もう一度、家族になる日
@pappajime
― 異世界の村と現実の家で ―
No1 灯りのない日々
夕暮れの東京・西新宿。
ビル群の谷間を駆け抜ける風が、凛のスカートの裾を不器用に揺らした。電子看板の青白い光が、彼女の横顔を淡く照らす。スマートウォッチのアラートが無機質な振動を伝え、19時47分――定時から2時間が過ぎた残業時間を、赤い数字で無情に刻んでいる。
「凛さん、また今日もファイトですか?」
隣のデスクから、同僚の真由が明るい声をかけてきた。クリップボードを抱えた新入社員が、コピー用紙の束を揺らしながら覗き込む。
凛はモニターに映る資料校正画面から視線を外さず、軽く手を振る。
「先に帰っていいわよ。私もう少しやるから」
そう言いながらも、実際は帰る場所が怖かった。三日前に妹から届いたLINE、《お姉ちゃん、今度の連休実家に来る? お母さん、ずっとソファでアルバム見てるよ》の既読マークが、胃の裏側に鈍い塊を残している。
オフィスの窓ガラスに映る自分の姿が、ふいに幼い日の記憶を呼び起こす。
小学五年生の夏休み、家族で訪れた軽井沢の別荘。夕立に濡れた三人が大騒ぎでタオルを奪い合い、父が薪ストーブにマシュマロを突っ込んで真っ黒に焦がした。あの時の笑い声は、いつの間にか電子機器の通知音に置き換わってしまったのだ。
22時過ぎにオフィスを出ると、エレベーターの鏡面に映る自分がどこか他人のように見えた。アイロンのかかったスーツ、整えた髪、だが目元にはコンシーラーでも隠しきれない隈がくっきりと残っている。スマホの待受画面は、去年の正月に撮った家族写真のままだ。父が他界してから初めて揃った記念撮影――四人全員の笑顔には、どこか微妙なずれがあった。
「おかえりなさい、凛さん」
賃貸マンションのAIスピーカーが淡々と挨拶する。6畳一間の部屋には、未開封の宅配便が三箱積まれていた。実家から送られてきた段ボールには「冷蔵庫に入れてください」と妹の走り書きがあるが、中身はもう十日間放置されたままだ。
冷蔵庫を開けると、コンビニ弁当のパッケージがガサガサと音を立てる。父の命日を忘れて実家から帰った時、母が無言でリビングの仏壇に線香を立てる背中。妹が「お姉ちゃんなんて家族じゃない」と吐き捨てた中学生の夏休み。それでも月に一度は必ず送られてくる野菜や手作りジャムが、今はただ罪悪感の種のように部屋の隅で腐敗を待っている。
シャワーのお湯が首筋を伝う頃、スマホが震えた。母からの着信履歴が三件。去年の健康診断で「軽度の認知症の疑い」と診断されたと聞いて以来、電話の度に胸が締め付けられる。しかし今夜は押し寄せる疲労がそれを上回り、タオルで髪を拭いながらベッドに倒れ込んだ。
枕元のデジタルフォトフレームが、自動的にアルバムを再生し始める。小学校の運動会で父と手をつないでいる映像、高校卒業式で母が泣きながら抱きしめてくる瞬間、妹が初めて歩いた日――全ての記憶が鮮明すぎるほど蘇る。
フォトフレームの電源を乱暴に切り、代わりに睡眠導入剤の瓶を手に取った。
窓の外で救急車のサイレンが遠のいていく。凛は薄紅色の錠剤を掌で転がしながら、ふと考える。あの軽井沢の別荘は、もう誰も訪れないままなのだろうか。父が残したあの場所で、また家族が笑い合う日は来るのだろうか――。
次の瞬間、枕元のフォトフレームが突然明滅し始めた。睡眠薬の影響で滲む視界の向こう、液晶画面に映った幼い日の家族写真がゆっくりと色を変えていく。森の緑が濃密に渦巻き、写真の中の父の手が、今にも画面から伸びてきそうな錯覚に包まれる。
「おかしい……薬の飲み過ぎかしら」
震える指で水のボトルを探ろうとした時、ベッドの下から土の匂いが立ち上ってきた。森の湿気と腐葉土の香り――軽井沢の別荘周辺でしか嗅いだことのないあの匂いだ。意識が遠のく直前、凛はフォトフレームの画面に吸い込まれるような感覚に襲われた。
No2 忘れられた約束
朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込む。
凛は目覚まし時計の電子音で目を覚ました。昨夜、睡眠導入剤を飲んだせいか、頭の奥が重く鈍い。ベッドの上でしばらく身動きもせずにいたが、スマホの通知音が現実へと引き戻す。
「……また、母さんからか」
画面には母からのメッセージがいくつも並んでいた。《お父さんの命日だから、今日こそ帰ってきてほしい》《妹も待ってるよ》――どれも、凛の胸に重くのしかかる。
仕方なく身支度を整え、実家へ向かうことにした。
西新宿のマンションを出て、電車に揺られること一時間半。郊外の駅前は、都心の喧騒とは異なる静けさに包まれている。駅から徒歩十五分、懐かしい道を歩きながら、凛は小さくため息をついた。
「……ただの義務感よ。家族だからって、なんで私ばっかり」
心の中で呟きながら、実家の門をくぐる。庭の紫陽花が咲き誇っていた。かつて父と妹と三人で花を摘んだ場所。今はその思い出すら、どこか遠く霞んでしまったように感じられる。
玄関を開けると、母が台所から顔を出した。
「凛、帰ってきたのね。おかえり」
「……ただいま」
素っ気ない返事に、母は少し寂しそうに微笑む。リビングには妹の沙耶もいた。スマホをいじりながら、ちらりと凛を見上げる。
「お姉ちゃん、久しぶり」
「うん」
それだけで会話が途切れ、空気が重く沈む。
母は仏壇の前に座り、線香を手向けていた。
「お父さん、今日は凛も帰ってきたよ」
その言葉が、凛の胸に小さな棘を残す。
「……私、仕事で忙しいんだから。毎回帰ってこられるわけじゃない」
「そんなこと言わなくても。家族なんだから、たまには顔を見せてくれてもいいじゃない」
母の声は柔らかいが、どこか責める響きが混じる。
「家族、家族って……。私はもう大人だし、別に家族で集まらなくてもいいでしょ」
「何言ってるの。お父さんがいなくなってから、私たち三人で支え合ってきたじゃない」
「支え合ってきた? 私は一人でやってきたつもりだけど」
凛の声が思わず尖る。母は悲しげに目を伏せ、沙耶が口を挟んだ。
「お姉ちゃん、そんな言い方しなくても……。お母さん、ずっとお姉ちゃんのこと心配してるんだよ」
「沙耶は何も分かってない。私がどれだけ仕事で大変か、家族のことまで考える余裕なんてないの!」
言い合いは次第に激しさを増していく。母は「もうやめなさい」と静かに制するが、凛の苛立ちは収まらない。
「もういい! 私、帰る!」
凛はバッグを掴み、玄関に向かった。
「凛、待って!」
母の声が背中に突き刺さるが、振り返らなかった。
「もう帰らないから!」
ドアを強く閉め、外へ飛び出す。
庭の紫陽花が、雨に濡れてしおれていた。
駅までの道を早足で歩きながら、凛は涙を堪えた。
「どうして、家族ってだけで、こんなに苦しいのだろう……」
電車に乗り込み、窓の外の景色が流れていく。
実家の温もりも、家族の笑顔も、今はただ遠ざかるばかりだった。
凛はスマホを強く握りしめ、心の中で何度も繰り返す。
「家族なんて、ただの同居人。もう、私には必要ない……」
その夜、凛は再び一人きりの部屋で、眠れぬまま天井を見つめていた。
心の奥底に、言葉にならない寂しさと後悔が、じわじわと広がっていくのを感じながら――。
No3 写真の中の森
深夜の部屋。
凛はベッドに横たわり、天井の薄いシミをぼんやりと見つめていた。家族との激しい口論の余韻が、まだ胸の奥に燻っている。
「もう、家族なんて……」
小さく呟いたその瞬間、枕元のフォトフレームが突然、淡い光を放ち始めた。画面に映る幼い日の家族写真が、じわじわと色彩を変えていく。森の緑が濃くなり、写真の中の父の手が、今にもこちらに差し伸べられるように見えた。
凛は目を閉じ、眠気に身を任せようとする。しかし、どこか現実離れした土の匂いが鼻先をかすめた。
「……おかしいな」
半ば夢うつつのまま、身体がふわりと浮かぶような感覚に包まれる。
次の瞬間、足元が崩れ、重力から解き放たれるような浮遊感が凛を襲った。
——遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
まぶたを開けると、そこは見知らぬ森の中だった。
濃密な緑の木々、湿った土の香り、そして遠くから聞こえる水音。
「……ここは、どこ?」
凛はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。
自分が寝ていたはずのベッドも、マンションの天井も消えていた。あるのは、木漏れ日が揺れる森の小道だけ。
手元を見ると、フォトフレームが小さな光の粒となって消えていく。
「夢……じゃないの?」
頬をつねると、はっきりと痛みが走る。現実感がじわじわと押し寄せてきた。
森の奥から、かすかな話し声と、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
凛は恐る恐る歩き出した。足元は柔らかな苔に覆われ、都会のアスファルトとはまるで違う感触が広がる。
やがて森を抜けると、目の前に小さな村が現れた。
石造りの家々、煙突から立ち上る煙、畑で働く人々。どこか懐かしく、それでいて見たことのない風景が広がっている。
「……どうして、こんな場所に?」
混乱しながらも、凛は村の入り口まで歩みを進めていく。
村の門には、奇妙な紋章が刻まれていた。その紋章は、どこかで見覚えがあるような、不思議な安心感を与えてくる。
門の向こうから、ひとりの老人がゆっくりと歩み寄ってきた。
「おや、旅のお方かい? 見ない顔じゃな」
老人は優しく微笑み、凛をじっと見つめる。
「えっと……ここは、どこですか?」
「ここは“結びの村”。心を結ぶ者たちが集う場所じゃよ」
老人の言葉に、凛の困惑はますます深まった。
「私は……どうしてここに?」
「迷い人か。まあ、腹が減っておるじゃろう。まずは中へお入りなさい」
老人はそう言って、凛を村の中へと導いた。
村の中は、どこか温かい空気に包まれていた。
子どもたちが駆け回り、夫婦が寄り添い、老人たちが縁側で語り合っている。
だが、そのどの顔にも見覚えはない。
「夢じゃない……。でも、現実とも思えない」
凛は自分の手を見つめ、深く息をついた。
胸の奥に、これから始まる物語の予感が、静かに広がっていく。
こうして、凛の異世界での物語が静かに始まった――。
No4 柔らかな風が吹く場所
「さあ、こっちじゃ。遠慮せずについてきなさい」
老人の背中を追いながら、凛は村の入り口をくぐった。
足元の石畳は丸く磨かれ、両脇には色とりどりの花が咲き誇っている。空気は澄み切り、どこか懐かしい土と草の香りが鼻腔をくすぐった。
村の中心には大きな広場があり、中央には一本の巨木がそびえていた。
その幹には、色とりどりの布が結ばれている。風に揺れる布の端が、まるで誰かの願いを運んでいるかのように見えた。
「ここは“結びの村”と呼ばれておる。見ての通り、みんな仲良く暮らしておるじゃろう」
老人はにこやかに語る。
広場では、年配の女性が子どもたちと一緒にパンを焼き、若い男たちが井戸の水を汲み上げていた。
凛はその光景に、温かさと同時にどこか違和感を覚えた。
「……みんな、家族なんですか?」
凛が尋ねると、老人はゆっくりと首を振った。
「この村では、血のつながりはさほど重要ではない。心が結びついた者たちが、家族となるのじゃ」
「心が……?」
「そうじゃ。たとえば、あの子どもたちと一緒にいるあのおばあさん、実は血縁ではない。だが、あの子たちが寂しそうにしていた時、おばあさんが手を差し伸べて、今では立派な“家族”じゃよ」
凛は思わず子どもたちとおばあさんの様子を見つめた。
子どもたちは屈託なく笑い、おばあさんの膝に頭を預けている。そこには、血のつながりを超えた親密さが確かにあった。
「この村では、“家族”とは一緒に過ごし、心を通わせることで生まれるものなんじゃ」
老人の言葉は、凛の胸に小さな波紋を広げた。
自分の世界では、家族とは生まれながらに決まっているもの。だが、この村では、心の結びつきがすべての基準となっている。
村の家々はどれも小さく、温かみのある造りだった。
窓辺には手作りのカーテン、玄関には木彫りの飾り。
家の前を通ると、中から楽しげな笑い声や、誰かが歌う穏やかな歌が聞こえてくる。
凛はその音に、なぜか胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
「迷い人よ、まずは腹ごしらえじゃな」
老人は凛を小さな食堂へ案内した。
中では、初老の夫婦が仲良く料理を作っている。
「いらっしゃい。お腹、空いてるでしょう?」
優しい声の女性が、焼きたてのパンと温かいスープを差し出した。
「ありがとう……ございます」
戸惑いながらも、凛はスープを口に運ぶ。
野菜の甘みと、どこか懐かしい味が口いっぱいに広がった。
「おいしい……」
思わずこぼれた言葉に、夫婦は顔を見合わせて微笑む。
「ここでは、みんなで食卓を囲むのが当たり前なのよ」
女性はそう言い、凛の隣に腰を下ろした。
「家族じゃなくても?」
「ええ。ここにいる限り、あなたも“誰かの家族”なのよ」
その言葉に、凛は戸惑いながらも、ほんの少しだけ心が温まるのを感じた。
食堂の窓からは、村の広場が見える。
子どもたちが手をつなぎ、輪になって踊っている。
その中心には、やはりあの巨木がそびえていた。
「この村の人たちにとって、“家族”って何なんだろう……」
凛はぼんやりと、踊る子どもたちと揺れる布を見つめていた。
その夜、凛は村の片隅にある小さな宿に泊まることになった。
窓の外には満天の星。
都会の喧騒も、家族とのわだかまりも、遠い世界の出来事のように思えた。
だが、心の奥底には、まだ拭いきれない戸惑いと不安が残っていた。
「私は……ここで、どうすればいいのだろう」
そう呟いた凛の耳に、どこからか微かな歌声が届いた。
それは、村の誰かが家族に向けて歌っている、優しい子守歌だった。
No5 名もなき家族達
翌朝、凛は村の小さな宿のベッドで目を覚ました。
窓の外には、朝露に濡れた草花がきらきらと輝いている。鳥のさえずりと、遠くから聞こえる子どもたちの笑い声。夢の続きのような静けさと温かさが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「……現実なのだろうか」
自分の手の甲をつねると、しっかりと痛みが走る。
昨夜の出来事は夢ではなく、凛は本当にこの不思議な村にいるのだと実感した。
身支度を整えて宿を出ると、村の広場ではすでに人々が忙しそうに動いていた。
子どもたちが水汲みを手伝い、女性たちはパン生地をこねている。
老人たちは縁側でお茶を飲みながら、穏やかに談笑していた。
凛は少し戸惑いながらも、広場を歩き始める。
そのとき、ひとりの老人が声をかけてきた。昨日、村の入り口で出会ったあの老人だ。
「おはよう、迷い人さん。よく眠れたかい?」
「はい……おかげさまで」
「それはよかった。今日は村を案内してあげよう」
老人はそう言って、凛を広場の一角へと導いた。
そこには、気難しそうな顔をした老人がひとり、木彫りの椅子に腰かけていた。
白髪まじりの髭、深いしわが刻まれた顔、そして鋭い眼差し。
「おい、そこの若いの。見慣れぬ顔だな」
ぶっきらぼうな声に、凛は思わず身構えた。
「この方は、村の長老のひとり、カザンさんだよ」
案内してくれた老人が微笑む。
カザンはじろりと凛を見つめて、ふん、と鼻を鳴らした。
「迷い人か。どうせすぐに出ていくだろう。ここは心の弱い者には向かん」
その言葉に、凛の胸に小さな痛みが走った。
だが、案内の老人は穏やかに笑う。
「カザンさんは口は悪いが、根は優しいんだ。村の誰よりも家族思いでね」
「余計なことを言うな、ジン」
カザンはそっぽを向いたが、膝の上には小さな子どもがちょこんと座っている。
「おじいちゃん、今日もお話して!」
「うるさいな。……まあ、いい。迷い人、お前も聞いていけ」
カザンはそう言って、子どもたちに昔話を語り始めた。
凛はその輪に加わった。
最初は戸惑いながらも、子どもたちの純粋な目と、カザンの不器用な優しさに、少しずつ心がほぐれていくのを感じる。
やがて、陽気な子どもたちが凛の手を引いて広場の端へ連れていった。
「お姉ちゃん、あそぼう!」
「一緒に花かんむり作ろうよ!」
凛は戸惑いながらも、子どもたちと一緒に草花を摘み、花かんむりを編んだ。
「お姉ちゃん、うまいね!」
「ほんと? ありがとう……」
自然と笑みがこぼれる。
都会での生活では、こんなふうに誰かと無邪気に笑い合うことなどなかった。
その後、広場の片隅で、優しそうな夫婦が凛に声をかけてきた。
「よかったら、朝ごはんを一緒にどう?」
「え……いいのですか?」
「もちろん。ここではみんなで食べるのが当たり前だから」
夫婦と子どもたち、そして凛。
大きなテーブルを囲み、焼きたてのパンや新鮮な野菜を分け合う。
誰もが自然に会話し、笑い合っている。
その光景に、凛は胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じた。
食事のあと、村の人々が凛に声をかけてくる。
「困ったことがあったら、何でも言ってね」
「この村では、みんなが家族だから」
その言葉に、凛は戸惑いながらも、どこか安心していた。
村での初めての交流。
気難しい老人、陽気な子どもたち、優しい夫婦。
彼らと過ごすひとときが、凛の心に少しずつ変化をもたらし始めていた。
「……家族とは、こういうものなのだろうか」
凛はふと、そんなことを思う。
血のつながりではなく、心の結びつきで生まれる温かな絆。
まだ戸惑いは残るものの、凛はこの村で何かを見つけられるかもしれない――そんな予感を抱き始めていた。
No6 小さな手のぬくもり
日が高くなるにつれ、村の広場はますます賑やかさを増していった。
凛は朝食を共にした夫婦――穏やかな笑顔のリオと、朗らかな声のマナ――に誘われ、村の小道を歩いていた。
リオは畑で働く人々に気さくに声をかけ、マナは子どもたちの手を引きながら、時折凛の様子を気遣うように振り返る。
「今日は、凛さんも私たちの家に来てくれる?」
マナが優しく微笑みかけてきた。
「え……私が?」
「もちろん。迷い人は、まず“仮の家族”として誰かの家で過ごすのが、この村のしきたりなの」
リオも穏やかに頷く。
「しばらく一緒に暮らしてみて、心が結びついたら本当の家族になる。そうでなくても、お互いに学び合う時間になるんだ」
凛は戸惑いながらも、二人の申し出を断る理由が見つからなかった。
リオとマナの家は、広場から少し離れた小高い丘の上にあった。
木組みの家は小さく、窓からは柔らかな陽射しが差し込む。玄関には色とりどりの花が飾られ、どこか懐かしい温もりが漂っていた。
「どうぞ、遠慮しないで」
マナがドアを開けると、家の中には焼きたてのパンの香りが満ちていた。
壁には家族の写真や手作りの飾りが並び、どれもが丁寧に手入れされている。
「ここが、私たちの家。今日から凛さんも“仮の家族”よ」
マナはそう言って、凛の手をそっと握った。
最初はぎこちなさが残った。
リオは畑仕事に出かけ、マナは家事をしながら凛にいろいろと話しかけてくる。
「都会では、どんなお仕事をしていたの?」
「……事務の仕事です。毎日、パソコンとにらめっこで」
「大変だったでしょう? ここでは、みんなで分け合うから、ひとりで抱え込まなくていいのよ」
マナの言葉は、凛の心に優しく染み込んでいく。
昼になると、リオが畑から新鮮な野菜を抱えて帰ってきた。
「今日は凛さんのために、特別なスープを作ろう」
リオは大きな鍋に野菜を入れ、マナと二人で手際よく料理を始めた。
凛も手伝おうとしたが、包丁を持つ手が少し震えてしまう。
「大丈夫、ゆっくりでいいんだよ」
リオがそっと手を添えてくれる。その温もりに、思わず涙がこぼれそうになった。
食事の時間、三人はテーブルを囲む。
「いただきます」
声を揃えて手を合わせる。
スープの優しい味が、凛の心の隙間を少しずつ埋めていく。
「どう? 美味しい?」
「……うん、とても」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
午後は、マナと一緒に家の掃除をした。
窓を磨き、床を拭き、ベッドのシーツを干す。
都会の生活では、こんなふうに誰かと家事を分け合うことなどなかった。
「凛さん、ここにいる間は、私たちの家族だと思って、何でも頼ってね」
マナはそう言って、凛の肩をそっと抱いた。
夕方になると、村の子どもたちが遊びにやってくる。
「お姉ちゃん、かくれんぼしよう!」
「一緒におやつ作ろう!」
最初は戸惑っていた凛も、子どもたちの無邪気な笑顔に引き込まれ、気がつけば一緒に笑い合っていた。
夜、リオとマナは凛のために特別なハーブティーを淹れてくれた。
「この村では、家族は“心で結ぶもの”なの」
マナが静かに語る。
「血のつながりがなくても、こうして一緒に過ごし、思いを分け合うことで、家族になれるのよ」
凛はカップを両手で包み込み、湯気の向こうにリオとマナの優しい顔を見つめた。
「……私、本当の家族って何なのか、分からなくなっていた」
「大丈夫。焦らなくていいの。ここで、ゆっくり見つけていこう」
マナの言葉に、凛は初めて心から「ありがとう」と言えた。
その夜、凛はふかふかのベッドに横たわり、窓の外に広がる星空を見上げた。
都会の孤独な部屋で感じていた冷たさは、もうここにはなかった。
「私も……この家の一員になれるのだろうか」
そんな思いが、静かに心の奥に芽生え始めていた。
No7 灯火の輪の中で
翌朝、凛はリオとマナの家で目を覚ました。
窓から差し込む柔らかな日差し、遠くで聞こえる鳥のさえずり。都会の喧騒とはまるで違う、静かで穏やかな朝が広がっている。
朝食の準備を手伝いながら、凛は昨日の出来事を思い返していた。
自分がこの家に「仮の家族」として迎え入れられたこと、そして村の人々の自然な優しさ。
それでも、心の奥にはまだ拭いきれない違和感が残っていた。
「凛さん、パンが焼けたわよ」
マナが焼きたてのパンをテーブルに並べる。
リオは庭で摘んできたハーブをサラダに混ぜている。
三人でテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせると、ふいにリオが凛に話しかけた。
「凛さんの世界では、家族ってどんなものなんだい?」
「え……」
凛は一瞬、言葉に詰まった。
「私の世界では、家族は……生まれたときから決まっていて。血のつながりがある人たちのことを家族って呼ぶのが普通です」
「ふむふむ」
リオは興味深そうに頷く。
「でも、この村では違うんだよ」
マナがやわらかく微笑んだ。
「ここでは、血のつながりよりも“心の結びつき”が大事なの。たとえば、親子でも、血がつながっていなくても、一緒に過ごして、心が通じ合えば家族になれるの」
「……不思議ですね」
凛はパンをちぎりながら呟いた。
「私の世界では、家族っていうだけで、いろんな期待や責任がついてきて……。でも、ここでは、誰とでも家族になれるんですね」
「そう。だから、家族の形もいろいろよ」
マナはテーブルの向こうでにこやかに続ける。
「たとえば、うちの隣の家のエルナさんは、ずっとひとりだったけど、今は村の子どもたちと一緒に暮らしているの。血はつながっていないけど、みんなが“家族”だって思っているわ」
「それに、村の長老のカザンさんも、もともとはこの村の出身じゃないんだ」
リオが補足する。
「でも、村の人たちと心を通わせて、今ではみんなの“おじいちゃん”さ」
凛は驚いた顔で二人を見つめた。
「じゃあ、家族って……一緒にいる時間や、気持ちで決まるんですか?」
「そうよ」
マナが優しく頷く。
「この村では、誰かと心を通わせて、互いに大切だと思えたら、それが家族なの」
食事のあと、三人で庭の手入れをした。
リオは土を耕し、マナは花に水をやり、凛は二人の手伝いをしながら、村の家々を見渡す。
どの家にも、血縁を超えた“家族”が暮らしている。
笑い合う子どもたち、寄り添う老人と若者、手をつなぐ夫婦――そのどれもが、温かな絆で結ばれているように見えた。
「私の世界では、家族って厄介なものだと思っていた。でも、ここでは……」
凛の心に、少しずつ新しい感情が芽生え始めていた。
その日の夕方、村の広場ではみんなが集まり、歌を歌い、踊りを踊った。
リオとマナも凛を誘い、手を取り合って輪の中へ。
凛は最初こそ戸惑ったが、村人たちの優しい笑顔に包まれて、自然と笑みがこぼれた。
「家族の形は一つじゃない」
その言葉が、凛の胸の奥に静かに響いていた。
No8 言葉なきやさしさ
夕暮れが近づくと、村はやわらかな金色の光に包まれていった。
凛はリオとマナの家を出て、ひとりで村の小道を歩いていた。
石畳の道を進むうち、広場の端にある大きな木の下に、昨日出会った長老・カザンの姿が見えた。
彼は静かにパイプをくゆらせ、遠くの山並みをじっと眺めている。
「……こんばんは」
凛はおずおずと声をかけた。
カザンはちらりと凛を見上げ、ふん、と鼻を鳴らす。
「また来たのか、迷い人」
「はい。少し、お話してもいいですか?」
「勝手にしろ」
ぶっきらぼうな返事だったが、カザンの横にはもうひとつ小さな椅子が置かれていた。
凛はそこに腰を下ろす。
しばらく、二人の間に静かな沈黙が流れた。
カザンはパイプをくゆらせ、凛は空を見上げる。
やがて、カザンがぽつりと口を開いた。
「お前、家族ってものが分からなくなっているんだろう」
「……どうして分かるんですか?」
「この村に迷い込むやつは、みんなそうだ。心に隙間ができて、何かを探しに来る」
カザンの声には、どこか優しさが滲んでいた。
「俺もな、昔は家族なんていらないと思っていた」
「え?」
「若い頃、ひとりで旅をしていた。どこにも居場所がなくてな。だが、この村に来て、いろんな奴と出会った。血のつながりはなくても、心を通わせて、気づけば“家族”になっていた」
カザンは遠い目で語る。
「大事なのは、誰かのために何かをしたいと思えるかどうかだ。血なんぞ関係ない。心の絆がすべてだ」
「……心の絆」
凛はその言葉をゆっくりと反芻した。
「お前は、まだ自分を閉じている。だが、それでいい。無理に心を開く必要はない。大切なのは、誰かと一緒に過ごす時間の中で、少しずつ心が動くことだ」
カザンはそう言って、パイプを置いた。
「この村では、誰もお前を急かさない。自分のペースで、ここにいていい」
「……ありがとうございます」
凛は静かに頭を下げる。
「それに、家族ってのは厄介なものだ。時に傷つけ合い、時に支え合う。だが、心が結びつけば、どんな形でも家族になれる」
カザンはふっと笑い、遠くを見つめた。
「お前も、いつかこの村で“家族”を見つけるだろう」
凛はカザンの横顔を見つめた。
その顔には、長い年月を生きてきた者だけが持つ、深い優しさと孤独が刻まれている。
日が沈み、村に灯りがともるころ、カザンは立ち上がった。
「また話したくなったら、ここに来い。俺はいつでもいる」
「はい」
凛は自然と微笑んでいた。
その夜、凛はリオとマナの家に戻り、静かにベッドに横たわった。
カザンの言葉が、胸の奥であたたかく響いていた。
「……心の絆、か」
都会で忘れていた何かが、少しずつ蘇り始めている気がした。
No9 土と笑顔のある暮らし
翌朝、凛は村の広場から響く子どもたちの歓声で目を覚ました。
窓の外では、朝露に濡れた草の上を、子どもたちが裸足で駆け回っている。
都会では見かけない、生命力に満ちたその姿に、凛は思わず微笑んでいた。
朝食を終えると、マナが声をかけてくる。
「今日は子どもたちと一緒に過ごしてみない?」
「……私が?」
「ええ。みんな、凛さんに興味津々なの」
少し戸惑いながらも、凛は広場へ向かった。
子どもたちはすぐに凛を取り囲み、「お姉ちゃん、あそぼう!」「花かんむり作ろう!」と無邪気に誘ってくる。
年齢も性格もさまざまだが、誰もが分け隔てなく凛に声をかけてくるのが印象的だった。
その中のひとり、まだ幼い女の子が凛の手をぎゅっと握った。
「お姉ちゃん、こっちに来て! 秘密の場所があるんだよ!」
子どもたちに手を引かれ、凛は村の裏手にある小さな森へと連れていかれる。
森の中では、子どもたちが木登りをしたり、虫を追いかけたり、思い思いに遊んでいた。
凛も一緒になって花を摘み、泥だらけになりながら笑い合う。
「お姉ちゃん、すごい! 花かんむり上手だね!」
「都会では、こんなふうに遊ぶことなかったな……」
ふと、凛は自分が子どものころ、妹や両親と庭で遊んだ記憶を思い出す。
だが、今目の前にいる子どもたちは、血のつながりもないのに、まるで本当の家族のように凛に懐いてくる。
遊び疲れた子どもたちは、木陰で輪になって座り始めた。
「ねえ、お姉ちゃん。家族ってなに?」
突然の問いかけに、凛は言葉に詰まる。
「家族って……一緒にいる人、かな」
「じゃあ、今ここにいるみんなも家族?」
「……そうかもしれないね」
凛は、自然とそう答えていた。
村の子どもたちは、実の親と離れて暮らす子も多い。それでも、里親や村の大人たちと共に過ごし、日々の生活の中でかけがえのない絆を育んでいる。
血縁にとらわれず、心のつながりで“家族”を感じる子どもたちの姿に、凛の心は少しずつほぐれていった。
夕方、広場に戻ると、子どもたちは「また明日も遊ぼうね!」と笑顔で手を振った。
その無邪気な笑顔に、凛は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「家族って、こういうものなのかもしれない」
凛は、子どもたちの天真爛漫さに触れ、初めてそんな思いを抱いていた。
No10 一緒にいるという選択
夕暮れが近づくと、村の広場には穏やかな時間がゆっくりと流れ始めた。
子どもたちの歓声が遠ざかり、村人たちはそれぞれの家へと戻っていく。
凛はリオとマナの家へ帰る途中、ふと道端のベンチに腰かけている夫婦に目を留めた。
その夫婦は、村でも評判の仲睦まじい二人――エルナとトールだった。
エルナは白髪まじりの柔らかな髪を三つ編みにし、トールは大きな手でエルナの肩をそっと包み込むようにしている。
二人の間には、言葉にしなくても伝わる温かな空気が漂っていた。
「こんばんは、凛さん」
エルナが優しく声をかけてくれる。
「よかったら、少しお茶でもいかが?」
誘われるまま、凛は二人の家に招かれた。
家の中は、木の香りとパンの焼ける匂いに満ちている。
テーブルには手作りの焼き菓子とハーブティーが並び、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。
トールが大きなマグカップを凛の前に置き、エルナが微笑んで隣に座る。
「この村での暮らし、少しは慣れたかしら?」
「……はい。みなさんが優しくしてくれるので」
凛はカップを両手で包みながら答えた。
「でも、まだ戸惑うことばかりです。家族の形も、私の世界とは全然違っていて……」
エルナは静かに頷き、トールと目を合わせる。
「私たちも、最初はそうだったのよ」
トールがゆっくりと話し始めた。
「エルナと出会ったのは、もう三十年も前さ。お互い、家族を失ってこの村に来た。最初はただの隣人だったけど、一緒に畑を耕し、食卓を囲み、気づけば心が結びついていたんだ」
「血のつながりはなくても、心が寄り添えば家族になれる。そう教えてくれたのは、この村の暮らしだったわ」
エルナが微笑む。
「時には喧嘩もするし、意見が合わないこともある。でも、どんな時も相手を信じて、支え合う。それが私たちの家族の形なの」
凛は二人の話を聞きながら、ふと自分の家族を思い出した。
母と妹、そして亡くなった父。
血のつながりがあっても、心がすれ違い、互いに距離を感じていた日々。
「信じること、支え合うこと……」
小さく呟くと、エルナがそっと凛の手を握った。
「家族は、完璧じゃなくていいのよ。大切なのは、相手を思いやる気持ちと、共に過ごす時間」
トールも頷き、凛の肩を励ますように軽く叩いた。
「この村で、ゆっくり自分の家族の形を見つけてごらん。焦らなくていいさ」
夜が更け、凛はエルナとトールの家を後にした。
外に出ると、星空が広がっている。
その光の下で、凛は心の奥に小さな希望の灯がともるのを感じていた。
「信じ合う家族……私にも、そんな日が来るのだろうか」
そう思いながら、凛は静かにリオとマナの家へと帰っていった。
No11 風の中のかけがえなさ
夜の静けさが村をやさしく包み込む。
リオとマナの家に帰り着いた凛は、窓辺に腰かけて外の景色を眺めていた。
遠くでかすかに聞こえる子どもたちの笑い声、家々の窓からこぼれる温かな灯り――どれもが、都会の孤独な夜にはなかったものだ。
凛は今日一日の出来事を思い返していた。
子どもたちの無邪気な笑顔、エルナとトールの穏やかな夫婦の姿、カザンの不器用な優しさ。
この村の人々は、血縁に縛られることなく、心の結びつきで家族になっている。
その在り方に戸惑いながらも、凛の心は少しずつ変わり始めていた。
リオとマナは、凛のために温かいハーブティーを淹れてくれた。
「今日はどんな一日だった?」
マナが優しく問いかける。
「……いろんな人と話しました。みんな、家族のことを大切にしていて……。私の世界とは全然違うなって」
「そうかもしれないね。でも、凛さんの世界にも素敵な家族がいるんじゃない?」
リオが微笑む。
「……分かりません。私、家族と上手くいってなくて。ずっと、家族なんてただの同居人だと思っていました」
凛は、ぽつりと本音をこぼした。
マナは静かに凛の手を握る。
「誰だって、家族とすれ違うことはあるわ。でも、心を閉ざしてしまったら、何も始まらない。少しずつでいいの。ここで、ゆっくり心を開いていけばいいのよ」
その言葉に、凛は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「この村に来てから、少しだけ……変わってきた気がします」
凛は窓の外に目をやる。
「子どもたちと遊んで、夫婦の話を聞いて、カザンさんとも話して……。家族って、血のつながりだけじゃなくて、心でつながるものなんだって、少し思えるようになりました」
リオとマナは、優しく頷いた。
「焦らなくていいのよ」
マナがそっと凛の背中を撫でる。
「ここでの時間が、凛さんの心をやわらかくしてくれるはずだから」
その夜、凛はベッドに横たわり、静かな安堵とともに眠りについた。
都会で感じていた孤独や苛立ちは、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、村の人々の温もりが、凛の心に静かに染み込んでいくのを感じていた。
「……私も、誰かと本当の家族になれる日が来るのだろうか」
そんな小さな希望を胸に、凛は深い眠りに落ちていった。
No12 支え合うということ
朝露が降りた村の庭先で、凛は一人、洗濯物を干していた。
リオとマナは畑仕事に出かけ、家の中は静まり返っている。
ふと、柔らかな風が頬を撫で、どこからか子どもたちの歌声が聞こえてきた。
その歌声に耳を傾けていると、凛の心の奥底に、遠い記憶がそっと浮かび上がってくる。
――小さな頃、家族四人で過ごした休日の朝。
母がベランダで洗濯物を干し、父が庭で妹とキャッチボールをしていた。
凛は母の隣で、まだ小さな手でシャツをハンガーにかけるのを手伝っていた。
「上手ね、凛。お母さん助かっちゃう」
母のやさしい声と、太陽の光。
妹の笑い声、父の大きな手の温もり。
その全てが、今も鮮やかに蘇る。
いつしか、家族の時間は減り、言葉を交わすことも少なくなった。
父が亡くなってからは、家の中に静けさばかりが広がり、母とも妹ともすれ違いが増えていった。
「家族なんて、ただの同居人」
そう思うようになったのは、いつからだっただろう。
だが、今この村で過ごすうちに、凛の心には確かに変化が生まれていた。
血のつながりではなく、心の結びつきで家族になる人々。
リオやマナ、子どもたち、カザンやエルナとトール――
彼らと過ごす時間の中で、凛は「家族」の意味を少しずつ思い出し始めていた。
洗濯物を干し終えた凛は、庭のベンチに腰掛けて空を見上げた。
雲ひとつない青空。
その下で、子どもたちが手をつないで輪になって踊っている。
「家族って、本当はこういうものだったのかもしれない」
凛は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
そのとき、マナが畑から戻ってきて、凛の隣に座った。
「どうしたの? 今日はなんだか優しい顔をしてるわね」
「……昔のことを思い出していました。家族と過ごした時間のこと」
「素敵な思い出があるのね」
「はい。でも、いつの間にか忘れていました。家族って、ただ一緒にいるだけじゃなくて、心が通い合うことなんだって……」
マナはそっと凛の手を握り、微笑んだ。
「その気持ち、大切にしてね。きっと、あなたの家族にも届くわ」
凛は静かに頷いた。
過去の温かい記憶と、今この村で感じる新しい絆。
その両方が、凛の心をやわらかく包み込んでいくのを感じていた。
No13 失われた声を探して
凛が村での暮らしに少しずつ馴染み始めたある日のことだった。
朝から空気がどこかざわついている。広場では村人たちが集まり、緊張した面持ちで話し合っていた。
リオが慌てた様子で凛のもとに駆け寄ってくる。
「凛さん、大変だ。村の北側の森で、子どもたちが迷子になったらしいんだ」
「えっ……誰が?」
「サナとユウ、それに小さいミトも。朝から遊びに行ったきり、帰ってこないんだよ」
凛の胸が強く締め付けられた。
あの天真爛漫な子どもたちの顔が、次々と頭に浮かぶ。
「みんなで探しに行こうって、今、村中で手分けしてるんだ」
リオの声には焦りと不安がにじんでいた。
広場では、長老のカザンが中心となって指示を出している。
「北の森はこの時期、霧が深くて危ない。大人は必ず二人一組で動け。子どもたちの名前を呼びながら、森の奥まで捜索するぞ!」
村の人々はそれぞれ松明やランタンを手に、森へと向かっていく。
マナは凛の肩をそっと抱き、「大丈夫、きっと見つかるわ」と優しく励ました。
だが、凛の心はざわついていた。
この村の子どもたちは、血のつながりがなくても、皆が本当の家族のように思えていた。
もし何かあったら――その思いが、凛を突き動かす。
「私も探しに行きます!」
凛は思わず声を上げた。
「危ないから、無理はしないでね」
マナが心配そうに言うが、凛は頷くと、村人たちの後を追った。
森の中は、昼間でも薄暗く、霧が立ちこめている。
凛は何度も足を滑らせながら、子どもたちの名前を呼び続けた。
「サナ! ユウ! ミト! どこにいるの!?」
やがて、かすかな泣き声が森の奥から聞こえてきた。
凛は枝をかき分け、声のする方へと急ぐ。
倒れた木の根元で、三人の子どもたちが肩を寄せ合って震えていた。
「お姉ちゃん……」
ミトが涙ぐみながら凛に抱きつく。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
凛は三人をしっかりと抱きしめた。
そのとき、森の奥から何かが動く気配がした。
野生動物だろうか――凛は子どもたちを庇うように立ち上がる。
だが、現れたのはカザンとリオだった。
「よくやったな、凛」
カザンが短く声をかける。
「みんな無事か?」
「はい、みんな怪我はありません」
凛は安堵のあまり、涙がこぼれそうになった。
村に戻ると、広場には心配そうに待つ村人たちが集まっていた。
子どもたちが無事に戻ると、皆が歓声を上げ、抱きしめ合った。
「ありがとう、凛さん。あなたがいなければ、どうなっていたか……」
リオが深く頭を下げる。
その夜、村の家々には安堵と感謝の灯りがともった。
凛は自分の心が、村の人々と確かに結びついていることを実感した。
「家族」とは、血のつながりではなく、共に過ごし、助け合い、心を寄せ合うこと――
その意味を、凛はこの危機の中で改めて感じていた。
No14 手を伸ばす決意
夜が更け、村の広場には安堵と静けさが戻っていた。
子どもたちが無事に帰還したことを祝うように、村人たちは小さな焚き火を囲み、温かいスープを分け合っている。
凛は、リオやマナ、カザン、そして救出した子どもたちとともに、焚き火のそばに座っていた。
「本当にありがとう、凛さん」
マナがしみじみと凛の手を握る。
「あなたがいなければ、あの子たちはもっと怖い思いをしたでしょう」
「私……」
凛は、焚き火の炎をじっと見つめた。
胸の奥に、これまで感じたことのない感情が渦巻いている。
「私、あの子たちがいなくなったと聞いたとき、どうしても他人事だと思えなかったんです。怖くて、心配で……。気がついたら、夢中で森に入っていました」
カザンが、ぶっきらぼうに言う。
「それでいい。家族ってのはな、理屈じゃなくて、誰かのために動きたくなるもんだ」
リオが焚き火に薪をくべながら、静かに続けた。
「この村では、誰かが困っていたら、みんなが自分のことのように動く。血のつながりがなくても、心が結びついていれば、それが家族なんだ」
凛は、ふと自分の世界のことを思い出した。
仕事に追われ、家族とすれ違い、誰かのために何かをする余裕もなかった日々。
「私は……ずっと、家族なんていらないと思っていました。けれど、今は違う。誰かのために動くことで、心がつながるんだって、初めて分かった気がします」
その時、広場の隅で小さな声がした。
「お姉ちゃん、ありがとう」
救出したミトが、凛の袖をぎゅっと握る。
「怖かったけど、お姉ちゃんが来てくれて、すごく安心した」
その言葉に、凛の胸が熱くなる。
村人たちは焚き火の周りで、静かに凛を見つめていた。
カザンが短く言う。
「お前はもう、この村の家族の一員だ」
凛は驚きつつも、自然と涙がこぼれた。
「……ありがとう。私、ここでみんなと一緒に生きていきたい。家族として、誰かのためにできることをしたいです」
リオ、マナ、カザン、子どもたち――
皆が凛を温かく迎え入れる。
焚き火の炎が、夜空に高く舞い上がった。
その夜、凛は初めて「ここにいてもいい」と心から思えた。
自分が誰かのために動き、誰かと心を通わせ、家族として生きることを選んだのだ。
村の夜は静かに更けていく。
凛の胸には、かつてないほどの充実感と温もりが広がっていた。
No15 炎の輪に立って
翌朝、村の空気は昨夜の安堵と温もりを残しつつも、どこか引き締まった雰囲気に包まれていた。
森での迷子騒動は、村の人々に「家族」としての結びつきの大切さを改めて思い出させたのだろう。
凛もまた、村の一員としての自覚が芽生え始めていた。
朝食の席で、リオが凛に声をかけた。
「凛さん、今日から村の仕事を一緒にやってみないかい?」
「え……私にもできることがあるんですか?」
「もちろんさ。家族の一員として、みんなで協力して村を支えていくんだ」
マナもにっこりと頷く。
「困ったことがあれば、助け合う。それがこの村の“家族”の形よ」
その言葉に背中を押され、凛は村の人々と共に一日をスタートさせた。
まずは畑仕事。
リオや他の村人たちと一緒に、朝露に濡れた畑で野菜を収穫する。
「ほら、こうやって根元をしっかり持って引くんだ」
リオが手本を見せると、凛も見よう見まねで大根を引き抜く。
土の感触、野菜の香り、みんなで声を掛け合いながら働く時間。
都会での孤独な仕事とはまるで違う、心が通う労働だった。
昼前には、マナや他の女性たちと一緒にパンを焼いた。
「凛さん、こね方が上手になったわね」
「ありがとうございます……」
みんなで生地を分け合い、焼きあがったパンの香りが家々に広がる。
子どもたちが焼きたてのパンを頬張りながら「お姉ちゃん、また一緒に作ろうね!」と無邪気に笑う。
午後には、村の広場で子どもたちの見守りを任された。
カザンがベンチに座りながら、凛に声をかける。
「お前、すっかり村の顔になったな」
「そうでしょうか……?」
「昨日のこともある。みんな、お前を信頼してる。困ったときは遠慮なく頼れ」
カザンの言葉は不器用ながらも温かく、凛の胸にじんわりと染みた。
夕方、村の集会が開かれた。
森の安全対策や、子どもたちの見守り体制をどうするか、皆で意見を出し合う。
凛も思い切って手を挙げた。
「森に入るときは、必ず大人と一緒に行くようにルールを作りませんか?」
「それはいい考えだ!」
「凛さん、ありがとう!」
村人たちが一斉に賛同し、新しいルールがその場で決まった。
夜、リオとマナの家で食卓を囲みながら、凛はしみじみと語った。
「みんなで協力して、誰かのために動く。それが“家族”なんですね」
リオが頷く。
「そうさ。血のつながりじゃなく、心でつながる。それがこの村の家族だ」
凛は、村人たちと共に過ごす日々の中で、確かに自分が「家族の一員」として認められていることを実感していた。
その夜、窓の外には満天の星空が広がっていた。
凛の心にも、静かで確かな光が灯っていた。
No16 ここに生きる
村での新しい一日が始まった。
凛は、昨日までとは違う静かな自信を胸に、リオとマナの家を出た。広場では、子どもたちが凛を見つけて駆け寄ってくる。「お姉ちゃん、おはよう!」という無邪気な声に、凛は自然と笑顔で応えた。
午前中は畑でリオと働き、昼にはマナや他の女性たちと食事を作った。
村人たちと協力し合い、誰かのために自分が役に立てることが、今の凛には何よりの喜びだった。
午後、カザンが凛を呼び止めた。
「ちょっと来い」
カザンは広場の大きな木の下へと凛を連れていく。
その木の幹には、村人たちがそれぞれの“家族”の証として結んだ色とりどりの布が揺れていた。
「お前、この村で何を感じた?」
カザンが静かに問う。
凛は少し考え、ゆっくりと答えた。
「最初は、家族なんてただの同居人だと思っていました。でも、ここでみんなと過ごして、誰かを思い、助け合うことで、心が結びついていくのが家族なんだって……今は思えます」
カザンは満足そうに頷いた。
「それでいい。血がつながっていなくても、心が結びつけば家族だ。お前ももう、立派な“家族”の一員だ」
その時、村の人々が広場に集まり始めた。
リオが大きな声で呼びかける。
「今日は、凛さんを正式に私たちの家族として迎える日だ!」
村人たちは、色とりどりの布を一枚ずつ持ち寄り、凛の手に渡した。
「この布に、あなたの願いを書いて、木に結んでください」
マナが優しく言う。
凛は布に、震える手でこう書いた。
「ここで出会ったみんなと、心を結び続けられますように」
その布を大きな木の枝に結ぶと、村人たちが一斉に拍手した。
「あなたも、私たちの家族だよ」
リオ、マナ、カザン、子どもたち、エルナとトール――
みんなが凛を囲み、温かく抱きしめてくれる。
凛の目から、自然と涙がこぼれた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
凛は、心の奥底から湧き上がる感謝と幸福を噛みしめていた。
その夜、凛は満天の星空を見上げながら、静かに誓った。
「私は、ここで得た“家族”の意味を、絶対に忘れない」
心の中に、確かな絆の灯がともっていた。
No17 結びの木の下で
凛は村の大きな木の下で、しばらく空を見上げていた。
色とりどりの布が風に揺れ、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
昨日、自分の願いを書き込んだ布も、その中にしっかりと結ばれていた。
村人たちは、凛を「家族」として温かく迎え入れてくれた。
リオとマナの家での暮らしにも、すっかり馴染んでいる。
朝は畑仕事を手伝い、昼は子どもたちと遊び、夕方には村の集会や家事を分担する。
誰かの「ありがとう」や「おかえりなさい」という言葉が、凛の心に毎日沁みていった。
ある日、凛はマナと一緒にパンを焼いていた。
「凛さん、もうすっかり村の一員ね」
マナが笑いながら言う。
「そんなことないですよ。まだまだ、みなさんに助けてもらってばかりで……」
「助け合うのが家族でしょう? あなたがいてくれるだけで、私たちも嬉しいの」
マナの言葉に、凛は思わず微笑んだ。
村の子どもたちも、すっかり凛に懐いている。
「お姉ちゃん、明日も遊んでくれる?」
「もちろん。約束だよ」
子どもたちの無邪気な笑顔に、凛は自然と心を開いていく。
夕暮れ時、広場でカザンと肩を並べて座ることも増えた。
「お前、いい顔になったな」
「そうですか?」
「前は、何かに怯えてるような目をしてた。今は、ここに根を下ろした人間の目だ」
カザンはそう言って、空を見上げる。
「居場所があるってのは、幸せなことだ。俺もこの村でそれを知った」
凛は静かに頷いた。
この村で過ごす日々が、自分の心を少しずつ変えていったことを、今ははっきりと感じている。
家族と呼べる人たちがいて、頼られ、必要とされる場所がある。
「ここにいたい」
凛は、心からそう思った。
夜、リオとマナと三人で食卓を囲む。
温かなスープと焼きたてのパン、そして何気ない会話。
「今日も一日、お疲れさま」
「おやすみなさい、凛さん」
「おやすみなさい」
そんな当たり前のやりとりが、どれほど幸せなことか、凛はようやく気づいた。
ベッドに横たわり、窓の外の星空を見上げる。
「私、ここにいてもいいんだ」
そう思えることが、凛にとって何よりの救いだった。
異世界での居場所――
それは、血のつながりではなく、心の結びつきで生まれた「家族」の輪の中にあった。
No18 星が告げる別れ
凛が村の暮らしにすっかり馴染み、「ここにいたい」と心から思えるようになったある晩のことだった。
星が瞬く夜、リオとマナ、そして子どもたちと一緒に食卓を囲み、何気ない会話と笑い声が家の中に満ちていた。
その温かさに包まれながら、ふと凛は、遠い記憶のように自分の家族のことを思い出していた。
食事のあと、マナが食器を片付けていると、凛はそっと庭に出た。
夜風が心地よく、村の広場には静寂が広がっている。
大きな木の下に立ち、凛は自分が結んだ色布にそっと触れた。
そのとき、不思議な感覚が凛を包む。
空気がわずかに震え、木の枝に結ばれた布がひときわ強く揺れた。
まるで、何かが「時」を告げるように。
「……凛さん」
背後からカザンの声がした。
「どうしたんですか?」
「お前、そろそろ“帰る時”が近いかもしれん」
カザンは静かに言った。
「帰る……?」
「この村に迷い込む者は、心の中に何かを抱えている。だが、ここで“家族”の意味を見つけ、自分の居場所を感じたとき――その役目が終わると、元の世界へ戻る兆しが現れるんだ」
凛は驚きと戸惑いで言葉を失う。
「私、まだ……ここにいたいです。みんなと、もっと一緒にいたい」
「気持ちは分かる。だが、お前の家族も、お前の帰りを待っているはずだ」
カザンの目は優しく、どこか寂しげだった。
「この村で得たものを、今度はお前が“元の世界”で生かす番だ」
カザンはそっと凛の肩に手を置いた。
「別れは寂しいが、心の絆は消えない。お前が望めば、いつでもこの村の家族はお前の中にいる」
その言葉に、凛は静かに頷いた。
胸の奥に、確かな温もりと、ほんの少しの切なさが広がる。
夜が更け、家に戻ると、リオとマナが凛を出迎えてくれた。
「どうしたの、凛さん?」
「……もしかしたら、私、そろそろ帰る時が来るのかもしれません」
二人は驚き、そして静かに微笑んだ。
「あなたがここで過ごしてくれたこと、私たちは絶対に忘れないわ」
「いつでも、心でつながっているからね」
リオとマナは、凛をそっと抱きしめた。
その夜、凛は眠れぬまま、星空を見上げていた。
異世界で得た「家族」の温もりを胸に、これから自分がどんな選択をするのか、静かに考えていた。
No19 「さよなら」ではなく
夜明け前の村は、静寂と薄明かりに包まれていた。
凛は眠れぬまま、ベッドの上で天井を見つめていた。
夢のような異世界での日々が、もうすぐ終わるのだという実感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
やがて、窓の外がほのかに白み始める。
凛はそっと身支度を整え、リオとマナの寝室の扉をノックした。
「凛さん……?」
マナが眠そうな目をこすりながら出てくる。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「ううん、大丈夫。……もう、行くの?」
凛は小さく頷いた。
リオも起きてきて、三人で静かに朝食を囲む。
パンと温かいスープ、そしていつものように「いただきます」と手を合わせる。
けれど、今日はどこか特別な、別れの朝だった。
「凛さん、あなたが来てくれて、本当に嬉しかった」
マナが涙ぐみながら言う。
「私も……ここで過ごした日々、絶対に忘れません」
凛は、二人の手をしっかりと握りしめた。
食事を終えると、村の広場に向かった。
すでに村人たちが集まり、凛の門出を見送る準備をしていた。
カザン、エルナとトール、子どもたち――
みんなが色とりどりの布を手に、凛を囲む。
「凛、お前はもう、立派な家族の一員だ」
カザンが短く言う。
「ありがとう……みんな、本当にありがとう」
凛は一人ひとりと抱きしめ合い、別れの言葉を交わした。
子どもたちが泣きながら凛の手を握る。
「お姉ちゃん、また来てくれる?」
「もちろん。心がつながっている限り、いつでも会えるよ」
凛は優しく微笑んだ。
広場の大きな木の下で、凛は自分の願いを書いた布にそっと触れた。
「この村で過ごした時間、絶対に忘れません」
そう心の中で誓う。
その瞬間、木漏れ日の中に柔らかな光が差し込み、凛の体がふわりと宙に浮く感覚に包まれた。
村人たちの「ありがとう」「またね」という声が、遠くで響いている。
――気がつくと、凛は自分のベッドの上にいた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光、見慣れた天井、そして静かな都会の部屋。
すべてが現実に戻った証だった。
けれど、凛の胸の奥には、村で得た温もりと確かな絆が、今も消えずに残っていた。
No20 夢を見た朝に
凛が目を覚ますと、そこは見慣れた西新宿のマンションのベッドの上だった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光、電子時計のデジタルな数字、静まり返った部屋――すべてが現実世界に戻ってきた証拠だった。
だが、凛の心はどこか現実から浮いているような、不思議な違和感に包まれていた。
ゆっくりと起き上がり、キッチンで湯を沸かす。
冷蔵庫の中には、相変わらずコンビニ弁当と、実家から送られてきたままの野菜が残っている。
けれど、村で毎朝パンを焼き、皆で食卓を囲んだ日々が、鮮やかな記憶として胸に蘇る。
「……なんだか、全部が遠い夢みたい」
凛は思わず呟いた。
スマホを手に取ると、母や妹からの未読メッセージがいくつも届いている。
《最近どうしてるの?》《また連絡ちょうだい》《お母さん、ちょっと心配してるよ》
以前なら、これらのメッセージに苛立ちや重さしか感じなかったはずなのに、今はどこか温かさが滲んで見える。
出勤のために駅へ向かう道すがら、凛は周囲の景色をぼんやりと眺めていた。
人々は無表情にスマホを見つめ、すれ違う声もどこか冷たい。
けれど、村の広場で交わした「おはよう」「ありがとう」の声が、凛の耳に鮮明に蘇る。
会社に着くと、同僚の真由が「おはようございます」と声をかけてくる。
「……おはよう」
凛は、以前よりも柔らかい声で返している自分に気づいた。
デスクに座り、パソコンを立ち上げながらも、ふと村の人々の顔や、子どもたちの笑顔が脳裏に浮かぶ。
昼休み、同僚たちが談笑する輪の中に、凛は自然と加わっていた。
「最近、何かいいことあったんですか?」
「……うん、ちょっとね」
自分でも驚くほど、心が軽くなっている。
だが、家族のことを考えると、まだ胸の奥に小さな痛みが残っていた。
「私、あの村で“家族”の意味を知ったはずなのに……」
凛は窓の外に広がる都会の景色を見つめながら、静かに自問した。
夜、帰宅して一人の部屋で過ごす時間。
村の温もりが恋しくて、ふと涙がこぼれそうになる。
けれど、凛はそっとスマホを手に取り、母と妹にメッセージを打ち始めていた。
――現実の世界に戻った凛は、かつての日常に違和感を覚えながらも、村で得た「家族」や「心の結びつき」を思い出し、少しずつ自分の態度や行動を変え始めていた。
No21 届きはじめた言葉
凛が現実世界に戻ってから数日が経った。
以前と同じ家、同じ家族、同じ日常――けれど、凛の心はもうあの頃と同じではなかった。
異世界の村で過ごした日々、血のつながりを超えて「家族」と呼び合った人々との温もりが、静かに胸の奥に残っている。
朝、キッチンに立つと、母がいつものように朝食を作っていた。
「おはよう」
凛は意識して声をかける。
母は一瞬驚いたように振り返り、そして優しく微笑んだ。
「おはよう、凛」
そのやりとりだけで、以前よりも空気が柔らかくなった気がした。
食卓には妹の沙耶もいる。
「……おはよう」
沙耶が小さな声で返す。
凛は「今日は学校?」と自然な調子で尋ねる。
「うん、テストがあるんだ」
「頑張ってね」
「……ありがとう」
ぎこちないながらも、会話が少しずつ増えていく。
休日、リビングで家族がそれぞれ別のことをしているとき、凛は「お茶でも淹れようか?」と声をかけてみた。
母が「じゃあ、私も手伝うわ」と立ち上がり、沙耶もキッチンにやってくる。
三人で湯を沸かし、カップを用意し、テーブルに並べる。
そんな些細な時間が、以前よりもずっと温かく感じられた。
お茶を飲みながら、凛は意識して話題を振る。
「最近、職場でちょっといいことがあってね」
母が「どんなこと?」と興味を持ち、沙耶も「お姉ちゃん、仕事大変そうだったもんね」と話に加わる。
会話が自然と広がっていく。
夕食の席でも、凛は母や沙耶に「今日はどうだった?」と問いかけるようになった。
母は「庭の花が咲き始めたのよ」と嬉しそうに話し、沙耶は「友達とちょっとケンカしちゃって」と打ち明ける。
凛は「そうなんだ。私も昔、友達とケンカしたことあるよ」と自分の経験を話し、二人の話をじっくり聞く。
以前はどこか他人行儀だった食卓が、今は柔らかい笑顔と会話で満ちている。
夜、凛は自室で異世界の村のことを思い出す。
あの村でも、誰かが困っていればみんなが手を差し伸べ、嬉しいことがあれば一緒に喜び合っていた。
本当の家族とは、血のつながりだけでなく、こうして心を寄せ合うことなのだと、凛は改めて実感する。
ある日、母と二人きりで買い物に出かける機会があった。
スーパーの帰り道、母がふと呟く。
「凛、最近変わったね。前よりずっと優しくなった気がする」
「そうかな。……自分でも、少し変わったかも」
「お母さん、嬉しいよ。家族って、やっぱり大事だものね」
「うん。私も、そう思うようになった」
家に帰ると、沙耶が「お姉ちゃん、一緒にテレビ見ようよ」と声をかけてくる。
「いいよ。何見る?」
「ドラマの続き!」
三人でソファに並び、何気ない会話をしながらテレビを見る。
そんな時間が、かけがえのないものだと、凛はしみじみ感じていた。
家族の時間は、劇的に変わったわけではない。
だが、凛の態度が少しずつ変わることで、母や沙耶も自然と心を開き始めている。
以前は遠慮や気まずさがあった家族の空気が、今は少しずつ柔らかく、温かいものへと変わっていく。
夜、凛はベッドに横たわりながら、村での出来事を思い返す。
あの村で学んだ「心の結びつき」は、現実の家族にも確かに広がり始めている――
そんな実感が、凛の胸に静かに灯っていた。
これからも、家族との時間を大切にしていこう。
凛は静かにそう決意し、眠りについた。
No22 静かな夜の声
夜の帳が下り、家の中が静かになったころ、凛はリビングのソファでぼんやりと過ごしていた。
母はキッチンで片付けを終え、湯気の立つお茶を二つ用意して凛の隣に腰かける。
「少し、話さない?」
母の声は、どこかためらいと優しさが混じっていた。
凛はゆっくりと頷き、二人は湯のみを手に取る。
しばらく沈黙が流れるが、凛は意を決して口を開いた。
「お母さん、私……ずっと家族のことがよく分からなかった。お父さんがいなくなってから、みんなバラバラになった気がしてた」
母は驚いたように凛の顔を見つめ、そして静かに頷いた。
「私も、どうしていいか分からなかったのよ」
母は少し遠い目をして語り始める。
「お父さんがいなくなって、毎日がただ過ぎていくだけで、あなたや沙耶にどう接したらいいのか……。強くいなきゃ、って思ってたけど、本当はすごく寂しかった」
凛は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「私も、お母さんのこと、分かってなかった。自分だけが辛いと思って、勝手に壁を作ってた」
「凛……」
母はそっと凛の手を握る。
その手は、少し小さくなった気がしたが、昔と同じように温かかった。
「村でね、いろんな人と家族について話したの。血がつながってなくても、心が通じ合えば家族になれるって。最初は信じられなかったけど、今は少し分かる気がする」
凛は、異世界での経験を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
母は静かに微笑み、凛の話をじっと聞いていた。
「家族って、完璧じゃなくていいのよ。すれ違ったり、ぶつかったりしても、またこうして話せれば、それでいいの」
「うん……私も、そう思う」
凛は涙がこぼれそうになるのをこらえながら、母の手を強く握り返した。
二人は、父の思い出や幼い頃の家族の話を、久しぶりにゆっくりと語り合った。
母は、凛が小さかった頃の失敗談や、家族で出かけた日のことを懐かしそうに話す。
凛も、妹と喧嘩した日のことや、母に甘えたかった日のことを素直に打ち明ける。
会話の中で、これまでの誤解やすれ違いが、少しずつほどけていくのを感じた。
「お母さん、ありがとう。ちゃんと話せてよかった」
「こちらこそ、凛。これからは、もっと頼っていいのよ」
母は優しく凛の肩を抱き寄せる。
その夜、凛は母の温もりを感じながら、心の奥にあった孤独や苛立ちが静かに溶けていくのを感じていた。
家族はやり直せる。心を開けば、また絆を結び直せる。
凛は、母との対話を通して、家族の本当の意味を改めて知ることができたのだった。
夜が更けても、二人の間には穏やかな時間が流れていた。
凛は、母とともに歩むこれからの日々に、静かな希望を抱いていた。
No23 笑い声の温度
母との対話を経て、凛の心には穏やかな変化が生まれていた。
翌朝、キッチンで朝食の準備をしていると、妹の沙耶が眠そうな顔でやってきた。
「おはよう」
凛は自然に声をかける。
沙耶は少し驚いたように目を見開き、そして小さく「おはよう」と返した。
朝食の席には、以前よりも柔らかい空気が流れていた。
母が「今日は学校、何時から?」と沙耶に尋ねると、沙耶は「一限目からだよ」と素っ気なく答える。
だが、そのやりとりを聞きながら、凛はふと思い立ち、沙耶に話しかけた。
「沙耶、今度の週末、どこか一緒に出かけない?」
沙耶は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、「……いいよ」と小さく頷いた。
週末、二人は近所のカフェで待ち合わせた。
沙耶は少し緊張した様子で、凛もどこかぎこちない。
けれど、コーヒーを飲みながら、少しずつ会話が生まれていく。
「最近、学校どう?」
「まあまあかな。友達とちょっとケンカしたけど、もう大丈夫」
「そうなんだ。私も昔、友達とケンカして泣いたことあったよ」
沙耶は意外そうに凛を見つめ、「お姉ちゃんでも、そんなことあるんだ」と笑った。
二人で街を歩きながら、幼いころの思い出話に花が咲く。
「覚えてる? 昔、二人でこっそり夜更かしして、母さんに怒られたこと」
「うん、あの時は本当に怖かったよね」
二人は顔を見合わせて笑った。
凛は、沙耶が自分に心を開き始めているのを感じた。
以前は遠慮や反発ばかりだった妹との関係が、少しずつ柔らかく、温かいものへと変わっていく。
カフェを出て、帰り道。
沙耶がふと立ち止まり、凛の袖をそっと引いた。
「お姉ちゃん、最近ちょっと変わったよね」
「そうかな?」
「うん。前より、優しくなった気がする」
凛は照れくさそうに笑った。
「沙耶も、前より素直になったかも」
家に帰ると、母が「二人とも楽しそうだったわね」と微笑む。
凛は「うん、久しぶりにたくさん話せたよ」と素直に答えた。
その夜、沙耶が凛の部屋のドアをノックした。
「お姉ちゃん、また今度、一緒に出かけようね」
「うん、約束だよ」
凛は、妹と少しずつ「家族」としての距離を取り戻していく自分を実感していた。
異世界で学んだ「心の結びつき」が、現実の妹との関係にも静かに広がっていく。
家族の一員として、沙耶との絆もまた、確かに育ち始めていた。
No24 同じ皿を囲む
春の陽射しが差し込むリビングで、凛は母と沙耶と三人でテーブルを囲んでいた。
朝食のパンの香り、湯気の立つスープ、そして三人の笑い声が、家の中に穏やかに広がっている。
かつては会話も少なく、どこかぎこちなさが漂っていたこの家に、今では自然な温もりが戻りつつあった。
凛は、異世界の村で学んだ「家族の形」を思い出しながら、意識して家族と過ごす時間を増やしていた。
休日には母と一緒に買い物に出かけたり、沙耶とカフェでおしゃべりをしたり、夕食後には三人でテレビを見ながら他愛もない話をする。
「お姉ちゃん、今度一緒に映画行こうよ」
「いいね。お母さんも一緒にどう?」
「私も行きたいわ」
そんなやりとりが、以前よりずっと自然に交わされるようになった。
ある日、母がふと凛に言った。
「あなたが家にいると、なんだか家族がまた一つになった気がするわ」
「私も、そう思う。みんなでいると、安心する」
沙耶も小さく頷き、「前より家に帰るのが楽しみになった」と照れくさそうに言った。
凛は、家族の時間を大切にすることの意味を改めて噛みしめていた。
異世界の村で過ごした日々――血のつながりを超えて心で結ばれた人々との絆――その温もりが、現実の家族にも静かに伝わっていくのを感じていた。
夕食の準備をしているとき、母が「今日は何か手伝おうか?」と声をかけてくれる。
沙耶はサラダを作りながら「お姉ちゃん、ドレッシングどうする?」と尋ねる。
キッチンに三人の笑い声が響き、どこか懐かしい、けれど新しい家族の風景がそこにあった。
食卓を囲みながら、凛はふと思い切って言った。
「これからも、みんなでたくさん思い出を作ろうね」
母と沙耶は顔を見合わせ、優しく頷いた。
「そうね」「うん、絶対に」
夜、凛は自室で静かに村のことを思い出していた。
あの村で感じた「家族の温もり」や「心の結びつき」が、今の自分たちの家族にも根付き始めている。
血のつながりだけではなく、心で支え合い、思いやることで家族はもう一度築き直せる――
凛はそのことを、身をもって実感していた。
窓の外には、春の星空が広がっている。
凛はそっとつぶやく。
「私はもう、一人じゃない。ここが、私の帰るべき場所なんだ」
家族をもう一度築く――
それは、過去を乗り越え、今と未来を大切に生きること。
凛は、これからも家族と共に歩んでいくことを、静かに心に誓った。
No25 心の家を築く
春の陽射しがやわらかく差し込む朝、凛はゆっくりと目を覚ました。
窓の外には、青空と新芽が芽吹く庭。
かつては一人きりで目覚めることが当たり前だったこの家も、今では家族の気配が心地よく感じられる。
キッチンに行くと、母が朝食の準備をしていた。
「おはよう、凛」
「おはよう、お母さん」
自然に交わす挨拶。
沙耶も眠そうな顔でやってきて、「おはよう」と小さくつぶやく。
三人で食卓を囲み、パンとサラダ、スープを分け合う。
「今日、学校で発表があるんだ」
沙耶がぽつりと話すと、母が「緊張する?」と優しく尋ねる。
「うん。でも、頑張る」
凛は「きっと大丈夫だよ」と微笑み、沙耶の背中をそっと押した。
朝食後、母と一緒に洗い物をしながら、凛はふと「今日は何か手伝えることある?」と声をかける。
母は驚いたように笑い、「じゃあ、買い物をお願いしようか」と頼んでくれる。
二人でスーパーへ向かい、献立を相談しながら食材を選ぶ――そんな時間も、今ではかけがえのないものになっていた。
休日には、家族三人で近くの公園へ出かけることも増えた。
お弁当を持って芝生に座り、のんびりと話をしたり、時にはバドミントンで汗を流したり。
沙耶が「お姉ちゃん、前よりずっと明るくなったね」と笑い、母が「家族ってやっぱりいいものね」としみじみ呟く。
凛は、そんな二人の言葉に胸が温かくなるのを感じていた。
夕食の時間には、それぞれの一日を報告し合うのが習慣になった。
「今日は会社で新しいプロジェクトが始まったんだ」
「学校で友達と映画の話をしたよ」
「庭の花がもうすぐ咲きそうよ」
何気ない会話が、家族の絆を少しずつ深めていく。
夜、凛は母と沙耶と並んでテレビを見たり、時には一緒にケーキを焼いたりもした。
笑い声が絶えないリビング。
ふとした瞬間、凛はあの異世界の村で過ごした日々を思い出す。
血のつながりを超えて心で結ばれた家族――
その温もりが、今の自分の家族にも静かに伝わっている。
ある晩、沙耶が凛の部屋をノックした。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「今度、友達のことで相談したいことがあるんだ」
凛は「もちろん、何でも聞くよ」と優しく微笑む。
沙耶は安心したように頷き、ベッドに腰かけて話し始める。
「お姉ちゃん、前よりずっと頼りになる気がする」
「私も、沙耶がいてくれて嬉しいよ」
母もまた、凛にそっと声をかける。
「あなたが変わってくれて、お母さんも嬉しい。家族って、こうやって少しずつ作り直せるものなのね」
「うん、私もそう思う」
凛は、母の手を握り返した。
こうして、凛は家族と過ごす日々の中で、以前とは違う温もりや絆を感じていた。
異世界で学んだ「家族の形」が、現実の世界でも確かに根付き始めている。
もう一度築き直した家族――その時間は、何よりも大切な宝物になっていた。
夜、ベッドに横たわりながら、凛は静かに思う。
「私はもう、一人じゃない。ここが、私の帰るべき場所なんだ」
そう実感しながら、凛は穏やかな眠りについた。
No26 穏やかな日々に咲くもの
春の風がやわらかく吹き抜ける午後、凛はリビングの窓を開けて、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
家の中には、母と沙耶の笑い声が響いている。
ふと、凛は異世界の村で過ごした日々を思い出した。
あの村で学んだ「家族の形」――血のつながりだけではなく、心で結ばれた温もり。
それを、今の自分の家族にも根付かせたいと、凛は強く思っていた。
凛は、日々の小さな行動に村での学びを活かし始めていた。
例えば、母が疲れている日は「今日は私が夕食を作るね」と声をかける。
沙耶が落ち込んでいるときは、そっと隣に座り、無理に理由を聞かずにただ寄り添う。
「大丈夫だよ、沙耶。何かあったら、いつでも話してね」
その言葉が、妹の心を少しずつ開いていくのを感じる。
母もまた、凛の変化に気づいていた。
「あなたが家にいると、家の中が明るくなるわ」
「私も、みんなといると安心する」
そんな会話が、自然に交わされるようになった。
凛は、家族だけでなく、職場や友人との関係にも村での経験を活かしていた。
会社では、同僚が困っているときにさりげなく声をかけたり、後輩の話をじっくり聞いたりする。
「凛さんって、前より話しやすくなったよね」
「そうかな? ありがとう」
自分でも、以前より人に心を開けるようになったと実感する。
休日には、友人との集まりにも積極的に参加するようになった。
「最近、何かあった?」と聞かれれば、「家族と過ごすのが楽しいんだ」と素直に話せる。
友人たちも「それ、いいね」と微笑む。
ある日、凛は母と沙耶に提案した。
「今度の週末、みんなでピクニックに行かない?」
母も沙耶も嬉しそうに頷き、当日は手作りのお弁当を持って公園へ向かった。
芝生にシートを広げ、三人でお弁当を食べながら、他愛もない話に花が咲く。
「こういう時間、久しぶりだね」
「うん、またみんなで来ようね」
凛は、家族の笑顔を見て、心から幸せを感じていた。
夜、凛はベッドに横たわりながら、静かに村のことを思い出す。
あの村で出会った人々、温かな食卓、困ったときに自然と助け合う心――
そのすべてが、今の自分の行動や考え方の根っこになっている。
「家族は、血のつながりだけじゃなくて、心でつながるもの」
凛は、異世界で学んだことを胸に、これからも家族や周囲の人たちと温かな絆を築いていこうと誓う。
窓の外には、春の星空が広がっていた。
凛はそっと目を閉じ、心の中で村の家族たちに感謝の言葉を送った。
「ありがとう。あなたたちのおかげで、私はここでもう一度家族を大切にできる」
――異世界で学んだことは、凛の日常に確かに息づいていた。
No27 春風とともに
春の夕暮れ、凛は庭先に出て、咲き始めた花々を眺めていた。
穏やかな風が頬を撫で、どこか懐かしい香りが漂う。
ふと、幼いころの記憶が胸によみがえった。
家族四人で過ごした日々――父が生きていたころの、あたたかくて賑やかな食卓。
母の笑顔、妹の無邪気な声、そして自分もまた、家族の一員としてそこにいた。
しかし、父の突然の死をきっかけに、家族は少しずつすれ違い、心の距離が生まれていった。
母は仕事と家事に追われ、沙耶は幼いながらも寂しさを抱え、凛自身も「家族なんて意味がない」と心を閉ざしていった。
あの頃の自分は、誰にも頼らず、一人で生きていくしかないと思い込んでいた。
けれど、異世界の村で過ごした日々が、凛の心を大きく変えた。
血のつながりを超えて、誰かと心を通わせ、助け合い、支え合うことの大切さを知った。
村の人々は、凛を「家族」として受け入れ、温かな絆を育んでくれた。
その経験が、現実の家族との関係をもう一度見つめ直すきっかけになったのだ。
ある晩、凛は母と沙耶と三人で食卓を囲みながら、意を決して口を開いた。
「私、昔は家族のことを避けてた。お父さんがいなくなってから、みんなと話すのが怖かった。
でも、今は違う。家族って、完璧じゃなくていい。すれ違ったり、ぶつかったりしても、またやり直せるんだって思えるようになったの」
母は静かに頷き、沙耶もじっと凛を見つめていた。
「お姉ちゃん、前よりずっと優しくなったよ」
「ありがとう、沙耶」
母もまた、「あなたがそう言ってくれて嬉しい」と涙ぐんでいた。
凛は、過去の自分を責めることをやめた。
あのときの孤独や苛立ちも、今の自分をつくる大切な一部だったのだと、ようやく受け入れられるようになった。
そして、これからは家族と一緒に、温かな時間を積み重ねていきたいと心から思った。
夜、凛は自室で静かに村のことを思い出す。
あの村で過ごした日々が、今の自分を支えてくれている。
「ありがとう、みんな」
心の中で村の家族たちに感謝を伝え、凛はそっと目を閉じた。
――過去を乗り越えた先に、今の家族と新しい絆が生まれている。
凛はもう、一人ではなかった。
No28 つなぐ手、つながる心
春のある日曜日。
凛は母と沙耶と一緒に、リビングでアルバムを広げていた。
古い写真には、まだ幼かった自分と妹、そして笑顔の父と母が映っている。
「この写真、懐かしいね」
沙耶が指をさす。
「お父さん、変な顔してる」
三人で顔を見合わせて笑い合う。
かつては避けていた家族の思い出も、今では素直に懐かしむことができるようになっていた。
ふと、母が引き出しから小さな箱を取り出した。
中には、家族四人で作った手作りのキーホルダーや、幼いころの手紙、父が残したメモが入っている。
「これ、お父さんが家族みんなに書いてくれたメッセージよ」
母が一枚の紙をそっと差し出す。
「家族は、どんなときも支え合って生きていくもの。みんなが笑っていられるように、力を合わせよう」
父の文字は、少し不器用だけれど、温かさがにじんでいた。
凛は、手のひらにそのメモを乗せてじっと見つめる。
「家族って、やっぱりいいものだね」
沙耶がぽつりと呟く。
「うん……私も、そう思う」
母も優しく頷いた。
その日の午後、凛は母と沙耶に提案した。
「みんなで、また“家族の証”を作らない?」
「証?」
「うん。何か、家族みんなで一緒に作れるもの。例えば、ブレスレットとか、キーホルダーとか」
沙耶が「やりたい!」と目を輝かせ、母も「いいわね」と微笑む。
三人で手芸屋に出かけ、好きな色のビーズや紐を選ぶ。
家に帰ると、リビングのテーブルに材料を広げて、夢中になって作業を始めた。
「お姉ちゃん、不器用だね」
「沙耶こそ、細かい作業得意じゃん」
母が「二人とも、ケンカしないの」と笑う。
賑やかな時間が流れていく。
完成したのは、三人お揃いのブレスレット。
それぞれの名前の頭文字が小さなチャームになっている。
「これ、絶対なくさないようにしようね」
沙耶が手首につけて見せる。
「うん、家族の証だから」
母も凛も、同じようにブレスレットをつけて微笑み合った。
夜、凛はベッドの中でブレスレットをそっと撫でた。
異世界の村で、みんなで願いを書いた色布を木に結びつけた日のことを思い出す。
「心の結びつき」は、形を変えて今も自分の中に生きている。
母や妹も、きっと同じ気持ちでいるのだろう。
家族としての証――
それは、血のつながりだけではなく、心でつながる絆の象徴。
凛は、これからもこの証を大切にしていこうと、静かに誓った。
No29 あの朝の香り
春も深まり、街路樹の緑が鮮やかさを増す頃。
凛は仕事帰り、ふと立ち寄った公園のベンチに腰掛けて、夕暮れの空を眺めていた。
家族との日々は穏やかに流れ、母や沙耶との関係もすっかり温かいものへと変わっていた。
けれど、ふとした瞬間――たとえば、家族で食卓を囲んでいるときや、誰かの「おかえり」という声を聞いたとき――
凛の胸には、あの異世界の村で過ごした日々の記憶が、鮮やかに蘇るのだった。
あの村の朝の光、パンの焼ける香り、子どもたちの笑い声。
リオやマナ、カザン、そして村の人々と囲んだ焚き火のぬくもり。
困ったときに自然と手を差し伸べ合い、誰かのために動くことが当たり前だった、あの優しい世界。
凛は、そこで初めて「家族」というものの本当の意味を知った。
現実の家族と過ごす日々の中で、凛はその記憶を「夢だったのかもしれない」と思うこともあった。
けれど、心の奥底に残る温もりや、村で学んだ「心の結びつき」は、確かに今の自分を支えている。
母や沙耶と笑い合い、時にはすれ違いながらも、また歩み寄ることができるのは、あの村での経験があったからだと、凛は静かに実感していた。
ある晩、家族で食卓を囲んでいるとき、沙耶がふと「お姉ちゃん、最近すごく優しくなったよね」と言った。
「そう?」
「うん。なんか、前より頼りがいがあるっていうか……」
母も「私もそう感じてるわ」と微笑む。
凛は少し照れくさくなりながらも、「ありがとう」と素直に返した。
夜、凛は自室でブレスレットをそっと撫でながら、村の大きな木の下で願いを書いた色布を結んだ日のことを思い出す。
「ここで出会ったみんなと、心を結び続けられますように」
あのときの願いは、今も自分の中で生きている。
異世界の村で得たものは、現実の家族との絆を深める力となった。
そして、これからもその記憶は、凛の心の支えであり続けるだろう。
「私はもう、一人じゃない」
そう静かに呟きながら、凛は窓の外の星空を見上げた。
――異世界の記憶は、温かな光となって、今の凛を優しく包み込んでいた。
No30 静かな朝に
朝の光がカーテン越しに差し込む。
凛はゆっくりと目を覚まし、深呼吸をした。
以前なら、目覚めた瞬間から孤独や不安が胸を占めていた。
けれど今は、心の奥に静かな温もりが広がっている。
キッチンに立つと、母が朝食の準備をしていた。
「おはよう」
凛は自然に声をかける。
母も「おはよう」と笑顔で返してくれる。
沙耶も眠そうな顔でやってきて、三人で食卓を囲む。
パンの香り、湯気の立つスープ、そして何気ない会話――
そのすべてが、今の凛にとってかけがえのない宝物だ。
食事を終え、母と沙耶を見送りながら、凛はふと自分の手首に視線を落とす。
家族三人で作ったブレスレットが、やさしく光っている。
「家族って、こうやって少しずつ作っていくものなんだな」
凛は静かにそう思う。
休日には、家族と一緒に買い物や散歩に出かけることが増えた。
時には公園でお弁当を広げ、青空の下で笑い合う。
母や沙耶と過ごす時間が、日常の中にしっかりと根付き始めていた。
仕事でも、凛は以前より周囲に心を開き、同僚や後輩と積極的にコミュニケーションを取るようになった。
「最近、凛さん明るくなったね」と言われるたび、心の中で異世界の村の人々の顔が浮かぶ。
リオやマナ、カザン、村の子どもたち――
彼らと過ごした日々が、今の自分を支えているのだと実感する。
夜、凛は窓辺に座り、静かに星空を見上げる。
村の大きな木の下で願いを書いた色布、みんなで囲んだ焚き火、温かな食卓。
あの異世界で学んだ「心の結びつき」は、現実の世界でも確かに生きている。
「私はもう、一人じゃない。ここが、私の帰る場所」
凛は心の中でそう呟き、そっと目を閉じた。
明日もまた、新しい一日が始まる。
家族とともに、温かな絆を育みながら――
凛は、異世界で得た宝物を胸に、これからも歩み続けていく。
(了)
もう一度、家族になる日 @pappajime
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