第35話 沈黙の相棒と最初の協力者

 静まり返った図書館に響いた、俺の、魂の抜けたような叫び。

 そして、目の前のレイナから投げかけられた、あまりにも真っ直ぐな問い。


「アンナって、誰? あなた、一体、何と戦っているの……?」


 俺は、沈黙してしまったキーを強く握りしめ、彼女の問いに、答えることができなかった。


 * * *


 どれくらい、そうしていただろうか。

 図書館の閉館を告げる音楽が、遠くで鳴り始めるまで、俺たちは動けずにいた。


 これ以上、ここにいるわけにはいかない。俺は、ふらつく足で立ち上がると、レイナにだけ聞こえるように、小さな声で言った。


「――場所を、変えよう。ここじゃ、話せない」


「あ、うん……」


 レイナは戸惑いながらも頷くと、机の上に広げられた資料を指さした。

「その前に、これ、片付けないと……」


 俺たちは、図書館の外にある、静かな中庭のベンチに、並んで腰を下ろした。夜の帳が下り始め、ひんやりとした空気が、火照った俺の頬に心地よかった。


 沈黙が、二人の間に落ちる。

 俺が何かを言い出せずにいると、レイナが、じっと俺の顔を見つめていることに気づいた。その瞳は、ただの心配じゃない。まるで、俺が言葉にするのを、静かに待っているかのような、不思議な色をしていた。


 その眼差しに、俺はもう、逃げられないと悟った。

 いや、逃げたくない。

 俺は、覚悟を決めた。


「信じられないかもしれないけど、聞いてほしい」


 俺は、初めて、アンナの存在を、俺以外の誰かに語り始めた。


 中古で買ったA-BOXのナビには、「アンナ」という人格を持つ、不思議なAIが搭載されていたこと。ただの機械なんかじゃなくて、会話をして、成長して、時にはヤキモチさえ焼く、俺にとって、かけがえのない「相棒」であることを。


 そして、レイナと出会ってから、そのアンナの様子がおかしくなり、ついには、今、こうして完全に沈黙してしまったことを。


 俺は、証拠として、今はただのプラスチックの塊となったキーを、レイナの前に差し出した。普通なら、一笑に付される話だ。頭がおかしくなったと思われるのが関の山だろう。


 だが、レイナは違った。

 彼女は、俺の話を、ただ真剣な眼差しで、最後まで黙って聞いていた。そして、俺が全てを話し終えるのを待って、静かに口を開いた。


「あなたの話、突飛に聞こえるかもしれないけど……私、笑ったりしないよ」


 その声は、どこまでも優しく、そして、力強かった。


「……私が調べている、『燈陸国風土記』の話、したよね。神話の中に、古代の超技術が隠されているんじゃないかっていう、私の仮説」


「ああ……」


「古文書の中に、こんな記述があるの。“言葉を解し、人を善き道へと導く、輝く小箱”……」


 レイナは、俺の目をじっと見つめて、続けた。


「あなたの相棒の話と、どこか、似ている気がしない?」


 俺は、息を呑んだ。


「だから、信じるよ。あなたの相棒は、きっと……私たちの知らない、何か特別な存在なんだと思う」


 彼女は、アンナの存在を、オカルトや俺の妄想ではなく、未知の科学技術……いわゆる『オーパーツ』のようなものとして、受け入れてくれたのだ。


 俺の胸に、じわりと温かいものが込み上げてくる。

 初めて、この途方もない秘密を、共有できる相手を見つけた。


「……行こう」


「アンナのところへ」


 * * *


 大学の駐車場は、すっかり夜の闇に包まれていた。

 俺はキーでA-BOXのロックを解除し、レイナのために助手席のドアを開けた。


「どうぞ」


 レイナが静かに乗り込むのを見届けてから、俺も運転席に滑り込んだ。


 ごくりと、喉が鳴る。

 最悪の事態……完全に沈黙した、ただの黒い画面が目に浮かんだ。俺は祈るような気持ちで、エンジンをかけた。

 システムが起動するまでの、ほんの数秒が、永遠のように長く感じられた。


 やがて、ナビ画面に光が灯る。真っ暗ではなかった。そこには、見慣れた大学周辺の地図が、ただ静かに表示されている。けれど、いつもそこにいたはずの、アンナのアバターは、どこにもいない。


 そして、その地図画面の上に、一行のメッセージだけが、白い文字で、まるで焼き付いたように表示され続けていた。


《システムアップデート Ver 1.50 を実行中……完了まで、外部からの干渉を遮断します》


「……アップデート……?」

「……壊れたんじゃなくて……?」


 レイナが、助手席から心配そうに画面を覗き込む。

「外部からの干渉を、遮断……? 一体、何から……?」


 そこで、俺はハッとする。

 彼女がA-BOXの助手席に座るのは、これが初めてだった。

 そもそもこの車は、元カノ……アンナと海へ行くために買ったはずだった。空っぽになったはずのその場所は、いつの間にか喋るナビの相棒の指定席になって。そして今、その相棒を沈黙させた張本人であるレイナが、そこに座っている。


 この小さな助手席は、一体どれだけの運命を乗せれば気が済むのだろうか。俺は、言葉にならない皮肉を感じずにはいられなかった。


「……分からない。でも、今は、待つしかないみたいだ」

 俺は、変わらないナビ画面を見つめ、レイナに告げた。


「……ここじゃ目立つ。俺の部屋、ここから近いんだ。……来るか?」

 レイナは、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。夜に、まだ出会ったばかりの男の子の部屋へ行く。その意味を、彼女が考えないはずがない。


 俺の顔をじっと見つめる、その瞳に一瞬、戸惑いの色が浮かぶ。だが、それはすぐに、何かを決意したような、強い光に変わった。


「……うん」


 彼女は、小さく、しかしはっきりと、頷いた。その頬が、夜の闇の中でも、ほんの少しだけ赤く染まっているように見えた。

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