エピローグ
【22】2027年11月22日(了)
アスファルトに散った落ち葉を踏みしめるたび、乾いた音が靴底から広がった。
十一月の仙台は、冬に向かう支度を始めたばかりで、街全体がどこかぎこちない。人の流れも、風の冷たさも、心に触れるものはみな、過ぎ去った季節の余熱を冷ましているように無機質に感じられた。
夕暮れが近づくと、街全体が灰色に沈み込む。陽が落ちるのが日に日に早くなり、駅前に灯る照明がやけに心細く見える。行き交う人々は皆、うつむきがちに歩いていて、吐き出された白い息だけが、ほんの一瞬だけ宙に浮かんでは、儚く消えていった。
夜の気配を帯びはじめた街の中を、小島灯里は一人きりで歩いていた。
人々にとっては帰宅の足が速まる時間帯。仕事や授業を終え、家路につくために街の闇へと紛れていく。けれど灯里にとっては、ここからがようやく一日の始まりだ。
この街に来てもう半年以上が過ぎたというのに、いまだに肌に馴染む感覚は薄かった。
故郷からそう遠いわけでもなく、暮らしやすさも格段に上がっているはずなのに、胸の奥にいつもわずかな違和感が残る。舗装された道や高く積み上げられた建物、慣れない人の流れ――それらが目に映るたび、知らない誰かの生活のなかに無理やり入り込んでしまったような、妙な落ち着かなさに襲われた。
住む場所を変えるとは、きっとこういうことなのだろう。目に映る景色がいくら整っていても、心だけはどこか置いてきぼりのままだった。でもそれはたぶん、別の理由もあるのだと思う。
今から一年前のこと。目が覚めた時、灯里は知らない間に十九歳になっていた。最後に覚えているのは、高校三年の夏。あの悪夢のような、七月三十一日。その時の自分と今の自分をつなぐ糸がぷつりと切れ、あいだの記憶はすっぽり抜け落ちていた。
眠っている間は、ずっと頭の奥で何かが蠢き続けていた。体は自分のものではなく、思考は断片となって浮かんでは砕け、消えていく。幼い日の記憶と、あの悪夢のような出来事が同じ景色に溶け込んで、心が何度も壊れては、歪んだかたちで組み立てられ、壊れ、また砕ける。そんな感覚だった。
それでも、目が覚めた時に隣で母が泣きじゃくりながら頬を撫で、父は肩を震わせて嗚咽を漏らしているのを見て、何も分からずとも涙がこぼれ落ちた。
もちろん、それですべてが終わったわけではない。ふとした瞬間に、あの時の光景が鮮烈に蘇る。強引に押し付けられた感触や、冷たい床の匂い、男たちの笑い声。頭の奥でそれが再生されると、体は勝手に強張り、喉が塞がれたように息が吸えなくなる。突然暴れることもあれば、過呼吸で酸素マスクを装着されたこともあった。
それに――どれだけ時間が経っても、体の奥底に刻まれた感覚は消えなかった。何度も何度も洗っても、皮膚の下にこびりついた「汚された」という意識は拭えない。鏡を覗けば、映る自分が別人のように思え、目を逸らすしかなかった。
それでも、日々の中で少しずつ気づいていった。自分の中に残るのは傷であって、穢れではないのだと。奪われたものは確かにあったけれど、それでも呼吸は続いていて、歩き出す足はまだ自分のものだった。
地獄のような日々だったが、時間と共に少しずつ発作は和らいで、目覚めてから半年を経て、ようやく退院することが許された。
――そして今、灯里は家族とともに故郷を離れ、この町で新しい生活を始めている。
通っているのは定時制の高校だ。同年代はすでに社会に出ているか、大学に進んでいる。二十歳になっても「高校生」であることは、どこか嫌だったけれど、将来のことを考えるなら、この道しかなかった。
「小島さん、おはよ」
顔を上げると、背の低い眼鏡の少女が柔らかく笑みを浮かべていた。同級生の由夏だ。彼女は二歳年下だが、年齢差を気にせずに対等に接してくれる数少ない友人だった。
どうして由夏が定時制に通っているのかは知らない。けれど、それでよかった。互いの事情を深く探らないのが、この場所の暗黙の約束だった。灯里も、自分の過去を語らずに済むことに安堵していた。
「もうすっかり寒いね〜」
白いスニーカーでずんずん進む由夏に、灯里は遅れまいと隣に並ぶ。吐く息が白く溶けて、繁華街のビルの谷間に散っていく。
ふと視線を上げると、巨大なスクリーンが夕方のニュースを映し出していた。ぼんやりと眺めていたその目に、不意に映り込んだ文字が突き刺さる。瞳が見開かれ、歩みがわずかに止まった。
『あの惨劇から二年――虐殺事件の起きた燈川高校は今』
テロップと共に、見覚えのある校舎や教室の映像が次々に流れる。
「あの事件、もうそんなに経つんだね〜」
隣で由夏が、何でもないような調子で呟いた。灯里は、喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じ、視線をそらす。スクリーンに映るその景色を直視することが、どうしてもできなかった。
あの事件のことを知ったのは、退院して自宅に戻り、ようやく日常らしい生活を取り戻そうとした頃だった。最初は言葉を失った。三年B組の全員がもうこの世にはいないということ、そして、その惨劇を引き起こしたのが、かつて親しくしていたあの二人だったということが、にわかには信じがたく、頭の中で何度繰り返しても現実味を帯びなかった。
どうして、あの二人がそんなことをしたのか。その答えは結局どこにも見つからなかった。警察の調査でも明確な動機は明らかにされず、学校も「心当たりはない」と繰り返すばかりだった。家庭環境についても報道は淡々としていて、一人は確かに貧しい母子家庭だったが、それを直接の理由とするには無理があるという論調だった。
放課後の廃工場で過ごした時間を、灯里は胸の奥から掘り起こしてみる。意味のない話で笑い転げたり、クラスの番長にいじめられたことを三人で憤ったりした日々。やがて、自ら命を絶ったクラスメイトの死の真相を探ろうと、必死になって街中を駆け回った。懐かしいのに、どこか遠い夢を見ているような、不思議な気分になる。
きっと、一番わかりやすい犯行動機は、いじめられてきたことへの報復だろう。けれど、それだけではない気がした。この世界で、今は灯里の胸の中にしかない事実――男たちに無理やり乱暴された、あの日の出来事。それがあったら、二人はきっと憎しみに駆り立てられ、あんな事件を起こしたのではないか。そんな考えが、頭の中をぐるぐる回る。
「小島さん、おはよう」
気がつけば学校に着いていて、クラスメイトに声をかけられてようやく現実に引き戻された。頭の中でどれだけ考えたところで、あの出来事の真相なんて結局誰にもわからない。第一、灯里自身はいじめられたことがない。だからあの二人の気持ちを完全に理解するなんて、はじめからできるはずがなかった。
いや、違う。そう思い直して、自分の席に腰を下ろす。いじめるとか、いじめられるとか、そんな立場に線引きをしている時点で、もう目を逸らしているのだ。みんな同じ人間で、誰もがいつだって無自覚に加害者にも被害者にもなり得てしまう。自分だって、気づかぬうちに誰かを踏みにじってしまうこともあるのだ。人間とは元来そういうものなのかもしれない。――でも、そのことを忘れずにいることこそが、大事なのだと思った。
もうすぐ授業が始まるので、バッグから教科書を取り出してノートを机に並べる。ペットボトルのお茶に口をつけかけた瞬間、背後からざわついた声が耳に届いた。
「おい、ちょっと貸せよ、それ」
「なに隠してんだよ、見せろって」
「や、やめてよ……」
振り返ると、数人の男子がひとりを取り囲んでいた。中央にいる少年は困惑した顔で椅子に座り、机の上に置いていた一眼レフカメラを取り上げられている。奪った男子が無神経にシャッターを切るたび、周囲は面白がって笑い声をあげた。
眼鏡をかけたその少年は、うつむきながらカメラを追う視線を離せずにいる。白い頬が強張り、唇は小さく震えていた。まったく似ていないのに、その姿がなぜか、遠い日の友人と重なって見えた。カメラが好きで、夢中でファインダーを覗き込んでいた、あの親友の姿と。
「これ、俺にくれよ。カメラ興味あったんだよな」
「だ、だめだよ……それ、お父さんに借りてるだけだから……」
「いいじゃん、なくしたことにしろよ」
周囲がまた下品に笑い声をあげる。狭い空間に、乾いた嘲笑が響く。中心に押し込められた少年は、肩をすくめ、小さく縮こまるばかりだった。
その光景に、灯里の足が勝手に動いた。椅子を押しのけ、話したこともないその集団へと一歩ずつ近づいていく。
「やめなよ」
灯里の声に、集まっていた連中が一斉に振り返った。視線が頭のてっぺんから足元までじろじろと這い回り、背筋に冷たい汗が滲む。声の大きな男子が露骨に眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「は? なんだよ、お前」
男子生徒の太い腕が目に映った瞬間、頭の奥底であの悪夢の残像がうずいた。冷たい感触がよみがえるのを、震える指を必死に握りしめ、なんとか振り払う。
――悲劇が起こる前に、誰かが声を上げなければならない。誰かが立ち止まって手を伸ばさなければならない。悲劇は、いつだって誰も声を上げなかった場所で生まれる。恐れに沈黙してはいけない。沈黙は加担と同じだ。その沈黙が、次の犠牲を生む。
だからこそ、一人ひとりの行動が必要だ。そうすることでしか、この残酷な世界は、変えられないのだから。
「そういうの、やめなよ」
灯里はもう一度、はっきりとした声で言った。
(オストラシズムの教室 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます