ミッテラストリート・カラブランカ

りっく

第1話 死にたがりの女子高生

「死にたがりの女子高生」


 ミナミって街はな、昼と夜で顔が変わる。

 昼間は観光客と買い物客でごった返して、笑い声が浮ついてる。

 けど、夜になると街は一気に沈む。

 ネオンが濡れた路面に滲んで、音が低く染みこんでくる。


 道頓堀、宗右衛門町、心斎橋、千日前――

 そのへん一帯、全部まとめてミナミって呼ばれてる。

 飲み屋、風俗、ホスト、ヤクザ、ラッパー、スカウト、ホームレスにキャッチ。

 この街はな、誰かの裏側がそのまま表で歩いてるようなもんや。

 金と嘘と孤独が、毎晩ぶつかっては散って、また朝が来る。


 俺はこの街で生まれて、この街で育った。

 不良と呼ばれてた時期もあるけど、特に何者になりたかったわけでもない。

 ただ、この空気が肌に合うから、流れるままに今に至る。

 平成二十二年。カサブランカの灯りはまだ灯っとる。


 三ッ寺通りのいちばん奥。

 ネオンの届かん裏路地に、《カサブランカ》ちゅうバーがある。

 親父が残していった店や。マスターっちゅうても、実際はただの店番。

 ダークブラウンの木を基調にした落ち着いた空間。カウンターが八席、ボックス席がふたつ。

 棚には、親父が大事にしてたウイスキーがずらりと並んどる。

 どれも骨のあるやつばっかや。

 たとえば《ラフロイグ10年》。ピートの香りが強くて、癖がある。けど、雨の日には妙に合う。


 その夜も、しとしとと梅雨の雨が降ってた。

 湿った風がドアの隙間から忍び込んできて、カウンターの端に置いた灰皿の煙を揺らしてる。

 棚の上、ターンテーブルからはレコードのパチパチが聞こえてて、回ってるのは《マイルス・デイヴィス / Kind of Blue》。

 ブルーノートの美しさってのは、深夜の静けさによう映える。派手じゃないけど、芯が通ってる音や。


 いつもより静かな夜。

 俺はグラスを拭いてた。もう癖になってる作業や。

 そのとき、ドアの鈴がチリンと鳴った。


 入ってきたのは、制服姿の女子高生やった。

 びしょ濡れで、肩から水がぽたぽた垂れてる。

 紺のブレザーにプリーツスカート。シャツの襟元は少し開いてて、ネクタイはルーズな片結び。

 前髪が濡れて頬に張りついて、長めのまつ毛に水滴がぶら下がってる。

 肌は透けるように白くて、輪郭はまだ幼さが残ってる。

 けど、その目だけが妙に澄んでて、どこか遠くを見てた。


 背は小さくて、ガリガリに痩せてる。

 濡れた制服が肌に張りついて、少し透けて見える。

 たぶん、誰かが見たら通報されてもおかしない光景や。けど、俺は黙ってその子を見てた。


 「……死ぬ前に、飲めるウイスキーある?」


 俺は少しだけ息を吸って、静かに吐いた。


 「……何歳やねん? 制服着てて、ミテコ(※見た目コドモ)にしか見えへんけど……まぁええわ。誰もおらんし、特別な」


 棚からラフロイグを取り出して、グラスに注ぐ。

 こういうとき、正論より、静かな一杯の方が効く。

 火種みたいな目ぇしてる女の子には、特に。


 雨の夜に現れた、死ぬ気で飲みに来た女子高生。

 たぶん、こっからまた、ややこしい夜が始まる。

 俺はそんな予感を胸の奥でぼんやり感じながら、グラスを滑らせた。


 ラフロイグのグラスを受け取った彼女は、顔をしかめることもなく、静かに口をつけた。

 小さな喉がごくりと動いて、ピートの煙たい香りが、雨の湿気に混じって店内に広がる。


「…けっこう、キツいな」


 そう言って彼女は鼻をすんと鳴らした。涙の気配はなかった。むしろ、どこか晴れ晴れしてた。

 それが逆に怖かった。泣くよりも、ずっと。


 俺はカウンターの裏にある棚から、タバコの箱を取り出して、一本くわえた。

 ライターをカチッと鳴らすと、火がゆっくり近づいてきて、煙と一緒に思考が立ち上っていく。


「名前、聞いてもええか?」


 彼女はしばらく迷ったふうに目を伏せてたけど、やがてポツリと答えた。


「灯。神原灯」


 声に嘘はなかった。けど、それがほんまの名前かはわからへん。

 そもそも、ここに来た理由からして、曖昧や。死ぬ前に一杯ってのが本音か、それとも他に何かあるのか。

 まぁええ。真っ直ぐ聞くようなヤボは、俺の仕事ちゃう。


「アカリか。ええ名前やな」


 俺はグラスを拭きながら、レコードをB面にひっくり返す。

 流れてきたのは、ビル・エヴァンスの《Peace Piece》。

 静かで、でもどこか不穏な、雨の夜にぴったりの旋律。


「さっきからずっと思ってたんやけど」

 アカリが、グラスを指先でくるくると回しながら言った。

「ここ、なんで“カサブランカ”って名前なん?」


 少し笑って、俺は言うた。


「親父の遺言や。映画好きでな、ハンフリー・ボガートが死ぬほど好きやってん。最後まで渋くて報われへん、それがかっこええって」


「へぇ。なんか、わかるかも」


 アカリが初めて少しだけ、穏やかな顔した。


 けどその笑みの奥にある影は、まだ消えてへん。

 彼女の“ほんまの話”は、これからや――

 そう思いながら、俺は灰皿にタバコを押しつけた。



 火が消えた煙草の残り香と、レコードの余韻。

 カサブランカの空気が、ほんの一瞬、止まったみたいやった。


 アカリはまだグラスを持ったまま、下を向いてた。

 さっき見せた笑顔は、もうどこにも残ってへん。

 代わりに、目の奥にあった影が、ゆっくりとこちらに姿を現し始めた。


「……あたし、誰にも話してへんことがあるねん」


 ぽつりとアカリが言うた。声は、氷みたいに静かやった。


「ほんまは、今日ここに来るつもりやなかってん。ただ、前にこの店の前、通ったことあってな。なんか…気になってた」


「偶然ちゃうな、それは」


 俺は静かに答えた。

 こういう夜に偶然なんて言葉は似合わへん。


アカリはグラスの縁を、細い指でなぞるように撫でながら、ぽつぽつと話し始めた。


「うちは、小さい頃から“優等生”やった。

 勉強も運動もできて、先生にも親戚にも褒められてばっかでな。

 中学では陸上やってて、大会でも入賞してた。親は“自慢の娘”って、どこ行っても言うてたわ」


 語りながらも目はグラスの中を見てた。けど、その視線の先に映ってるのは、きっと思い出の中の景色や。


「家族仲も、ほんまに良かった。

 週末は家族で出かけて、記念日にはちゃんとケーキ囲んで……

 そういう家庭やってん。うちは、幸せやと思ってた」


 アカリの声に、少しだけ苦い笑みが混じった。


「けどな、それが全部、崩れたんよ。高校に入ってから。

 進学校で、周りは天才みたいな子ばっかりで……

 うちは必死について行こうとしたけど、成績がどんどん落ちていった」


 俺は黙って、アカリの話に耳を傾ける。

 こういう時、余計な相槌は要らん。ただ、聞く。それが大事や。


「そしたら、母が変わってん。“なんでできひんの”って、毎日言われるようになって。

 父とも喧嘩が増えて、しまいには“このままじゃ家が壊れる”って母が泣いて……

 気づいたら、全部が私の責任みたいになってて」


 アカリは、グラスをそっとカウンターに置いた。手が少し震えてるのが見えた。


「でも、成績が落ちたんは、それだけやない。……友達が死んだんよ」


 その言葉で、空気が一段階、深く沈んだ。


「うちと、めっちゃ仲良かった子。いつも一緒におって、笑い合って……

 でもな、その子がいじめられるようになって。理由もわからんまま、ある日突然。

 いじめてたんは、親が議員のボンボンと、その取り巻き」


 アカリの声は淡々としてた。けど、その奥にある怒りと悲しみは、手に取るように分かった。


「誰も逆らえへんかった。先生も見て見ぬふりや。

 私だけが、あの子をかばってた。……そしたら、今度は私が標的になった」


 言葉のひとつひとつが、胸の奥に刺さる。


「机に落書き、ロッカー荒らされて、SNSで誹謗中傷。

 でも、私よりも、あの子の方が傷ついてたんやと思う。

 ある日、“私のせいでアカリが壊れるのが一番怖い”って言って、

 ……あの子、首吊って死んだんよ」


 アカリは口元を抑えた。涙は見せへんかったけど、声がかすれてた。


「それから、うちの中で何かが壊れた。

 家も冷たくなって、母はヒステリックになって、父ももうほとんど話さへん。

 成績はどん底、友達もおらん。

 気づいたら、もう生きてる意味が分からんようになってた」


 俺はタバコを深く吸い込んで、煙を静かに吐いた。

 ラフロイグの香りと混じって、カサブランカの空気が苦く染まる。


「今日な、死のうと思ってたんよ、ほんまは。

 でも、ふと前に通ったこの店のこと思い出して……

 “最後に、不良っぽいことしたい”って思った。

 それと……誰かに、聞いてほしかったんや。こんな話、誰にも言われへんから」


 アカリは、初めて真正面から俺を見た。

 あの目はもう、火種やない。ただの悲しみでもない。

 ほんまに、誰かに救ってほしい――そんな目やった。


 俺は、ゆっくりとタバコを灰皿に押しつけて、言うた。


「……ここに来た時点で、もう不良の仲間入りや。

 今夜は、お前がどんな話してもええ。俺は、ちゃんと聞く」


 アカリは小さく頷いた。


 カサブランカの空気が、静かにまた動き始めた。

 ややこしい夜の、ほんまの始まりやった。



 アカリは無言のまま、グラスの底を見つめとる。

 その手が、さっきより少しだけ震えとらん気がした。


 俺は煙草に火をつけて、深く一口吸い込んでから言うた。


「……ここはな、死ぬための街ちゃうねん。

 金と欲と、裏切りと暴力。そればっかり言われとる街やけど……

 俺は思う。“生き直す”ための街やって」


 アカリが顔を上げた。少しだけ眉を寄せて、何かを探るような目ぇしてた。


「俺も昔、終わった思たことがある。家も学校も居場所なくしてな、

 ミナミでやさぐれてた。夜な夜な喧嘩して、バイクぶっ飛ばして、

 やってることなんか大概やった」


 記憶の奥に沈めた景色が、一瞬だけ胸の中に戻ってきた。

 痛みや悔しさより、ただ空っぽやった、あの頃の感覚。


「けどな、不思議なもんや。そういうときに、

 ちゃんと話聞いてくれる奴が一人おっただけで、人って変われるもんやねん」


 アカリは何も言わんかった。ただ黙って、俺の言葉を飲み込んどった。


「もし、“生き直す”んやったら……お前は、どうしたい?」


 問いかけた俺の声に、煙草の煙がまとわりついた。

 それでも、その問いはまっすぐアカリに届いたはずや。


 しばらくの沈黙のあと、アカリは小さく息をついた。

 そして、ほんの少し震えた声で、こう返してきた。


「……もう一回、ちゃんと笑いたい。

 誰にも怯えんと、自分のままでおりたい。

 ほんで……私が守られへんかった友達のこと、

 誰かにちゃんと伝えたい」


 言葉の端に、ほんのかすかに熱が宿り始めてた。

 そして、その熱は次の瞬間、はっきりと炎に変わった。


「……それとな、ウチらをいじめとった奴らが今も

 のうのうと笑って、次の標的探して生きとるの、許されへん。

 あいつらのせいで、アイツは死んだ。私の家も、心も壊れた。

 ウチらみたいなんが、もうこれ以上増えてほしくないねん」


 アカリの声が震えを超えて、確かな芯を帯びはじめた。

 その目の奥に、静かに、けど確かに――闘いの灯がともった。


 俺は灰皿に煙草を押しつけながら、グラスの中の琥珀色を見つめた。

 今夜、偶然やと思てた出会いが、ほんまは必然やったんかもしれん。


 バックス・ショットの《Harlem Nocturne》が、低くうねるように流れ続ける。

 この街は終わりの場所ちゃう。生き直すための舞台や。


 俺らは今、その幕をあげたばかりやった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る