?」

 

「仮面……」

 

 陽菜の言葉にハッとした。そうだ、俺も同じことを感じていた。善意99はただの数字じゃない。あれは、何かを隠すための仮面だ。

 

「実は……俺、またあいつに会ったんだ。」

 

 陽菜の目が少しだけ大きく開かれた。

 

「え、会ったの?」

 

 俺は昨日のことをできるだけ簡潔に話した。善意99が異常に輝いていたこと、そしてその裏に感じた不気味な冷たさ。あの男が俺に興味があると言い残したこと。

 

 話し終えると、陽菜はしばらく黙っていた。そして、彼女は小さくため息をついた。

 

「篠宮くん……あの人、やっぱり普通じゃないよ。数字とかそういうの関係なく、あの人の周りには何か違う空気がある。」

 

 陽菜が「数字とか関係なく」と言ったことが妙に胸に刺さった。陽菜は俺の「数字が見える」という呪いのことを知らない。だからこそ、彼女の直感が純粋に正しいことを示しているように思えた。

 

「……でも、俺はもっと知りたいんだ。あいつが何者なのか。」

 

 陽菜は俺の言葉に少し驚いた表情を見せた。

 

「知りたいって……どうして?」

 

 その理由は、俺自身も完全には分からなかった。ただ、あの異常な善意99の輝きと、陽菜が感じた恐怖。それを放置するわけにはいかないという本能的な感覚だった。

 

「わからない。でも、あいつは俺にとって……」

 

 俺は言葉を選びながらつぶやいた。

 

「ただの数字以上の何かなんだ。」

 

 陽菜はしばらく俺の顔を見つめていた。そして、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた後、微笑んだ。

 

「わかった。篠宮くんがそう思うなら、きっと意味があるんだよね。でも、無理だけはしないでね。」

 

 その言葉に救われた気がした。同時に、陽菜を巻き込まないようにしなければならない、という思いが強くなった。

 

「ありがとう、陽菜。」

 

 俺は陽菜の言葉を胸に刻みながら、善意99の男を追う覚悟を決めていた。その数字の裏に隠された真実を知るために。

 

 

 

 陽菜と別れた後、俺はあの「善意99」の男を追う決心を固めていた。陽菜が言った「仮面」という言葉が胸に引っかかる。善意99という異常な数値は、明らかに何かを隠している。それが何なのかを知るには、俺が直接関わるしかない。

 

 だけど、本当に俺にそんなことができるのか?数値に縛られてきた俺が、あの男に近づいて何をするつもりなのか?

 

「……結局、俺は無力なままだ。」

 

 足元のアスファルトに目を落としながら歩く。視界に映る通行人の数字はいつも通りだった。何も変わらない世界。ただ、俺の中だけがざわついていた。

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