逸脱

鹽夜亮

逸脱

 現実から逸脱する…それは決して、逃避でも飛躍でもない。心と感性は、時に現実を超える。時間を、空間を、理屈を。超えた先に、何かを識る。

 それは説明ができない。言葉にすることもできない。表現することもできない。

 表そうとした言葉は、全て否定形で表れる。言語を否定する、それでのみ定義される、あの不可思議。


 私はそれを、ここに語り尽くす。


 その逸脱に、言語は絶対の壁を越えられない。理屈は押し黙る。ただ、現実の、『何か』だけが解答を用意する。その現実の何かへの接続回路…それをあえて私は、感性の延長と呼ぼう。

 それは神経回路の拡張であり、自我の範囲の拡大であり、世界への融合であり、飲み込まれ、飲み込むものである。思考ではなく、知性でもない。仮に表現するなら、感性に高い何ものか、である。

 それは直感として姿を現す。または、夢として、白昼夢として、微睡の中に揺蕩うあの、不可思議な映像として。第六感、霊感、幻覚、幻聴。様々な形容はある。だが、私の語る『それ』は、その形容と近接しながらも、すれ違い続ける。何故なら、私は言葉にできない『それ』を語っているからだ。

 『それ』は日常のあらゆる狭間に、あらゆる瞬間に、芽吹く。形を変えながら、しかし確かな見えざる根源を持って、持ち主に種を植え、花が開く。

 『それ』は、いわば深淵な芸術の、源泉でもある。リビドー、タナトス、アニマアニムス…様々に形容され続けてきた人間の心の中の、奥底にある微細な疼き。それの、震え。その微震が、現実に表出した時、『それ』は立ち昇る。掴めない煙のように。

 私は今、『それ』を定義する言葉を探している。だが同時に、その試みがあまりにも無意味で、不可能であることも知っている。この矛盾は、不条理だ。言葉でしか世界を理解できない人間の、言葉では理解できない持ち物…その永遠の葛藤は、不条理な葛藤に他ならない。

 『それ』は肉体に付随する。しかし、形を持たない。精神にも付随する。しかし、思考も、言葉も持たない。魂にも付随する。しかし、神聖さや飛躍を拒否する。感性にも付随する。しかし、それは感性の枠組みを超越している。…『それ』は自我に付随しながら、自我を超越する。

 集合的無意識、その言葉は確かに、『それ』に限りなく近い何かを示している。しかしそれそのものが、『それ』ではない。『それ』はさらに個人的で、内向的で、流動しない、他者との紐付けに関係ない…己のうちに潜み続け、拡張する何ものか、である。

 『それ』は用いられるものではない。訪れるものである。知るものではない。知らされるものである。語るものではない。語られるものである。『それ』に対して、自我は常に受動的である。だが、『それ』は決して自我そのものを内包しない。その内部で、無限に拡張する、何ものかである。

 言葉を尽くし、思考を尽くし、感性を尽くし、『それ』を私は捉えようと躍起になる。その試みが無駄だと知っていても、無駄だからこそ『それ』なのだ、と知っていても、私は掴もうとする。

 私が、人間だからだ。人間は、理屈を求める。定義を求める。言葉を求め、形を求める。そこに安住を見出し、名付けることで使役し、支配する。だからこそ『それ』は永遠に、人間に手懐けられるのとはない。

 『それ』は自然の、あの理不尽で美しい、完璧な世界と似ている。何者にも服従せず、何者の支配も受けず、ただ、在る。『それ』は人間のうちに宿るには、あまりにも自然的な、構造をしている。

 ここに来て、私は『それ』に一つ名をつけたい


 『人間の内部に内在化された不条理』だ。…


 だが、これも厳密に『それ』を定義したわけではない。『それ』と思考や知性、世界との関係性を含んだ、定義だ。ここまで来ても、『それ』そのものを言葉に模ることはできない。


 脳がむず痒さを発する。脳髄の先端が、痺れるように痙攣する。神経回路が微細な点火を繰り返す。

 

 この、快と不快の連続的運動こそ、『それ』の肉体的、感性的微震に他ならない。痙攣に近い、あの存在の、固定と動態の中間…思考と理性の、欲動と感性の狭間…人間に内在されたあらゆるものの、その中間に、『それ』は位置する。それは、流動ではない。色彩の変化に、限りなく近い。常に変化する色彩は、形容することができない。何故なら、言葉にする時には、すでに変容しているからだ。表出する瞬間に、その根源の息吹は既に色を変えている。…

 私は、特別な何かを語っているわけではない。『それ』は誰の中にでも在る。ただ、認識され難いだけだ。そして、その認識が、『認識を超えることがない』だけだ。定義を拒否し、解釈を拒否し、分析を拒否し、分類を拒否する。『それ』はあらゆる形式を拒否しながら、ただ在り続ける。

 『それ』の力を感じることは、一種の絶望的な認識に他ならない。『それ』の前で、人間は沈黙する。言葉は意味を失い、思考は横を掠め、知性は敗北する。

 最後に、私なりの『それ』についての定義をもう一つ書いておこう。


『それ』は、微睡の中の、あの睡魔に似ている。…

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逸脱 鹽夜亮 @yuu1201

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