静（しず）かな朝（あさ）だった。

　村（むら）の炊（た）き出（だ）し場（ば）で、パンを焼（や）く香（こう）ばしい匂（にお）いが風（かぜ）に乗（の）って流（なが）れてくる。

「おはよう、ユキ！」

　ナナが駆（か）け寄（よ）ってきた。

　ユキ（ぼく）は笑（わら）って、手（て）を振（ふ）る。

　──ユキ。

　それは、ナナが最初（さいしょ）に付（つ）けてくれた“仮（かり）の名前（なまえ）”だ。

「このあいだ、雪（ゆき）みたいに真（ま）っ白（しろ）だったからって言（い）ってたよね」

「うん。だって、あのときのユキ……ほんとに、どこから来（き）たのかも分（わ）からなくて、

　でもなんだか放（ほ）っておけなくて……」

　仮（かり）の名前（なまえ）。

　いつの間（ま）にか、村（むら）の子（こ）たちも、村人（むらびと）たちも、自然（しぜん）にぼくを「ユキ」と呼（よ）ぶようになっていた。

　それが、心地（ここち）よかった。

　“名乗（なの）っていないのに、名前（なまえ）で呼（よ）ばれている”というのが、不思議（ふしぎ）にもしっくりきていた。

＊　＊　＊

　その日（ひ）、村（むら）の集会所（しゅうかいじょ）に人（ひと）が集（あつ）まっていた。

　どうやら、外（そと）から来（き）た旅人（たびびと）が村（むら）を訪（おとず）れているらしい。

　村長（そんちょう）のマースがその人物（じんぶつ）を紹介（しょうかい）した。

「こちらの方（かた）は、交易路（こうえきろ）の情報（じょうほう）を持（も）ってきてくださった旅（たび）の方（かた）だ」

　旅人（たびびと）は、少（すこ）し驚（おどろ）いたようにぼくを見（み）てから、にこりと笑（わら）った。

「へえ、この子（こ）が噂（うわさ）の……」

「噂……？」

　その目（め）が、どこか冷（つめ）たく光（ひか）った気（き）がして、ぼくは少（すこ）しだけ身（み）を引（ひ）いた。

＊　＊　＊

　集会（しゅうかい）が終（お）わり、ナナと並（なら）んで歩（ある）いていると、村長（そんちょう）が話（はな）しかけてきた。

「ユキ、少（すこ）し話（はな）せるか？」

　村長（そんちょう）の小屋（こや）に通（とお）され、囲炉裏（いろり）の火（ひ）がぱちぱちと音（おと）を立（た）てていた。

「……気（き）になっていたのだが、お前（まえ）、本当（ほんとう）の名前（なまえ）を……」

「わかりません。思（おも）い出（だ）せなくて……」

　正直（しょうじき）にそう言（い）った。

　“前世（ぜんせ）”の記憶（きおく）とやらは、断片的（だんぺんてき）で、まるで霞（かすみ）の中（なか）の夢（ゆめ）のようにぼんやりしている。

「そうか……」

　村長（そんちょう）は深（ふか）く頷（うなず）くと、ひとつの木札（きふだ）を差（さ）し出（だ）した。

　そこには、焼（や）き印（いん）で「ユキ」と彫（ほ）られていた。

「この村（むら）に住（す）む者（もの）として、正式（せいしき）に名簿（めいぼ）に載（の）せたい。よければ、この名（な）で受（う）け入（い）れてもらえないか？」

　ぼくは木札（きふだ）を手（て）に取（と）り、ゆっくりと頷（うなず）いた。

「……“ユキ”って、名前（なまえ）。ぼくは、好（す）きです。もらっても、いいですか？」

「もちろんだ」

　名前（なまえ）を持（も）つということ。

　それは、この世界（せかい）に、自分（じぶん）が“い”るという証（あかし）だった。

　どこにも居場所（いばしょ）がなかったぼくに、居場所（いばしょ）が与（あた）えられた瞬間（しゅんかん）だった。

　こうして──

　名（な）もなき少年（しょうねん）は、「ユキ」になった。