その翡翠き彷徨い【第26話 辿り着けるいつか】
七海ポルカ
第1話
ゴォォオオン…………
……ゴオオオン……
魔術学院の鐘が鳴ると同時にメリクは学院を飛び出していた。
雨や帰りが遅くなるときなどは馬車が城から来るのだが、学院に徐々に慣れ始めるとメリクはわざわざ馬車をいつも送ってもらうのは、とアミアに言って自分の馬で帰れるようにしてもらった。
そもそもサンゴール王城は魔術学院とは目と鼻の先だ。
山の上と言っても極論で言えば、歩いても十分帰れる距離なのである。さすがに正式な王族でないにしろ王城で暮らすメリクが徒歩で帰ることも無いが、自分の馬で一人帰るくらいなら出来る。
そして――メリクはこの日ほど、自分の馬で帰れることを嬉しいと思ったことはなかった。
馬車を呼んでいたらあと一時間は待たなくてはならなかっただろう。
すでに慣れた魔術学院からの帰り道に馬を駆らせ、たちまち王城に戻ったメリクは勢いよく馬を下りるとそのまま走り出す。
自分の部屋ではない。
第二王子リュティスのいる奥館へだ。
今日は学院が終わった後にリュティスの講義があるのだ。いつもは学院が休みの週に一度になっているのだが、今回は特別だった。
……実はリュティスの講義は一ヶ月ぶりなのである。
王城に住んでるので見かけることはあったが、そもそもメリクは王城で見かけたリュティスに話し掛けられるほど気安い仲ではない。メリクがリュティスに相対出来るのは唯一、あの奥館の一室でだけ、しかも弟子として彼の前に立ったときだけなのである。
メリクはこの一月に魔術学院に入ったばかりで、その手続きやら試験やら何やらで忙しく、対するリュティスの方も半年後にある国祭神儀の準備のため、女王アミアカルバの代理としてひどく多忙らしい。
バタバタしてては集中出来ないということで、この一月すっぱりとリュティスの講義は中止にされ、定期的に課題をメリクがリュティスに出し、リュティスがそれを添削して返すという遣り取りをしていた。
メリクはそれはそれで嬉しかった。
リュティスが忙しい時間を割いて返してくれた課題なのだから、注意された部分は全て完璧に直しておこうと尚更集中出来たほどである。
しかしリュティスの字だけを見ていると、不意に何かの拍子に彼に会いたくなったのも事実だ。
あの人はどんな顔でこの注意を書いたのかなと考える度、メリクにはリュティスの例の不機嫌そうな顔すら慕わしく思い出されたのである。
そんな事情があって伸びに伸びていたリュティスの講義が今日やっとある。それが嬉しくてメリクは王城に駆け戻ったのだ。
必要以上の感情をリュティスはひどく嫌うから、あからさまに出すわけにはいかないが、誰も見てない今くらい喜びを密かに出していても別に罰は当たらないだろう。
石柱路を駆け抜けてリュティスの奥館へ辿り着くと、メリクは扉の前で一度立ち止まった。
弾む息を整えて緩んでいた顔を手で押さえ、何とか平静な顔を取り戻す。
扉を開いて中に入ると、すぐに執事の老人が出て来た。
「メリク様、おいでなさいませ」
「こんにちは、講義に来たのですがリュティス様はおいででしょうか」
形式上はそう尋ねてすっかりリュティスに会える気になっていたメリクに、老人は申し訳なさそうな顔を見せる。
「申し訳ございませんメリク様。殿下は本日女王陛下の火急のお召しで王城の方に出ておられます。非常に手が込む話とのことで、今日の講義は延期にすると言付かっております」
メリクは心の中でひどく衝撃を受けた。
「あの……、あの僕、……どれだけでも待てますが……」
よく存じています、と老人は頷いた。
彼は気難しく、不定期に王城に駆り出される第二王子の弟子としてメリクというこの少年がどれだけ辛抱強いかはよく知っていた。
普通の子供なら待てぬような何時間もじっとして待てる子供だったし、大人でも震え上がるようなリュティスの叱責を受けて、しゅんと泣きそうな顔で帰って行っても、翌日はまた何事も無かったかのようにちゃんと時間通りに訪ねて来る。
実は――今回メリクが魔術学院に入るにあたって、今度こそ本当にメリクの勉学は学院に委ねられるのかと、密かに残念がっていたのはこの老人だった。
これであの小さな客人も奥館に来なくなるのかと、常から冷静で感情を表に出さない彼が心に思っていたのである。
メリクが来るまでは、この第二王子が住む奥館にまともにやって来る人間など、先代のグインエル王――リュティスの兄くらいしかいなかったのだから。
だから週に一度は今まで通りリュティスが講義を持つことになると聞いたときは、心の底で喜んだほどだ。
「しかし本日は祭儀についてのお取り決めのようなので……どうかお引き取りいただいた方が良いかと存じます。お戻りは夜になるでしょう」
夜、と言われてしまえばさすがに仕方がなかった。
内心は落胆の極みだったのだがこの老人をここで困らせても仕方ないことである。
メリクは丁寧に頭を下げると「では今日は失礼します」と小さく笑ってから奥館を出た。
急に心に穴が開いたみたいだ。
メリクは石の床を見つめたままトボトボと今来たばかりの道を引き返す。
先程の浮かれた様子が嘘のようだ。
こういうことは決して初めてではない。
リュティスにしか出来ない格の任務があることを知っているメリクは、彼がアミアに不意に呼び出された時の重大さもよく理解していた。
だから残念だとは思ってもすぐに仕方ないと思えたのだ。
だが今日に限ってその「仕方ない」という前向きな心がやって来ない。
石柱路に差し掛かろうとした時、ついに足は立ち止まっていてメリクははあ、と一つ重い息をついた。そうしているうちに横の茂みから出て来た、白い毛の猫がメリクの足にすり寄って来てみゃあみゃあと甘えた声で鳴き始める。
とっくに心が折れていたメリクは脇道に逸れ、草の上に鞄も投げ出してしまうと自分も服が汚れるのも構わずそこに座ってしまった。両の足も投げ出してしまう。
午後の温かい陽射しが降り注いで来る。
草はぽかぽかとしていてメリクは石柱路の柱に背中を預けると、「こいつ構ってくれるタイプの人間だな」と判断したのだろう、腕の中に飛び込んで来た猫を抱えて毛を撫でてやった。
実は、今日が駄目となると次の講義も未定となってしまうのだ。
というのももうすぐ魔術学院に入学して初の総学の試験になるのだ。その試験勉強があるためリュティスの講義もまた先延ばしになってしまう。
メリクも入学試験は魔術理論だけだったため、今までの復習に力を入れれば何とかなったが、今回は何種類もの試験を受けなければならない。リュティスに教わった以外はほとんど独学でやって来た自分の知識が、本当に魔術学院で通用するかが明らかになると言っても過言ではない。
そこまで考えて、メリクはふとそんな風には感じていなかったけど自分はやはり魔術学院という慣れない環境に入ってどこか不安だったのかなと思っていた。
女王の養子格、という曖昧な自分の背景に対しての勝手な憶測、誹謗、雑音以外の何でもない声……どれだけ掛けられただろう。
知らない何百人もの人間が行き交うあの場所で……。
サンゴール城に初めて来た時もそうだった。
迷路のような巨大な城、冷たい竜の彫像、自分の周りにいる侍女はいつも違う顔をして覚えられなかったこと。
そんな中でメリクにとって唯一、確かであったものがリュティスという存在だったのだ。
魔術学院は好きだ。楽しかった。学ぶことが沢山あることも嬉しい。
他人の起こす雑音に対する煩わしさは、メリクにとっていつだって探究心の下に置かれて来た。
――でもあそこにはリュティス・ドラグノヴァはいない。
白い猫は温かいのと、毛を撫でてもらって気持ちいいのに満足して、メリクの腕の中ですでに暢気に腹を見せて眠り始めていた。
その様子にようやくちょっとだけ微笑んで、メリクは眠ってる猫を抱え直し背中の毛を撫でてやった。
そのまま目を閉じて太陽の光の中、微睡んだ。
ここはいつだって静かなままだ。
「……会いたかったなぁ……」
思わず、小さな声で呟いていた。
リュティスに会いたかった。
あの姿を見て、あの瞳を見て、あの声を聞きたかった。
成長すればするほどリュティスに会える時間は減って行く。
それを思えば子供の頃の時間は何と貴重だったことか……。
だが、だからこそ、この一刻一刻を宝物のように今は大切に思うのに。
ザザザザザザ……
上空を風が通り、樹々が大きく揺れる。
いつだって時の過ぎる足音は聞こえているけれど。
(いつになったら……)
「またそんなところに座り込んで……」
メリクは耳の奥を震わせた低い声に、雷に撃たれたように目を覚まして振り返った。
何とそこにいつの間にかリュティスが腕を組んで立っていたのである。
彼は地べたに直接座っているメリクを蔑むような顔で、不機嫌そうに見遣っている。
「リュティスさま……えっ⁉」
いい気持ちで寝ていた猫は衝撃で起こされ、驚いたようにメリクの腕から飛ぶとそのまま茂みの中へ、一目散に走って行ってしまった。
そして、その場にはリュティスとメリクの二人だけになった。
「こんなところで何をしている」
メリクは驚きながらも思考回路を全力で回転させた。
リュティスをここで待っていたなどと言ったら、リュティスはまた嫌悪感を露にするに違いない。ただでさえ彼はメリクに必要以上にまとわりつかれることを毛嫌いしているのだから。
「あ、あの……今、学院から戻って、……リュティス様がご公務だとお聞きして…………帰るところでした!」
何とか辛くも問いを乗り切ってメリクは冷や汗をかく。
別に嘘を言ってるわけではないのだからこの返答なら大丈夫だろう。
「公務は無しだ。アミアめ、あの女は一体いつになったら、このサンゴールの女王としての自覚が芽生えるというのか。それとも何だあの女の脳はどこかで死滅しているのか?」
「……。」
よく分からないが、アミアとどうやら一悶着あったようだ。
リュティスが腹立たしげに王宮の方を睨んでいる。
メリクはとりあえず息を潜めていた。無駄口を叩いて火に油を注ぐのは怖いと思ったからである。
しかし、珍しく今回はリュティスの方から口を開いて来た。しかも例によって凄まじい突然の切り口でである。
「学院の総学の試験はいつからだ」
睨みつけるようにその琥珀の瞳で見据えられ、メリクは慌ててその場で身を正し正座をしていた。草のうえで。
「一週間後です」
「お前が王宮で引き起こした例の事件については無論、学院中の講師の知るところだ」
他の誰も遠慮して口にしなくなっていたあの事件のことを躊躇いも無く口にして、リュティスはメリクの前で仁王立ちになり腕を組み替えている。
「実技試験で制御術が秀でているところを見せねば、お前の評価は心証からして地に落ちることになるだろう」
「はい……」
メリクはひたすら恐縮するのみだ。
言い返す言葉も無い。
何せあの事件で、メリクは魔術学院の長ともいえる魔術師長にとんでもない深手を負わせてしまっているのだ。全てのサンゴール宮廷魔術師より、信頼を寄せられる人物に入学前から無礼を働いているようなものなのだから、講師達がメリクの魔術実技に対して厳しい目を向けているのは当然かつ、明らかだった。
「魔術理論は私がお前に一から叩き込んで来た。
これを落としたらそれは単なるお前の咎だ」
「は、はい。」
「実技を見てやる。【
え⁉ とメリクは目を開き、リュティスを見上げてしまった。
魔術学院の入学が決まってからはリュティスに実技は随分見てもらっていない。
「お前が馬鹿ならアミアが恥をかく。それをよく覚えておくんだな。あんな女が恥をかこうが、私には関わりないが忌々しいことに、その絶望的な女が今はサンゴールの玉座に座っているのだからな」
威圧するように上から言われて、メリクはリュティスを見上げるのをすぐにやめて俯いて深く頷いた。
「いつまで土の上に座っている。野良犬か貴様」
「あっ、はい!」
慌てて立ち上がった時だった。
「あ」
突然声を出したメリクに、リュティスが怪訝そうな顔をする。
「……なんだ」
その顔が不機嫌に変わる前に、ハッとして首を振った。
「いえっ、何でもありません! 申し訳ございません」
メリクが頭を下げるとリュティスはさっさと歩き出してしまった。
そのあとを慌てて追いかける。一定距離を保ちながら前を行くリュティスの背についていくと、先程まで忘れていた嬉しい気持ちがたちまち蘇って来る。
胸がドキドキしていた。
メリクは違和感に気づいたのだ。
こんな風にリュティスの背を辿って歩くのはいつぶりだろう?
奥館で講義を受ける時も、座って向き合っているばかりだったから、気づかなかったのだ。
メリクは嬉しかった。
久しぶりにリュティスが実際に魔法を使うところを見てくれる。
彼にちゃんと会えたこと。
琥珀色の瞳が少しだけいつもより明るかったことが。
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