【12】2025年7月18日/2025年7月21日①

 月日の流れは思った以上に速く、気づけばもう一学期の終わりが目前に迫っていた。


 この時期になると、北国といえども空気の匂いが少しずつ夏に傾きはじめ、街の景色にも鮮やかな色が差し込んでくる。花や木々だけでなく、人々の服や表情までもが、どこか軽やかに見えた。


 何とか期末テストを片付けた悠は、校舎を離れ、足早にいつもの廃工場へと向かっていた。今日は金井の件について話す前に、どうしても、やっておきたいことがあったのだ。


 古びたちゃぶ台の上に、鞄から取り出したNikonをそっと置く。続いて、白く小さなパーツをひとつ。すぐそばのスチールラックに手を伸ばし、使い慣れたドライバーを引き寄せる。手元に集中しながら、ゆっくりと、慎重にネジを緩めていく。


 ほどなくして皓太がやってきて、手元を覗き込んで驚いたように言う。


「うっす。……お、それ、できたんだ」


「ああ、これで修理ができる」


 小さなパーツは、皓太のCADを借りて設計したものだった。隣町の市民センターまで行って、3Dプリンターで出力した代物。ちゃんと図面通りに作られていて、Nikonの空いた隙間にすっぽりとはまった。


「おつかれ〜! あ、カメラ直ったんだ」


 廃工場に入ってきた灯里も物珍しそうに言ってくる。


「ああ、これで完璧だ。これからまた色々撮って回れる」


 悠は短く答え、手にしたNikonをそっと構えた。長く使い込んできた唯一の趣味の道具が、ようやく完全な姿を取り戻し、胸の奥がわずかに弾む。これから訪れる夏の景色を、できるだけ多くこのレンズに収めてやろう――そんな高揚が静かに広がっていった。


 灯里はこちらをじっと見つめ、ふと顔を上げる。


「ねえ、せっかくだから、写真撮ろうよ。三人で撮ったのって、あんまりないでしょ?」


 彼女は、まるで子どものように無邪気な笑みを浮かべていた。


「確かに、三人で撮ったことはないな」


「……わざわざ写真なんて、別にいいだろ」


 皓太はぶつぶつ言いながらも、ポケットから携帯電話を取り出し、画面を鏡代わりに前髪を整えはじめる。その様子が妙におかしく、思わず笑みがこぼれた。


 カメラのタイマーをセットし、ちゃぶ台の上にそっと置く。


「いいじゃないか。こいつが完全復活してからの、最初の一枚だ。みんなで撮ろう」


 手振りで二人に立ち位置を示し、ファインダー越しに視線を合わせる。


「はい、いくよ……!」


 タイマーを押すと、三人は慌てて肩を寄せ合い、レンズに向かって笑みを作る。ジジ、と短い機械音がして、続けざまにカシャリとシャッターが落ちた。


「どんな写真になるかな。楽しみだね」


 フィルムカメラは、現像するまで仕上がりがわからない。灯里はまだ見ぬ一枚を思い描くように、柔らかな笑みを浮かべていた。


 だが、その写真を彼女が目にすることはなかった。それどころか、三人で肩を並べて写る写真が、これで最後になるなど、このときは誰ひとり想像すらしていなかった。


「さて、それじゃあ作戦会議といくか!」


 皓太の声を合図に、三人はちゃぶ台を囲んだ。とはいえ、この先に残された課題は、ひとつに絞られていた。


「パスコード、何とかわかりそうか?」


「いや……どうにもならん。もう総当たりで試すしかないんじゃないかと思ってさ」


 皓太は金井のスマートフォンをひらひらと振ってみせ、肩をすくめた。他人が設定したパスコードを解くのは、正直ほとんど不可能に近い。そもそも、簡単に破られてしまっては、パスコードの意味なんてないのだ。


「何か、手がかりでもあればいいんだけどな」


「あと少しなのに……歯がゆいね」


 灯里が眉を寄せ、わずかに唇をかむ。その言葉のとおり、三人にとってこれは最後の関門だった。もし悠の推理が当たっていれば、このスマートフォンの中には星野の犯行を裏付ける証拠が眠っているはずだ。


 だがそれも、取り出せなければ、存在していないのと何も変わらない。


 六桁というのが、意外に厄介だった。人の誕生日は、たいてい月日で四桁か、西暦を加えて八桁になる。和暦にすれば六桁にはなるが、金井の誕生日で試してもロックが解除されることはない。


 電話番号や学籍番号、郵便番号、家の住所の番地……思いつく限りの数字を入れてみても、ことごとく外れる。


 六桁きっかりという条件が、逆に範囲を狭めているようでいて、実際は無限に近い組み合わせを生み出していた。画面に表示される入力ミスの警告が、じわじわと焦りを煽ってくる。


「これさえ解ければ、星野に証拠を突きつけられるのに」


 思いつく数字を何度も入れては弾かれ、また別の組み合わせを試しては失敗する。その繰り返しに疲れ、半ば投げやりにそう漏らすと、灯里がふと顔を上げた。


「そういえば……悠はもし証拠を手に入れたら、どうするつもりなの? インターネットとかで拡散するの?」


 問いかけられて、しばし沈黙が落ちる。これまで頭の中は、真実を突き止めることでいっぱいだった。けれど、それを手に入れたあとにどう使うのか――そこまでは、考えていなかった。


 もともとこの調査は、星野を倒すために始めたものだ。インターネットで公表するのも、一つの手かもしれない。でも、本当にそれが正解なのかはわからない。


「まあ、そんなことをしたらきっと大事になるよな。議員の息子が事件を起こしたなんて知れたら、マスコミが放っておくはずないし」


「まあな。たぶん、あの親父さんも辞めさせられるだろうな」


 相槌を打つ皓太は頭の後ろで手を組み、ちゃぶ台のどこか一点を睨むようにして黙り込む。その目は、これから先に起こるであろう光景を思い描いているようだった。


 星野の父親は失脚し、あの広すぎる豪邸も手放すことになるかもしれない。そうなったとき、星野の家は一体どんな姿になるのだろう。その想像は、妙な現実味を帯びて胸に残った。


「……迷いがないと言えば嘘になる。でも、先に悪事を働いたのは星野だ。金井の件も、それ以外のことも。きちんと報いを受けさせるべきだと思う」


 今まで受けてきた数々の仕打ちが頭をよぎる。その重みを確かめるように、言葉が続いた。


「ここで手を緩めたら、金井が浮かばれない。それに、同情の余地なんてないほど、あいつは危ない人間だ。やっぱり……一番大きなダメージを与えられる方法でいくべきだと思う」


 灯里が、わずかに視線を泳がせた。そのまま、こちらの様子をうかがうように、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「悠の言うことはわかるよ……。最初は私も、そうするべきだと思ってた。でも、今は少しだけ、悠は間違っていると思うの。今は世間に事実を公表する前に、少し立ち止まって考えてもいいんじゃないかって思ってる」


 顔を上げ、真っ直ぐに視線を向けてくる。


「悪いことをした人には罰を与える――それは正しい。正しいと思うよ。でも、それは本当にどうしようもない悪人に対しての話。もしまだ心を入れ替える余地があるなら、その先の未来も考えてあげなきゃ」


 灯里の瞳は、光を含んで揺れていた。けれど、その輝きとは裏腹に、悠の胸の奥に広がる感情は冷たいままだった。


「そうか? 加害者に同情の余地なんて、ないだろ」


「それは……そうかもしれないけど。ほんの少しだけ、悠は間違っていると思う。星野だって、確かな証拠を突きつければ、もう悪いことをやめるかもしれない。星野も星野で、色々悩みがあるっているのもわかったし……。言って聞かせて、それで終わるなら、その方がいいと思う。もし聞く耳を持たないなら……そのときは、とことんやるしかないけど」


 灯里の声には迷いが混じっている。それでも、その瞳は揺らがず、まっすぐこちらを見返していた。


 悠は、ぼんやりと天井を仰いだ。廃工場の屋根を支える、錆びついた鉄骨の線を目でなぞっていく。灯里の言うことは理解できるし、間違っているとも思わない。けれど、その正しさだけではどうにも収まらないほど、胸の奥には複雑な感情が渦を巻いていた。


「まあ、何にせよ……まずは証拠を手に入れてからだな。話はそれからだ」


 答えが出る気配もないので、そう言って会話を切り上げようとする。一瞬、三人の間に沈黙が落ちた――と思った矢先、灯里が再び口を開いた。


「ねえ」


 妙に改まった表情を見せる灯里に、思わず目を細める。


「なんだよ、まだ納得してないのか?」


「ううん、その話じゃない。……もうすぐ、この調査も終わりそうでしょ。だから、その前に、二人に言っておきたいことがあるの」


 そう言って、灯里は座布団の上で膝を抱え、姿勢を正す。視線をゆっくりと動かし、悠と皓太の顔を交互に確かめるように見つめた。


「悠は、前に聞いてくれたよね。……私がどうして二人と一緒にいるのか、どうして金井くんのことを一緒に調べているのかって」


 もう二ヶ月も前のことになるが、警察署からの帰り道、何気なく灯里に投げかけた問いを思い出す。あのときは空気が重くなり、それ以上深く聞くことはできなかった。


 今、その答えを彼女は語ろうとしている。そして、口からこぼれた言葉は、予想していたものとはまるで違っていた。


「あれね……全部、自分のためなんだ」


 灯里は少し目を伏せ、静かに続けた。


「ごめんね。……私、本当に最低な人間なの。この学校に入ったとき、うちのクラスの状態には本当に驚いたの。中学までは、みんな仲が良かったから。でも、うちのクラスでは金井くんはいじめられて、悠や皓太は周りから仲間外れにされて……おかしいとは思った。思ったけど、私は何もできなかった」


 灯里の言葉は、胸の奥からひとつひとつを無理やり掘り起こすように、苦しげにこぼれ落ちていく。


「いじめって、周りが黙って見てるからどんどんひどくなるって、頭ではわかってた。わかっていたのに、私は何もできなかった。誰かが止めればいいって思っても、クラスの誰も、先生たちでさえ何も言わなかった。そうじゃないって思っていたのに、結局自分もそんな人たちと同じだと思ったら、悔しくて、情けなくて、自分のことが嫌いになりそうだった」


 そこで少し息を整え、灯里は視線を落としたまま続けた。


「だから……私は、悠に声をかけたの。いじめは止められなくても、私は人を仲間外れにしたりはしない。私はクラスのみんなとは違う、優しい人間なんだって、そう思いたくて。……本当は、そのためだけに話しかけた。本当は悠のことなんて、何とも思ってなかったのに」


 その言葉は、鋭く胸の奥に突き刺さった。ふいに、あの日の光景がよみがえる。校庭の木陰で、ためらいがちな笑みを浮かべながら声をかけてきた灯里の顔。


「村岡さんが言ってたこと、本当なの。……全部、偽善。悠や皓太と話すようになって、いつの間にか本当に楽しくて一緒にいるようになったけど、最初はただの偽善で、自分のために始めたこと。それで、金井くんが死んじゃって……そのことにも自分が少しは関わっている気がして、それが嫌で、こんな調査まで始めたの。真相を突き止めたって、私の罪は消えないのに。勝手に、帳消しになるかもしれないなんて思って」


 灯里の告白は、途切れることなく続いていった。その声を聞きながら、村岡と向き合ったときに彼女があれほど激しく怒った理由が、ようやく腑に落ちる。


 きっとあのとき村岡が放った言葉は、灯里にとって一番触れられたくない場所に、真っ直ぐ突き刺さったのだ。


「ごめんね、急にこんなこと言って。でも、全部が終わる前に、二人には伝えておきたかったの。――これも、ずるいよね。二人に許してほしいから、こうやって話してるんだと思う。……本当に、最低な人間で、ごめん」


 灯里の大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。きっと、涙が今にもこぼれそうなのだ。彼女は、いつもそうだった。


 悠も背筋をわずかに伸ばし、呼吸を整えるようにしてから、ゆっくりと、できるだけやわらかい声で灯里に言葉を向けた。


「話してくれてありがとう」


 灯里は、勇気を振り絞って自分の気持ちを打ち明けてくれた。その想いに応えるべきだと、胸の奥で強く感じる。


「俺は……ずっと、クラスの連中が許せなかった。今も、それは変わらない。金井のときも、自分のときも、誰も手を差し伸べてくれなかったし、誰も正面から星野と戦おうとはしなかった。そんな奴らは、みんな傍観者ですらなくて、星野の共犯者だと思ってる」


 灯里の表情が、わずかに強張るのがわかった。それでも言葉を止めず、続ける。


「でも……気持ちはわかる。金井がいじめられていたとき、自分だって何もしてこなかった。みんな、自分に火の粉が降りかかるのが嫌なんだ。正しさよりも、自分の安全を選ぶ。そう考えるのは自然なことだと思う。絶対に許すつもりはないけど……どこかで、もう仕方ないと諦めてもいる。灯里だけがずるいわけじゃない」


 そう――結局、誰もがずるいのだ。正しいことを知っていても、自分の利益にならなければ動かない。清廉潔白などではない。それが人間というものだ。


「でも……それじゃ、本当は駄目なんだと思う。やっぱり、誰かが声を上げなきゃいけない。灯里は確かに、金井を守れなかったし、星野に立ち向かうこともしなかったかもしれない。けど、自分なりに考えて、行動を起こした。その始まりが偽善だったとしても――その行動自体は、間違ってない。俺は、そう思うよ」


 それが、胸の奥で渦を巻く正直な思いだった。許すことが正しいのかもしれない。けれど、自分もまたずるい人間で、それはどうしてもできない。クラスの全員が憎いし、灯里や皓太に対しても、その感情がまったくないと言えば嘘になる。


 それでも――それはそれとして、自らの意思で行動を起こした灯里は、やはり立派だと思えた。矛盾しているのはわかってるが、今はそれでいいと思えた。


「なあ、灯里……灯里は、俺たちと過ごした学校生活、楽しかったか? ……俺は、楽しかった」


 皓太が、少しおそるおそるといった調子で口を開く。灯里は一瞬目を伏せ、それから静かにうなずいた。


「それは……私も、楽しかった。本当だよ。信じてほしい」


「なら……俺は、もういいよ。悠の言った通り、今がすべてだ」


 皓太は安堵したように息を吐く。


「俺もさ、正直ずっと思ってた。うちのクラスの連中って、意味わかんねーって。何も悪いことしてないのに、なんでこんな冷たくされなきゃならないんだって。俺なんて、親の都合でただ引っ越してきただけだぜ? でも……理屈じゃないんだよな。理屈より感情とか、周りの空気感とか、そういうのを優先して態度を変えてしまう。意味わかんねーけど、きっとそういうもんなんだよ」


 皓太は少し笑みをにじませながら、灯里を見る。


「だから、灯里は別にずるいとか悪いとかじゃなくて……ただの、普通の女の子なんだと思うよ」


 皓太の言葉は、痛いほど頷けるものだった。自分も金井も、何一つ悪いことはしていない。それでも、いじめは起きる。いつだってそんなものだ。


「灯里は、確かにこれまで正しい行いをしてこなかったかもしれない。でも、正しいことを貫くには、相応の勇気がいる。今こうして行動しているなら、それだけで胸を張っていいんじゃないか」


 その言葉に、灯里の瞳が潤み、ぽとりと涙がこぼれ落ちた。でも、すぐにただその雫を拭う。


「……二人とも、ありがとう」


 三人は小さくうなずき合い、つられてわずかに笑みをこぼした。どこか気恥ずかしさは残っている。それでも、胸の奥にしまっていた思いを言葉にした分だけ、互いの距離がほんの少し近づいたように感じられた。


「さ、そろそろパスコードの解読に本腰入れるか。何か思いつくこと、あるか?」


 皓太が手の中のスマートフォンを軽く持ち直す。その画面に映る無機質な数字の並びは、ただ沈黙を守っているだけなのに、妙に挑発的に見えた。


「うーん……パスコードって、大体覚えやすい数字にするよね。自分の身近なこととか……好きな人の誕生日とか?」


「なるほど。それじゃ、とりあえずB組の女子の誕生日、片っ端から入れてみるか」


 灯里がぽつりと口にした推測に、皓太が頭を掻く。きっと、途方もない作業になると考えているのだろう。


 金井が好意を寄せていた相手など、心当たりは一人もいない。女子と親しげに話す姿すら見たことがなかった。――いや、待て。もし金井にとって大切な存在がいるとしたら――。


「……わかった、かもしれない」


 口をついて出た言葉に、二人が一斉にこちらへ顔を向ける。根拠などどこにもない。それでも、導き出した答えは不思議なくらい確かなものに感じられた。


「今すぐ金井の家に行こう。金井お母さんに聞かなきゃいけないことがある」


 悠はそう言うと立ち上がった。


***


 三日後の午後、三人は町の中心にそびえる星野の家の前に立っていた。前回のように抜け道を探すこともなく、今度は真正面から、堂々と。


 インターホンを押し、出てきた母親らしい人物に用件を告げる。ほどなくして姿を現した星野は、露骨に不機嫌な表情を浮かべ、口の端を歪めた。


「チッ……何の用だよ、下等生物。わざわざてめえに呼びつけられる筋合いなんざ、ねぇんだよ」


 黒いジャージに包まれた大柄な体は、ただそこに立っているだけで威圧感を放っていた。


 これまで星野に浴びせられてきた数々の仕打ちが脳裏に蘇り、胃の奥がきゅうっと締めつけられる。背中にじわりと汗がにじむのは、夏の陽射しのせいだけではなかった。


 それでも逃げ出すわけにはいかない。この日のために、ずっと戦ってきたのだから。


「星野……今日はお前に、話があるんだ」


 そう言って、悠は手に持った金井のスマートフォンを力強く握りしめた。

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