第二章 三文芝居の幕間
結局、三人が落ち着いたのは、駅前から続くシャッター通りの一角に、ぽつんと灯りをともす古びた喫茶店だった。年季の入った回転扉を押し開けると、カラン、と間の抜けた鈴の音が鳴る。店内は薄暗く、紫色のベルベット張りの椅子と、ところどころ塗装の剥げたテーブルが並んでいた。客は彼らの他に、カウンターで新聞を広げる老人と、窓際の席で文庫本に目を落とす若い女がいるだけだった。
「あら、なかなか趣のあるお店じゃないの」茉輝は店内を見回し、満足そうに頷いた。「こういう、時代に取り残されたような場所って、落ち着くのよねェ」
晴菜は無言で一番奥のテーブルに向かう。茉輝と仁夏もそれに続いた。ウェイトレスが持ってきたメニューをろくに見もせず、晴菜は「ブレンドコーヒー」とだけ告げる。
「アタシはアメリカン。ニナちゃんは?」茉輝が仁夏に顔を向ける。
「クリームソーダ。さくらんぼ、二つ乗っけてね」仁夏は、子供らしい注文とは裏腹に、そのハスキーな声で、まるで長年の常連客のようにウェイトレスに言い放った。
注文を終えると、しばしの沈黙が落ちた。晴菜はテーブルの木目をぼんやりと眺めている。茉輝は、そんな晴菜の横顔を興味深そうに観察し、仁夏は行儀悪くテーブルに肘をつき、小さな顎を乗せて晴菜の顔をじっと見つめていた。
「で?」先に口火を切ったのは茉輝だった。「お姉さんの『壊れちゃった匂い』の話、そろそろ聞かせてもらおうかしら。アタシたち、暇つぶしに来たんじゃないのよ。アンタの人生っていう三文芝居の、とびきり面白い場面を期待してるんだから」
「私の人生が三文芝居ですって?」晴菜は、ようやく茉輝に視線を向けた。「ずいぶんな言い草ですね」
「あら、謙遜しちゃって。誰の人生だって、傍から見れば滑稽で、陳腐で、三文の値打ちもないようなもんよ。でもね、だからこそ愛おしいんじゃないの。完璧な悲劇や喜劇なんて、人間には荷が重すぎるわ」
茉輝の言葉には、妙な説得力があった。晴菜は、ぐっと言葉に詰まる。
「……別に、あなたたちに話すような面白い話なんてありませんよ」
「あらヤダ、そんなつれないこと言わないで。アタシの勘によれば、アンタ、相当ややこしいもん抱えてるクチでしょ? そのくたびれたトレンチコートも、安物のヒールも、何日も寝てないみたいな目の下のクマも、全部アンタの物語を雄弁に語ってるわよ」
図星を突かれ、晴菜はわずかに眉を動かした。確かに、ここ数日はまともに眠れていない。仕事のトラブルと、それ以上に厄介な人間関係のもつれが、彼女の心身を蝕んでいた。
「……ただの寝不足ですよ」
「嘘つき」
小さな、しかし鋭い声が響いた。仁夏だった。彼女は、テーブルの上のシュガーポットから角砂糖を一つ取り出すと、それをじっと見つめている。
「お姉さん、嘘つくとき、瞬きの回数が多くなるね」仁夏は顔を上げず、ぽつりと言った。「さっきから、パチパチうるさい」
子供とは思えない観察眼に、晴菜は息を呑んだ。 この少女は、一体何者なのだろうか。
「ニナちゃんには、お見通しってわけね」茉輝がくすくすと笑う。「この子、人の心の揺らぎみたいなものに、妙に敏感なのよ。ある意味、占い師よりタチが悪いわ」
やがて、注文の品が運ばれてきた。晴菜のブレンドコーヒー、茉輝のアメリカン、そして仁夏のクリームソーダ。仁夏は、緑色のソーダ水に浮かぶ真っ赤なさくらんぼを二つともスプーンですくい上げると、満足そうに頬張った。その姿は年相応の子供に見えるのに、彼女から発せられる雰囲気は、やはりどこか異質だった。
「お姉さんは、何から逃げてるの?」仁夏が、唐突に尋ねた。クリームのついた口元を手の甲で無造作に拭いながら。
「……逃げてるわけじゃない」
「ふうん」仁夏は、ソーダ水をストローで一口吸い込むと、じっと晴菜の目を見つめた。「でも、ずっと後ろを気にしてる。誰かに追いかけられてるみたいに」
その言葉は、晴菜の心の奥底に突き刺さった。そうだ、自分はずっと何かに追われている。仕事の締め切り、人間関係の軋轢、そして、もっと得体の知れない、自分自身の内側にある闇のようなものから。
「……あなたたちには、関係ないでしょう」晴菜は、声を絞り出すように言った。
「あら、関係なくないわよ」茉輝が、コーヒーカップを置きながら言った。「アタシたちはね、いわば社会の澱みたいなものなのよ。普通の人間が目を背けるような、薄暗い場所でしか生きられない存在。だからこそ、同じように澱の中で足掻いてる人間を見ると、放っておけない性分でね」
「澱、ですか」晴菜は、その言葉を繰り返した。
「そうよ。でもね、澱には澱の生き方ってもんがあるの。淀んでるからこそ見える景色もあれば、澱んでるからこそ生まれる美しさだってある。アタシは、そう信じてるわ」
茉輝の言葉は、奇妙な慰めとなって晴菜の心に染み込んできた。この男は、一体どれだけの修羅場を潜り抜けてきたのだろうか。その軽薄な態度の裏には、計り知れない深淵が広がっているような気がした。
「お姉さん、アタシたちと来る?」仁夏が、不意に言った。「アタシたちの場所、面白いよ。壊れたものが、いっぱいあるから」
「ニナちゃん!」茉輝が、少し強い口調で仁夏を制した。「そういうお誘いは、もっと相手を見てからにしなさいって、いつも言ってるでしょ」
「だって、このお姉さん、アタシと同じ匂いがするんだもん」仁夏は不満そうに唇を尖らせる。「きっと、すぐに馴染めるよ」
「……あなたたちの場所って、どこなんです?」晴菜は、思わず尋ねていた。
茉輝は、意味ありげな笑みを浮かべた。「さあ、どこでしょうね。でも、いつかアンタが、今の居場所に本当に息苦しさを感じたなら……その時は、また声をかけてちょうだい。アタシたち、いつでも歓迎するわよ。ただし、手ぶらは困るわね。何か面白い『お土産話』でも持ってきてくれたら、最高なんだけど」
その時、喫茶店の古びた柱時計が、ボーン、ボーンと鳴った。もうすぐ、晴菜が乗るべき上り列車が来る時間だ。
「……そろそろ、行かないと」晴菜は立ち上がりながら言った。
「あら、もうお別れ? 残念だわ。せっかく面白いオモチャを見つけたと思ったのに」茉輝は、心底残念そうな表情を作った。
「オモチャって……」
「お姉ちゃん、また会える?」仁夏が、晴菜のトレンチコートの裾をくい、と引っ張った。その瞳には、先程までの冷たさはなく、どこか寂しげな光が揺らめいているように見えた。
晴菜は、その小さな手を振り払うことができなかった。
「……さあ、どうでしょうね」
そう答えるのが精一杯だった。
勘定を済ませ、三人は喫茶店を出た。シャッター街は、いつの間にか夕闇に包まれ始めていた。
「じゃあ、アタシたちはこっちだから」茉輝は、駅とは反対の方向を指差した。「お姉さんも、気をつけてお帰りなさいよ。その『影』に、捕まらないようにね」
「……ええ」
晴菜は、二人に背を向け、駅へと歩き出した。数歩進んで、ふと振り返ると、茉輝と仁夏はもうそこにはいなかった。まるで、最初から幻だったかのように、その姿は夕闇に溶けて消えていた。
プラットホームに戻ると、ちょうど上り列車が滑り込んできた。乗り込み、空いている席に腰を下ろす。ガタン、という衝撃と共に、列車はゆっくりと動き出した。
車窓から見える景色は、急速に闇に沈んでいく。晴菜は、ぼんやりとそれを見つめながら、先程までの奇妙な出会いを反芻していた。寺嶋茉輝と名乗った大柄な男。そして、馬蓮堂仁夏という、不思議な少女。
彼らは一体何者だったのだろうか。そして、彼らが言っていた「自分たちの場所」とは、どこなのだろうか。
(また会える、か……)
なぜか、そんな予感がした。そして、その予感は、決して不快なものではなかった。むしろ、心のどこかで、それを望んでいる自分がいることに、晴菜は気づいていた。
列車は、都会の灯りに向かって速度を上げていく。晴菜は、そっと目を閉じた。あの二人の、特に仁夏の、濁ったビー玉のような瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
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