【20】2025年11月22日⑤

 ぎい、と重たい音を立てて扉が開いた瞬間、湿った空気がじわりと流れ込み、鼻腔をかすかな臭気がかすめた。悠は男子トイレの中に足を踏み入れると、壁に手を伸ばし、スイッチを押す。


 パチリ――硬い音と同時に蛍光灯が鈍く点滅し、しばらく痙攣するように明滅を繰り返した。やがて光が定まり、白々しいほどの光が床から天井までを照らし出す。汚れがこびりついた床を歩くと、靴底がぺたりと湿気を含んだ音を立てた。


 二階の階段脇にある男子トイレ。ここはまだ、足を踏み入れていなかった場所だった。煙がもうじわじわと天井から降りてきて、白く濁った空気が視界を曇らせる。


 小便器が並んだ無機質な空間を抜け、ひとつひとつ個室の扉に視線を移す。一つ目、二つ目、三つ目――いずれも扉が半端に開いている。けれど、一番奥の扉だけが、異様なほどきっちりと閉じられていた。


 口元が、勝手に歪む。なんて浅はかなんだ。自分から逃げ場を塞ぎ、閉じ込められにいくなんて。救いのない愚かさじゃないか。


 悠は錆びの浮いたバケツを手に取ると、蛇口に押し当てて水を溜めた。流れ出る水は一見きれいだが、鼻先にかすかに鉄臭さが残る。重さに腕を少し震わせながら持ち上げ、一番奥の扉の前に立った。息をひとつ整えると、そのまま天井との隙間へと勢いよく水を放り込む。


「うわっ……!」


 突然頭上から浴びせられた水に、思わず弾け出た声。続いて、慌てて口を押さえる気配が狭い空間から響いた。


 その反応に、もう笑いをこらえることなんてできなかった。喉の奥から込み上げる低い声が、勝手にあふれ出していく。ようやく星野に、ずっと積み重ねてきた仕返しを叩きつけることができたのだ。


「星野、出てこい。そこにいるのはわかってる。出てこないなら、このまま頭から蜂の巣にしてやる」


 声は冷たく響き、薄暗いトイレの壁に反射して重たく沈んだ。悠は散弾銃の銃口を少し上げ、一歩後ろへと下がる。静寂の中で、扉の向こうに潜む気配を待つ。


 だが、返事も物音もない。苛立ちが募り、靴底でドアを荒々しく蹴りつけた。金属が軋む音とともに、短い悲鳴が漏れる。


「……ひっ」


 押し殺した声のあと、ゆっくりと、恐る恐る扉が開きはじめた。軋みを上げながら広がる隙間の向こうに、じっと目を凝らす。


 しかし、星野の姿を目にした瞬間、悠は目を丸くした。星野は、床に額を押しつけていた。汚れた便器の脇で正座し、擦り切れるほど深く頭を下げている。いつも威圧的に周囲を見下ろしていた男の面影はどこにもない。そこにあるのは、必死に命乞いをするかのような、哀れでみすぼらしい姿だけだった。


 呆然とした。思わず息が止まる。あまりにも拍子抜けで、言葉が出なかった。あの尊大で、灯里の尊厳を踏みにじった星野が、自分の前で膝を折り、額を床に擦りつけている。望んでいたはずの場面なのに、胸の内に湧いたのは怒りでも快感でもなく、ただ深い失望だった。興醒め、なんてものではなかった。


「な……なんなんだよ……」


 声を絞り出すと、星野は堰を切ったように言葉を吐き散らした。


「悪かった! 本当に悪かった! もう二度としない! 殴ったり蹴ったりしたのは全部悪かった! 小島のことだって、本当はあんなつもりじゃなかったんだ! 俺だって、ただ流されてただけなんだよ! そんなつもりじゃなかったんだ! 頼む、許してくれ……! 見逃してくれよ……俺は、死にたくないんだ……! 死にたくない、まだ死にたくない……」


 途中からもう耳に入らなかった。何を言っているのか、意味がつかめなくなった。


 これが本当に星野なのか。あの笑いながら人を痛めつけ、喜んでいた悪魔のような男なのか。目の前で命乞いをする姿は別人のようで、現実感すら薄れていく。


「……なんなんだよ。いつもの調子はどうした! そんな姿で頭を下げて、情けなくないのかよ! もっと、いつもみたいに人を見下して、悪びれもせずに笑ってみせろよ!」


 星野は返事をせず、ただ、虚しさだけが返ってきた。苛立ちと混乱が入り混じり、悠は視線を逸らす。ふと横に掛けられた曇った鏡に目が留まる。


 ああ、そういうことか。悠は、そこに映った自分の姿を見つめた。白い体操服は返り血で真っ赤に染まり、頬を伝った血が乾いて黒ずんでいる。目はぎらぎらと光り、怒りと憎しみの色に塗りつぶされていた。鏡の奥からこちらを睨み返すその眼光に、思わず息が詰まる。見慣れた自分とは違う、まったく別の怪物がそこにいた。


 星野が変わったんじゃない。立場が変わったんだ。今までは、星野が力を持って弱い者を踏みつけてきた。だが今は、悠が力で踏みつける側に変わったのだ。いじめられていた頃は一度でいいからこちら側に立ってみたいと思っていた。けれど、実際に立ってみると嬉しくもなんともなかった。


 悠は視線を、平伏した星野の頭に戻した。人は誰しも、他人を傷つけたい衝動を抱えている。それを理性が押しとどめているだけで、何かの口実さえあれば、その枷は簡単に外れる。自分も星野も、変わらないと思えた。


 星野だって、最初からこんなに歪んでいたわけじゃなかったはずだ。名家の看板を背負わされ、周囲から無条件に特別扱いされて、息苦しいほどの期待を押しつけられて。逃げ場を探すように、他人を傷つけてみせることでしか自分を保てなくなったのだろう。


 最初は小さな棘だったはずだ。けれど、笑って持ち上げる取り巻きが集まるにつれ、引き返す道は閉ざされていった。誰も止めない。むしろ拍手で焚きつける。そうして膨れあがった凶暴さは、いつのまにか星野そのものになってしまった。


 星野を作ったのは星野ひとりではない。過剰な期待と、周囲の傍観と、本気で止める大人も仲間もいなかったという事実。そのすべてが肥料となり、誰もが心に宿す獰猛な種を芽吹かせてしまった。人を傷つけることでしか生き方を示せない、そんな怪物を、この社会が育て上げたのだ。


 でも――だからと言って、ゆるされるわけじゃない。


 悠は引き金を引いた。あえて急所ではなく、右肩にギリギリ掠めるくらいの位置を狙って。星野の右半身が弾け、肉と血が周囲に飛び散る。星野が醜く顔を歪めながら絶叫する。


「ぎゃあああああッ――!」


 もう一発、銃声が響いた。今度は星野の左半身が大きく抉られ、壁にぶつかるようにして崩れ落ちる。床に転がりながらも、その目はなお開いたまま、喉の奥でひゅうひゅうと虫のような音を立てて息をしていた。


 あれほど望んだ場面のはずだった。痛めつけて殺せば、どれほど胸が晴れるだろうと夢想してきた。この男がいなければ、灯里は笑って生きていけたのだ。なのに胸の奥に広がったのは、溜め込んできた憎悪とは正反対の、底なしの虚しさだけだった。


 弱々しい呼吸音が、耐えられないほど耳にまとわりつく。悠は銃を持ち直し、その黒い口を星野の頭に押し当てた。引き金を引く。乾いた衝撃音。頭が砕け散り、星野の体から完全に力が抜け落ちた。


 星野は――死んだ。


 その瞬間、体の芯から力が抜け落ちた。勝利の実感なんてなく、あるのは空っぽになったような虚脱感だけ。けれど、立ち止まっている暇はない。煙はすでに室内を濃く満たし、肺をじりじりと焼いてくる。


 悠は膝をつき、血に塗れた星野のポケットを探った。冷たい布地の中から掴み出したのは携帯電話。そのまま立ち上がり、出口へと足を急がせる。


 が、ふいに足を止め、ポケットから散弾を取り出した。さっき星野を仕留めた薬莢を床に放り捨て、新しい弾を素早く装填する。乾いた音が、静まり返った空気の中にひときわ響いた。


 三年B組の二十二人は葬った。だが、まだ終わってはいない。そう、このクラスは、灯里を除けば


 悠は扉を押し開ける。唇を強く結び、冷たい廊下の闇へ、再び足を踏み出していった。

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