第3話:亀谷夕子と他人の悪意
【亀谷夕子と他人の悪意】
−−−−S記念公園・蓮ヶ池
「まったく、最近の子はなんでこうも生意気なのかしらね」
夜の公園で
御歳六十五になる夕子の顔はすっかり皺だらけだが、眉間に寄った皺はその中でも一段と深い。
夕子はT市にキャンパスを構える私立大学の教授である。
今でこそ女性が様々な分野で活躍できる時代になったが、夕子が若い頃はまだ「嫁入りして子供を産み、妻として、母として家族を支えることが女性の生き方の理想像である」と思われていた時代だ。女性が社会で働くということはそれだけでハンディキャップとなっていたとも言える。
若くして学問の道を自身の進むべき道と決めた夕子にとってもそれは例外ではなかった。女性であるというだけで、どんな論述もぞんざいに否定され、正当な扱いを受けることはできなかった。自分自身の存在と価値を証明するためには、何よりも強さが求められた。誰に何を言われてもそれ以上の正論で自身の正しさを叩きつける。そうやって今日まで生きてきた。
彼女の負けん気と努力の成果か、周囲も夕子のことを次第に認めるようになり、時代が男女平等を掲げるようになった頃には、彼女は一流の研究者としての地位を確立していた。
だが、優れた研究者であることと、優れた教育者であることは別の話だ。大学教授という立場でありながら、夕子は学生たちと良好な関係を築いているとは言い難かった。夕子のことをプライドが高く人の意見に耳を貸さない人間であると恐れ、距離を置く者も少なくないのである。夕子自身、周囲のそういった目に気付いているが、そんな人間に自分が気を遣うつもりもないので、溝が埋まることはないのであった。
今日もゼミの場で彼女の質問に答えられなかった女子学生、初田夢乃を叱責して口論になった。
最初は夕子も夢乃の浅学を咎める程度だったのだが、夢乃の態度が終始どこか真剣さを欠いていたので、次第に彼女の性格や素行、人間性にまで説教の矛先が向かった。夕子にとっては軽い気持ちで踏み込んだ領域の話だったのだが、それが不味かった。夢乃が夕子に小言を言われること自体は珍しくなく、普段は適当に反省の意を示して説教は終わるのだが、今日は夢乃の虫の居所が悪かったのか感情的になって反論をしてきた。売り言葉に買い言葉で、引くことを知らない夕子は当然それに応戦し、討論会は盛大な口論会となってしまった。見かねた他の学生たちが止めに入ったことでその場はなんとか収まったのだが、夢乃はすぐにゼミ室を飛び出していき、残った生徒たちも重く気まずい空気に耐え切れずすぐに皆帰っていった。それから一人で仕事を片付けていた夕子だったが、静寂が刺すような非難の声に聞こえるようになり今日は仕事を切り上げて帰ることにしたのであった。
その後、気分転換に夕子は帰路の途中にあるS記念公園へとこうして寄り道していた。
T市にあるその公園は町のシンボルとも言える巨大な公園である。駅からほど近い場所にありながら、東京ドーム数個分という広大な敷地をもつ市民の憩いの場だ。草木はきちんと整備されており、来園者には四季折々に違った顔を見せる緑豊かな場所である。公園内にはイベントに使われる広場やスポーツ施設、併設の物販店や飲食店が幾つかあり、休みの日にはよく家族連れで賑わっている。そんなS記念公園ではあるが、日が暮れたこの時間帯とあっては、夕子のいる公園の外れの方では人影はほとんど見当たらない。
夕子は今『蓮ヶ池』と呼ばれる小さな池のほとりを老人らしい小さな歩幅で歩いている。
街灯に照らされる真っ黒な水面を眺めていると、携帯電話から聞こえる妹の声でふと我に返った。
「私は話のあらましを聞いただけですけど、姉さんも少し言い過ぎだったかもしれないわね」
ぎくりと夕子の胸の奥で嫌な音がした。学生や教員の意見には聞く耳を持たない夕子ではあるが、何十年という付き合いの実の妹からの言葉ではそういうわけにもいかない。平静を取り繕おうとして、ついトゲのある返しになる。
「……あなたに私の発言をとやかく言われる筋合いはありません。裁判じゃあるまいし発言に許可が要るのですか?」
「はぁ……またそうやって。姉さん最近前にも増してとげとげしくなってきたわよね、前はそんなじゃなかったのに……」
電話越しにも妹が頭を抱えてため息を吐く姿が想像できる気がした。
やや間があって、静かな声で妹が夕子に言う。
「その学生さんと姉さんって何もかもが正反対じゃない。だからお互い、自分を肯定するために相手を否定せずにはいられないのよ……それに、多分姉さんは心のどこかでその子に嫉妬してるんだと思うわ」
「嫉妬? 私が? ばかばかしい、そんなことあるわけないでしょう」
思いがけない言葉が飛んできたので即座にそれを否定する。
だが、妹はあくまで淡々と話を続ける。
「そうかしら? 自分ができなかった華のある学生生活を満喫してる今の若い子に、少しも憧れや妬みがないって言い切れる?」
「微塵も、一切、これっぽっちも、そんな感情はありません」
「ま、姉さんならそう言うと思ったけれど」
「それに……」
蓮ヶ池の水面に目を落とし、冷たい夜の空気を吸って夕子は言う。
「それに……男に夢を見るようなあの子には現実を知って欲しかっただけ。男なんてみんな勝手な生き物なんですから」
「…………」
その言葉に二人はしばし押し黙った。
夕子は夫と死別しており、妹は若い頃に離婚を経験しているため、お互いに男というものに思うところがある。
「……ごめんなさい、長電話になっちゃったわね。もう切るわよ」
「あんまりカリカリするとまた髪が薄くなるからほどほどにね。最近寒くなってきたから姉さんも身体には気をつけてね」
「髪の話は余計です。あなたも身体には気をつけて、それじゃまた」
電話を切るとゆっくりと歩きながら夕子は亡き夫のことを思い出した。
警察官だった夫は、絵に描いたようなお人好しだった。『罪を憎んで人を憎まず』を座右の銘にする彼は、誰にでも分け隔てなく接し、いつも誰かのために一生懸命な男だった。夕子とは真逆の性格だったが、だからこそうまく噛み合ったのか、夫婦仲は意外にも円満だった。いつも正しく強くあらねばとしていた夕子も、夫の前では自然と肩の力を抜くことができた。
だが、二年前のある日、夫は車に轢かれそうになった見ず知らずの子供を助けようとして交通事故に巻き込まれた。彼の果敢な行動も虚しく、子供は助からなかった。そして彼自身もそのときの怪我が原因で数ヶ月後に帰らぬ人となった。親戚や知人は「彼らしい最期だ」と故人を悼んだが、残された夕子にしてみれば、夫の死は無駄死にとしか言いようがなかった。
「人間には心があるだろう。他人を想うという優しさこそが、人間にとって一番大切で尊いものだと思うんだ」
夫の口癖が思い起こされた。
前までは夕子の好きな言葉の一つだったが、今では嫌いな言葉の一つだ。その優しさで命を落とした夫のことを思うと腹立たしさすら感じる。
そういえば今日、口論の場で夢乃に言われた言葉があったと思い出す。
「他人のことを考えようともせずに頭ごなしに否定するばっかり。先生には人への配慮とか優しさってものがないですよね。教育者以前に人間としてどうかと思います!」
夫の言葉を否定する夕子。夢乃の言葉はそんな自分をさらに否定するようであった。
(……あぁ、そうか。だからこんなに初田さんに苛立っていたのか。そして私自身にも……)
絶えず続いていた自己嫌悪と苛立ちの正体を理解した夕子だったが、当然それだけで解決にはならない。
この問題と、そして自分自身とどう向き合っていくべきかを黙して思案していたが、彼女の思考は強制的に中断されることになった。
不意に身体へ衝撃が走ったからだ。
「きゃっ!?」
背後から肩口を押されてよろめき、その場に倒れ込んでしまう。
倒れる最中、手にしていた鞄が強引に何者かに引っ張られ、思わず手を離してしまった。
地面に手をつきうつ伏せに倒れた状態でどうにか顔をあげると、誰かが夕子の鞄を手にその場に立っていた。
「あっ……」
その姿を見て夕子は言葉をなくす。
街灯にうっすらと照らし出された人物が、顔にウサギのお面をつけていたからだ。
全身黒づくめなので外見的な特徴は一切わからないが、背格好からすると男のように見える。しかし、その茶色いウサギのお面が異様なまでに強烈な存在感を主張しており、他の情報がまるで入ってこない。
「……」
倒れる夕子を一瞥すると、ウサギのお面の男は彼女の鞄を抱えたまま、まさしく脱兎の如く、その場から立ち去った。
不意を突かれて混乱していた上に、面妖なウサギのお面に動揺していたことも相まって、夕子は自分がひったくりにあったのだと理解するまで数十秒かかった。
「ど、泥棒ー! ひったくりよー!」
ようやく夕子が甲高い声でそう叫んだ頃には、ウサギのお面の男は夜の闇に紛れて影もかたちも見えなくなっていた。
夕子の声を聞いて、近くを通りかかった通行人たちが何人か彼女の元に集まってくる。
「大丈夫ですか」と差し伸べられた手を怒りに任せて振り払い、夕子は公園に深く広がる宵闇を睨み付けながら立ち上がる。
今日という日に感じたストレスが全て怒りとなって、あのふざけた格好の犯人に向けられた。
「やっぱり他人なんてロクなものじゃない……!!」
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