第2話「秘密と平常運転」
第2話――
一線を越えた後、日常に戻ろうとするふたり。
だが、平然を装っても、肌に刻まれた記憶は消えない。
月曜日の朝、オフィスの蛍光灯が容赦なくまぶしい。
崇はPCを立ち上げながら、金曜日の夜の記憶を頭から追い出そうとしていた。だが、指先にまだ残っている。触れた柔肌の温もり。湿った吐息。耳元で震えた、名前を呼ぶ声――。
「課長、資料これでいいですか?」
湊がいつもの調子で、デスクの隣に立つ。
金曜と同じスーツ、同じ眼差し。でも――違って見える。たった一度、肌を重ねただけで、すべてが変わった。
「ああ、問題ない。会議の前にもう一回確認しよう」
声が少しだけ掠れた。崇自身が驚いた。
「……声、どうしました?」
「いや、ちょっと寝不足でな」
「……ふうん。俺もですけどね」
湊が小さく笑った。その笑みに、金曜の夜がちらつく。ベッドの上で見せた、甘い声と蕩けた瞳。あれが、今目の前にいる男と同一人物だなんて、他人に言っても信じてもらえないだろう。
「このあと、例のクライアント先。ふたりで行くんですよね?」
「ああ、13時出発。昼は外で食っていこう」
「……まるでデートみたいですね」
「バカ言え。仕事だ」
「はいはい。じゃあ、仕事中はちゃんと課長モードでお願いしますよ」
じゃれてるように見せて、ぎりぎりのところを突いてくる。まるで崇の反応を確かめているみたいだ。
――あいつ、わざとやってるな。
昼、社用車での移動中。助手席に湊を乗せ、都内の環八を南へ走る。沈黙の車内に、カーナビの音声とエアコンの風が混じる。
「……奥さん、年末まで戻らないんですか?」
不意に湊が聞いた。
「……ああ。こっちでの親戚付き合いが面倒だってさ。子どもも向こうのじいさんばあさんに会わせたがってる」
「……俺、課長の子どもに会ったら、嫉妬しそうだな」
冗談めかして言うその言葉に、崇は咄嗟に言葉を返せなかった。
「……そんな顔しないでくださいよ」
「……悪い。油断してた」
「……俺ね」
信号で車が止まる。湊は、まっすぐ前を見たまま続けた。
「高校のとき、親に男とつるむなって殴られたことあるんです。向こうの親父、かなり厳格で」
崇は黙ってハンドルを握り直す。
「だから、大学も東京に逃げた。……誰にもバレなきゃ、って思ってた。女と結婚して、子ども作って、仕事して……。そうすれば、普通の人生を歩けるって」
湊の声がわずかに震えていた。だけど、涙はなかった。
「……でも、金曜の夜、課長に抱かれて、全部どうでもよくなりました」
信号が青に変わる。車が滑るように動き出す。
運転席と助手席。わずかに離れた距離。けれど、金曜の夜よりも、ずっと近く感じた。
クライアントとの商談は、滞りなく終わった。
帰社する頃にはもう夕方だったが、どちらも口数が少なかった。崇の中には、湊の言葉がずっと渦巻いていた。
「……今夜も、奥さん帰ってこないんですよね」
ビルのエレベーターで、ふたりきりになった瞬間。湊がそっと尋ねた。
「ああ」
「……今日、泊まりに行っていいですか?」
声が、ささやくように落ちた。
「……もう、あんなの一回だけじゃ、足りない」
崇は湊の目を見た。
理性と欲望。その両方が拮抗していた。
「……仕事終わったら、連絡しろ」
湊は小さく頷き、そっと笑った。その笑みは、ほんの少し震えていた。
次回予告
第3話「境界線の先」
――ふたり目線で綴られる、二度目の夜。
より深く、より激しく、そして壊れ始める「普通の生活」。
欲望に飲まれるほど、抜け出せなくなる。
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