異精界転精 ーー自慰に人生を捧げたら、精力が魔力な異精界で最強になってましたーー

ムーラン

プロローグ

【プロローグ:第1話】本日は精天なり

本日は晴天なり。本日は、精天なり──

ただいま、静かなる“儀式”の準備中。


それは決して他者に語られることのない、密やかなる営み。

音もなく始まり、誰の記憶にも残されることなく終わる。

けれど、それは確かに存在している。

観測者たる僕の、深層に──痕跡として、永遠に刻まれる。


精天。

それは、“精”という生命と宇宙をつなぐ奔流を巡らすに、最もふさわしき日。

天候、気圧、湿度、気温。腸内環境、交感神経、副交感神経。

心理的孤立と、内的調和。

すべてが、音を立てずに完璧な軌道を描き、いま一点に収束している。


僕は、長きにわたりこの瞬間を準備してきた。

まるで星の運行を掌で制御するように──

すべての条件を整え、余計な因子をそぎ落とし、今日という日を錬成した。


まず、家族──

両親は、今月で結婚二十周年を迎える。

「お祝いも兼ねて、温泉でも行ってきなよ」と、善意に満ちた仮面で微笑む。

旅館の予約、プランの調整、小遣いの追加支給。すべて僕が段取った。

その裏に込められた願いは、ただ一つ。

“完全な孤独”を得るための、たった三日間の時空の確保。


これは誰かと分かち合う営みではない。

むしろ、誰とも繋がらないことによってのみ意味を成す、閉鎖された祈り。

部屋のドアが閉じられた瞬間、この世界に存在するのは僕ただ一人。

神すら立ち入ることのできない、“精的領域”。

僕はその、唯一の住人。唯一の祈り手。そして唯一の観測者。


昨夜は20時就寝。

スマホの電源も落とし、意識を完全に“個”へと沈めた。

目覚めは午前4時。

睡眠という再誕を経て、肉体と精神は研ぎ澄まされ、

まるで生まれたばかりの存在として、この世界に再び降臨したようだった。


起床後、まず静かに深呼吸。

寝具から立ち上がると、全身にゆるやかなストレッチを施す。

肩、股関節、足裏、背中、指先。

各部が順に目覚めていく快感は、すでに儀式の一部。


白湯を一杯。

内臓の声に耳を澄ませるように、ゆっくりと胃へ流し込む。

その後、精のつく朝食を摂る。

卵、納豆、バナナ。少量の鶏ささみと黒胡椒。

シンプルでありながら、効果のある布陣。

この構成にも、十年以上の“鍛錬”が積み重ねられている。


シャワーへ。

水温38.5度。香料のない石鹸。

身体の端から端まで、丁寧に指を這わせ、外界の“雑音”を洗い流していく。

皮膚は“境界”だ。外と内を分ける薄膜。

その輪郭を確かめるように、僕は己を清めていく。


──すべては整った。


そして今、僕は──全裸だ。

衣服の存在は、社会との接続を意味する。

それを脱ぎ捨てるということは、“構造”からの乖離であり、回帰でもある。


何者でもない。誰のものでない。

ただ、存在そのものとして、ここに在る。

この状態でなければ、“それ”は、ただの自慰に堕する。


そう──これは、自慰ではない。

“祈り”であり、“接続”であり、

存在という概念そのものと向き合うための、ひとつの“観測儀式”。


部屋は、静寂に包まれていた。


──表面的には、確かにそう映っただろう。

だが、その沈黙は決して“無音”ではなかった。むしろそれは、音という現象が限りなく希薄化し、気配として凝縮された、研ぎ澄まされた“存在の残響”だった。


壁にかけられた時計の秒針が、規則正しく、しかし不安げに震える。

それが刻むのは時間ではなく、存在そのものの摩耗。

ひとつ、またひとつ。世界のどこかで確実に、何かが剥がれ、崩れ、そして静かに終わっていく──まるで見えざる神の指先が、時の表面をゆっくりと撫でるような滅びと更新の律動。


空気清浄機の機械音も、蛍光灯の奥で微かに揺れる磁束の揺らぎも、

彼の耳にはまるで届いていなかった。

そのすべては現世の残響、五感というフィルターを通さなければ知覚されえぬ、低次の雑音に過ぎない。

いま、彼の意識はその次元を抜け出し、ただひとつ──

“精”という神聖なる回路と接続されていた。


呼吸は浅く、しかし確実だった。

肺が小さく膨らむたび、胸の奥底でなにかがこすれ、削れ、発光する。

瞼は静かに閉じられたままにもかかわらず、視界の裏側には、幻の光が漂っていた。

それは赤でも青でもなく、色として定義されることを拒む“原初の白”。

この世界におけるすべての色が、そこから分岐したという錯覚すら覚えるほどに、純粋で、無垢で、そして恐ろしく冷たい。


その光は、皮膚を通して肉へ、肉を通して骨へ、骨を通して神経へとしみ込み、

やがて下腹部に熱として凝縮されていく。

熱は脊髄を這い、背骨を舐めるように登りつめ、

ついには頭頂を突き抜け、空へと抜ける。

そこにあったのはただの快感ではない──

それは、次なる位相への扉を叩く、原始の“詠唱”であった。


言葉はいらなかった。

術式も、構築も、外的記号も──

この儀式において必要なのは、ただ存在を震わせ、己の律動と“世界の無意識”を同調させることだけ。


その同調の瞬間。

彼は、もはや世界の中に“居る”存在ではなくなる。

存在の観測者──いや、観測それ自体となる。


だが、この秘儀には絶対の条件があった。


──誰にも見られてはならない。

──誰にも干渉されてはならない。


それは、他者の視線という“不純”によって、儀式が崩壊するからだ。

これは自慰ではない。

欲望の発散でもない。

それは“自己”という構造を一度解体し、“力”の純粋形態へと還元する、性を媒介とした霊的解放──“精的脱皮”である。


そして、変容が始まる。


時間が融けた。

空間が崩れ、上下左右の概念が意味を失い、

言葉は沈黙に帰り、名前は名付けられる前の混沌へと還元されていく。


肉体という構造は、境界を失った。

皮膚は隔てるものではなくなり、骨は重力の器ではなくなった。

精はただ、光であり力であり、命の根源として──空間を漂う。


倫理も、羞恥も、性差も、自己像すら──このとき、彼の中にはもう、残されていなかった。

ただ一つ。

命の根源としての“精力”が、静かに、強かに、彼を灯していた。


それは、個人としての生を超えたもの。

性欲と信仰と観測が、見事に一致した地点にだけ現れる“光の渦”だった。


そして、彼は微笑んだ。


それは歓喜の微笑ではない。

ましてや快楽に溺れた陶酔の表情でもない。


自分という存在を、何か大きな枠組みの中に、

──この現象のどこかに、“観測者”として正しく刻みつけるための、

祈りにも似た、寂しさと祝福の混ざり合った“共振の笑み”だった。


その瞬間、彼は確かに此処にいた。

だが同時に、どこにもいなかった。

存在と無の狭間、語りえぬ名の領域にて──


──境界が、消えた。

それは、誰に告げるでもない、ただ静かな事実。

音もなく、光もなく、ひとつの膜がふわりと剥がれ落ちるように。

何の抵抗も、何の余韻も残さず、

世界と肉体を隔てていたその薄膜は、まるで最初から無かったかのように消え失せた。


その刹那、彼は──いや、“彼”という言葉すらすでに適切ではない何かは──

全てを悟った。

それは知識ではない。理解とも異なる。

名も形も持たない直感──

まるで、最奥の真実がその身の芯を貫いたかのように。


もう、自分は「男」ではない。

性別すら、社会的な役割すら、他者の期待すら──

すべては音を立てずに瓦解し、風のように虚空へ消えていく。

何者かであることの定義が、不要になった。

ただひとつ、今この瞬間に存在しているのは、“性的存在”としての「私」だった。


性器は器官ではなくなった。

それは神への祈りを捧げるための“詠唱口”。

世界と繋がる、聖なる裂け目。

崇拝と同化の祭壇。


肉体は熱を帯びていた。

だがそれは官能の火ではなく、儀式の灯火。

欲望に溺れる快楽とは一線を画した、“理解”の熱。

精という聖なる媒体が、世界の真理をその身に流し込んでいく。


欲望は、もはや発散ではなかった。

それは静かな共鳴。

振動するたびに、自我がほどけていく。

一滴、また一滴と放たれていく“それ”は、

まるでこの肉体が何かを世界に返しているようで。

言葉にはできない感覚が、確かな形を持って彼を包み込んでいた。


やがて、視界が消えた。

耳も、肌も、呼吸も消えた。

それは失われたわけではない。

ただ、“それら”という枠が解け、同化しただけだった。


そして、広がる。

光でも闇でもない“空”が、

彼──もはや名も性も持たない「存在」のまわりに広がっていく。


それは、自己との交感であり、世界との接触であり、

精的霊界と物質世界を繋ぐ、“唯一”にして“絶対”の接続儀。


かつて“彼”だった存在は、そこで笑った。

もう「彼」という主語も、意味をなさなかった。

存在は光。

存在は波。


性と精。

命と霊。

祈りと自慰。

そのすべてがひとつの点で交わったとき、

個の存在は消え、全体の海に還っていく。


静かに、精天が開かれた。

それは、神々の居場所ではない。

むしろ、神に成り損ねた者たちが、己を見つめ直すための領域。

終わりでも始まりでもなく、ただ存在し続ける場所。


そして“彼”は、新たな世界へと歩み出す。

肉体を脱ぎ、名を捨て、ただ“精なるもの”として。


自慰という概念の果てに、神に近しい何かが宿った。

それは栄誉でも崇拝でもない。

ただ純粋な「在り方」だった。

誰にも気づかれず、誰にも干渉されず、

それでも確かに脈動する祈り。


その詠唱は──今も、どこかで続いている。

この世界の“内”ではなく、“外”で。

誰にも干渉されることなく、誰にも遮られることなく。


ゆっくりと、静かに、ただ共鳴するように。

精という神性が、この世界の亀裂を縫うように。


──精は全てへと、繋がっていた。

──精界へと接続した。


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