第二十六話:火の名を問う者

【SE:ぱち、ぱち……と、静かな焔の音。どこかで、小枝がはぜる音がする】


夜は深く、霧の帳が静かに森を覆っていた。

その中に、小さな焚き火のような灯りが一つ、じっと動かずに燃えている。


槇篝だった。


火に照らされたその横顔には、怯えでも怒りでもなく、

ただ、問いを抱えたような――迷いがあった。


「……私は、何のために、生まれてきたのだろう」


誰に向けるでもないその声は、

火の揺らぎに吸われて、夜の中に溶けていく。


彼女の背に、かつて刺青のように刻まれていた“印”――

贄として、咲くことを命じられた証。


けれど今、それはうっすらと、剥がれかけているように見えた。


「篝火――」


その名を呼ぶ声がした。


現れたのは、青年・響。

濡れた外套を肩にかけたまま、火のそばへと歩み寄ってくる。


「君が、自分の名を語る時……

 その声が、あまりに静かだったから……聞こえなくなりそうだった」


槇篝は答えない。

ただ、火を見つめ続ける。


「名を奪われた者は、名を取り戻せるのか」


青年は、そう問いかけるように言いながら、槇篝の前にしゃがんだ。


「名は、与えられるものじゃない。……選ぶものだと、僕は思ってる」


槇篝の瞳が、わずかに揺れる。

火が、ぱち、と小さく爆ぜた。


「じゃあ、私が“篝火”であると、選んだなら……

 それは、咲いてもいいということ?」


「それは、君が決めていいことだ」


夜の静けさが、ふたりの間に漂った。

やがて槇篝は、焔の中に手をかざす。


その手に、火は触れなかった。

けれど、彼女の目に映る炎は――確かに、揺らいでいた。


「なら……私は、自分の火を、灯してみる」


小さな声だった。

けれど、その言葉は、

森の闇の中で、確かに燃えはじめた火種だった。


【SE:夜の風が、枝を揺らす音。小さな火が、ひとつ大きくなる】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る