【9】2025年7月2日②
全力で駆けてきた勢いのまま、危うく校舎裏へ飛び出しかけた。土埃を巻き上げながら、ぎりぎりで足を止める。壁の角に背を押しつけ、呼吸を整えながらそっと顔だけをのぞかせた。
薄くくすんだ校舎の壁、そのすぐ先には、樹木の影が濃く落ちている。その下に、二人の人影。ひとりは灯里。長い黒髪をひとつに束ねて、真っ直ぐ相手を見据えている。心なしか、いつもよりも少し顔が強張っているように見えた。
向かい合っているのは村岡だ。明るい色の髪にゆるくパーマをかけて、どこか余裕を滲ませた表情を浮かべている。並んで立つと、村岡の方が頭ひとつ分は背が高い。細かいところまでは見えないが、空気の重さは距離を超えて伝わってくる。
星野の姿はなかった。だが、油断はできない。後からのこのこ現れる可能性は十分ある。気配を殺すようにして、草むらへ身を滑り込ませた。ざわりと葉が揺れる音が一瞬響くが、気づかれた様子はない。ここなら、声も少しは拾えるはずだ。
何を話している――? その瞬間、すぐ隣の草の中で何かが動いた気配がして、思わず声が出そうになった。
皓太が、口元にそっと指を立てて隣に腰を下ろしていた。久しぶりに、こんな至近距離でその顔を見た。まだ謝れていないが、今はそれどころじゃない。目の前の出来事が、すべてだった。二人とも、灯里を守りたいという気持ちだけは、確かに通じあっていた。
「小島さん、最近ちょっと、いろいろ嗅ぎ回ってるらしいじゃん?」
距離のあるはずの場所から、村岡の声がはっきりと届いた。こういうとき、あの阿呆みたいにでかい声は役に立つ。
「……何の話?」
灯里の声は落ち着いていたが、どこかに緊張の色が混じっている。
「とぼけても無駄よ。校内じゅうで人に話聞いてまわってるの、知らないとでも思ってる? 警察にもちょこちょこ顔出してるみたいだし、さすがに目立ちすぎでしょ」
皓太がわずかに息を呑み、目を見開いてこちらに視線を向けた。おそらく、情報が漏れていたことに驚いているのだろう。その理由は、もうわかっている。でも、今それを説明している時間はなかった。
「だから何? 村岡さんに、それが何か関係あるの?」
灯里の声は静かで、けれど一歩も引かない意志の強さがにじんでいた。その立ち姿に、思わず胸の奥がざわつく。相手は星野の側にいる人間だ。もっと慎重に、と願わずにはいられない。
村岡はどこか人を見下すような調子で、わざと声を高くした。
「小島さん、あんまり余計なこと考えない方がいいわよ。最近も、あの下等生物とつるんでるみたいだし――そんなことしてたら、星野がどう思うか、知らないわよ?」
胸の奥がひときわ強く脈打った。言葉にならないうめきが、喉の奥から漏れそうになる。まさに、それこそが思い描く最悪の展開だった。自分たちと関わっているせいで、灯里に火の粉が降りかかる。予感していた未来が、現実の輪郭を帯びはじめていた。
「何を考えてそんなことしてるのか、さっぱり理解できないわ。もしあいつらを哀れだなんて思ってるなら、それはただの偽善よ。自分は優しい人間なんだって、そう信じたいだけ。そんな思い込み、押し付けられるほうは迷惑なだけじゃない?」
言葉の端々に勝ち誇った色を滲ませながら、村岡は鼻先で笑った。
灯里は、その言葉を浴びながらも黙っていた。目を伏せるでも、背を向けるでもなく、ただ正面から受け止めているように見えた。
沈黙が一拍、ふた拍、重なったのち、張りつめた空気を裂くように、かすれた声が響きわたる。
「悠は……下等生物なんかじゃない……!」
震えるその声音に、村岡の表情がこわばる。思いもよらぬ反撃に、目が見開かれていた。
「私が何してようと、私の勝手でしょ。それとも――何か都合の悪いことでもあるの? 私が、金井くんのことを調べると」
灯里がぐっと一歩、前に出る。
「金井くんが死んだ、あの日。村岡さんは……違う、村岡さんや星野は、どこにいたの? 何してたの? ねえ、答えてよ」
強い語気。抑えきれない怒り。その迫力に、一瞬、空気が止まった気がした。
言い過ぎだ――そう思った。理性のひもが切れて、感情だけで突っ走ってしまっている。けれど、それでも灯里の目は、揺らがなかった。
「は……? なにそれ……。あたしは、普通にカラオケ行ってただけなんだけど」
村岡の声はかすかに揺れていた。思った以上に、効いているらしい。張り詰めた空気の中で、灯里の声がさらに鋭く突き刺さる。
「本当に? どこ? どこのカラオケ? 金井くんは、一緒だった?」
「普通に駅前の『どんちゃん』だし。それに、あんな“カナヅチ”とカラオケ行くわけないじゃん……」
その言葉が終わるやいなや、灯里の叫びが空気を裂いた。
「金井くんのこと、“カナヅチ”って呼ぶな!!」
怒鳴った声が反響し、周囲の空気をきつく締めつけた。村岡は目を泳がせながら舌打ちし、「……馬鹿みたい」と吐き捨て、踵を返して足早に去っていく。
そのあとには、拳を固く握りしめたままの灯里だけが、立ち尽くしていた。
「灯里!」
二人で駆け出し、息を切らせて辿り着いた瞬間、灯里は顔をこちらに向け、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。皓太が慌てて支えると、灯里の肩が小さく震えていた。
「お前さ……さすがに言いすぎだろ。星野にチクられたら、やばいって」
それでも、灯里は唇をかみしめながら、涙声で呟く。
「だって……悔しかったんだもん。悠のことも、金井くんのことも、あんなふうに馬鹿にされて……」
目を伏せる灯里に、皓太と視線を交わす。少し困ったように頭をかいて、優しく声をかけた。
「でもさ、ちょっとスカッとした。あの村岡の顔、見た? 今まででいちばんブサイクだったわ」
「なあ。たまには言い返してやんないと、どんどんつけ上がるしな」
「俺の代わりに怒ってくれて、ありがとな、灯里」
その瞬間、灯里の顔がくしゃっと歪んで、大きく息を吸い込むと、「うえーん」と子どものような泣き声をあげた。涙は止まらず、こぶしをぎゅっと握ったまま、しゃくり上げる音だけが、しばらく風のなかに響いていた。
***
そのあと、どこか静かな場所で一息つこうという流れになり、いつものように廃工場へ向かうはずだった。けれど、なぜか途中で皓太が「家に寄っていけよ」と言い出した。どうやら、見せたいものがあるらしい。
「なあ、皓太。この前のこと、悪かった」
「違う。先に変なこと言ったのは、こっちだから。悪いのは俺だよ」
そんなやりとりを交わしただけで、不思議と皓太との空気はもとに戻った。ぎこちなさは風に吹かれて消えていき、いつもの調子がふっと戻ってくる。別に互いを嫌いになったわけでもないし、今はくだらない意地を張っている場合じゃない。立ち向かうべき相手は、別にいる。
三人で並んで歩いていると、灯里のポケットから突然着信音が響いた。彼女は驚いたように電話を取る。短い沈黙のあと、 なぜだか不思議そうに眉をひそめて切った。
「誰だったの?」
皓太が訊くと、灯里は「わからない。なんか変な外国語で喋ってて……怖くなって切っちゃった」と答え、不安げに周囲を見回した。
「よくあるじゃん、そういうの。海外からの変な電話とかさ」
そう言って軽く笑ってみせたけれど、灯里の不安は消えない。
「でもさ……この番号、どこで知ったんだろう? 誰にも教えてないのに」
その言葉に、ふと頭に浮かんだことを口にする。
「ああ、それ、偽の基地局とかじゃね?」
何気なく言ったつもりだったのに、二人の視線が一斉に集まった。
「基地局って……何?」
「えっと、電波塔みたいなやつ。この前ニュースでやってたんだけどさ、外国人が車に自作の基地局を積んで、近くにある携帯を勝手に繋げるって話。そうすると、向こうから電話かけたりもできるし、逆に通話できなくもできるらしい」
言いながら、やや自信なさげに指を組む。完全に受け売りだったけど、間違ってはいないはずだ。
「そんなこと、できるんだ……」
灯里が小さく呟き、皓太が「すげえなそれ」と感心したように言った。
皓太の家に着くと、やはりというか、入り口からして一筋縄ではいかない造りだった。裏口とも勝手口ともつかない場所から入り、想像以上に鬱蒼とした中庭を抜けて、ようやく彼の部屋へと案内された。両親は不在らしく、静けさの中に風の音だけが混じっていた。
「へぇ……中って、こんな感じだったんだ。すごい」
ぽつりと灯里がつぶやくと、皓太はすぐに肩をすくめて返す。
「見てくれだけはいいんだよ。でも不便なんだ。自分の部屋に行くのにいちいち外に出なきゃいけないって、ありえないだろ」
口ではそう言っているが、どこか照れ隠しのような言い方だった。
だが、部屋の中はさらに強烈だった。壁際には模型ケースがぎっしり並び、プラモデルの戦車や精巧なモデルガンが、まるで戦争博物館のように整然と並んでいる。
「これ、ほとんど親父の趣味の残りもんなんだ。作る時間ないくせに沢山買うんだよな、あの人」
ぶっきらぼうな声とは裏腹に、ケースの中の一台一台が丁寧に手入れされているのが見て取れた。きっと、なんだかんだ言っても、大切にしているのだろう。
「それで、見せたいものって?」
尋ねると、皓太はパソコンの電源を入れ、無造作にマウスを動かす。
「これだ。あの路線橋の周辺にあるカメラ映像、色々言い訳して手に入るだけ集めてみた」
「まじかよ……! それで、何か映ってたのか?」
「映ってたと言えば映ってた。良いか悪いかは別としてな」
言葉を濁しながら、皓太はひとつのファイルを開いて再生する。画面に映し出されたのは、どうやら車載のドライブレコーダーの映像らしかった。薄暗い道路が無音のまま流れ、やがて路線橋が近づいてくる。その道端に、一人の見慣れた男の姿が、はっきりと映り込んでいた。
「これって……金井くん?」
「そう。金井が飛び降りた十五分前の映像だ」
画面の中、金井はうつむき加減で歩いていた。背中は小さく丸まり、手に握ったスマホの画面をじっと見つめているように見える。どこか所在なげで、歩みもゆっくりだった。
「星野たちは?」
「それが、どこにも映ってない。近くのカメラも片っ端から確認したけど、事件の日にあいつらがこの辺にいた痕跡は、ひとつも見つからなかった」
皓太は軽く肩をすくめ、両手を宙に掲げる。灯里は眉尻を下げて、ほんの少しだけ目を伏せた。二人の表情には、どこか諦めが滲んでいた。ここまでか、そんな空気が流れる。
けれど、まだ終わりじゃない。
「なあ。さっき、近藤さんと話してきたんだ。そこで、面白い話を聞いた。……二人とも、金曜の夜、時間あるか?」
灯里が皓太が、一斉にこちらを振り向いた。
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