【3】2025年5月2日②/2025年5月16日
河川敷での話し合いのあと、悠は一人で街の中心地へと向かっていた。目的地はあの橋だ。金井が身を投げたとされる、路線をまたぐ高架の橋。コンクリートの階段をひとつずつ上がるたびに、背中に風がまとわりつく。
橋の上から見渡す街は、いつもより平たく、遠く感じられた。西の空には夕陽が沈みかけていて、輪郭を曖昧にしながら建物の端々を赤く撫でていた。影に飲まれた町並みはどれも背が低く、控えめで、遠い空との間には細く滲む水平線さえ見えた。
陽が地平の向こうへすっかり沈んだのを確かめるようにして、視線をゆっくりと下げる。足元の欄干の隙間から、眼下に広がる線路をのぞき込む。鉄と砂利と、張りつめた静けさ。高さは、十数メートルといったところか。見上げればさほどでもないが、こうして欄干越しに覗き込むと、思った以上に地面は遠い。ただ、ここから落ちただけなら、助かった可能性もあっただろう。骨を折り、血を流しても、命までは奪われなかったかもしれない。
けれど、金井は違った。電車が近づく、その一瞬を狙って、この場所から身を投げた。列車の轟音に、命ごと飲み込まれるタイミングを、自ら選んだのだ。
顔を上げると、遠くの闇に小さな光がふたつ滲んでいる。車両のヘッドライトだ。ゆっくりと、けれど確実にこちらへと近づいてくる。手すりに手をかけ、足を引っかける。無意識のうちに、体が動いていた。
幅わずか十五センチほどの手すりの上に立つ。下を覗き込むと、眼下には黒々とした線路が伸び、その奥から、唸るような音をともなって電車がやって来る。あと少し。今なら。飛び降りた直後、確実に跳ねられる――。
その瞬間、電車ががたんごとんと大きな音を響かせて、橋の下を駆け抜けていった。振り返りながら橋の上に飛び降りるが、膝が言うことをきかない。震えた足が踏ん張れず、そのまま尻もちをついてしまった。冷たい鉄の感触。喉が焼けつくように苦しくて、息が乱れる。胸の奥がばくばくと暴れ回っている。
こんな場所から、あいつは飛んだのか。本当に。あの、不器用で、どんくさかった“カナヅチ”が。信じられない。やっぱり、何かが、おかしい。
ふと、誰かの視線に気づいて横を向いた。階段のあたりに、一人の女性が立っていた。年のころは四十代くらいか。くたびれたコートの裾が風に揺れ、手にはくしゃくしゃのスーパーの袋と、小さな花束。
見慣れないその姿に、なんとはなしに目をやる。だが、女性と目が合った瞬間、胸の奥に冷たいものがすっと差し込んだ。
その眼差しは、怒りとも、悲しみとも、憎しみともつかない、どこまでも深く、どこまでも重たい視線だった。歳月にすり減らされたその顔は、どこか人間の輪郭を超えているようで、思わず息を呑む。
鼓動が耳の奥で跳ねた。理由もわからぬまま、反射的に体が動く。目を逸らし、背を向け、反対側の階段へ、悠は逃げるようにして走り去った。
***
「色々調べてみたんだけどさ」
五月も半ばを過ぎたころ、いつもの廃工場に、皓太の甲高い声が跳ねるように響いていた。灯里と二人、ポテトチップスの袋を膝にのせたまま、その顔をまじまじと見つめる。
「金井の件、ネットニュースとかSNSも含めて片っ端から探したんだけどさ、まともに記事になってるの、たった三つだけだった。どれも『高校生が飛び降りて自殺』って、それだけ。学校で何があったとか、いじめの有無とか、そういう情報は一切なし。読んでも、ただテンプレみたいな文が並んでるだけで、現場を取材した感じは全然ない」
皓太は喋りながら、ちゃぶ台に乗せたパソコンのキーボードをカタカタと軽快に打ち続ける。普段は無口やつだが、こういう調査や分析の話になると、急に舌が回り出す。そういう時は声も一段と高くなって、まるで別人みたいに熱を帯びてくる。
「普通さ、高校生が自殺したら、もうちょっと騒がれそうなもんだけどな。まあ、この町の規模じゃ、そんなもんなのかもしれないけど」
「メディアにも、何か圧力でもかけたのかね。星野の親がさ」
悠は腕を組んだまま、あの厄介なゴリラ面を脳裏に浮かべる。警察相手じゃ難しくても、マスコミくらいなら多少強引に動かせそうだ。そう思わせるくらいには、あの家の名前は重たい。
「うーん。そしたら、どうやって調べればいいのかしら?」
「ちょっと待って。まず、情報を整理しよう」
皓太は座布団に浅く腰を掛け直しながら、カバンの中を漁る。出てきたのは、パソコンと同じくらいの小型モニター。ケーブルで接続し、こっち側にも見えるように手際よく角度を調整した。
「まず、金井について。フルネームは金井優希。知ってると思うけど。高校二年の冬に燈影高校を自主退学して、二週間後に自殺。自宅は確か学校からそんなに遠くなかったはず」
画面には、まるでどこかの捜査資料みたいに金井のプロフィールがずらりと並んでいた。それを見た灯里と顔を見合わせて、思わず吹き出してしまう。皓太はこういうところも妙に凝る。妙に几帳面で、妙に本気で。
「それで、金井をいじめていたのは、ご存じ星野の一味。ボスは星野慎也。親の威を借るゴリラね」
続いて表示される星野の情報。たしか、あいつの家は町の中心地にある一際大きな家だった。仰々しい門から家までに車が何台も並んでいるのを見たことがある。
「次は取り巻き。まずは村岡。星野とはべったりだけど、別に付き合ってるってわけじゃないらしい」
村岡は、星野の取り巻きの中で唯一の女子だった。やたらと念入りなアイラインで、細い目を無理やり大きく見せようとしているのが目につく。ブラウスの第二ボタンまでいつも外れていて、風紀指導が形骸化してることをあの格好一つで証明していた。
皓太は得意げにしゃべっているが、挟み込まれる小ネタの半分以上は灯里の情報だ。女子ネットワークの力は伊達じゃない。聞くところによれば、校内でも村岡みたいなタイプは意外と孤立しがちらしい。だけど星野のそばにいれば、誰も表立っては何も言えない。そういう空気が、じわじわと学校全体に蔓延している。
「そして井浦と谷川。井浦は空手部のエースで、実は星野より強いって噂もある。でも親同士が上司と部下の関係らしくて、あんまり逆らえないみたい。谷川はっていうと、しょーもない奴。野球部で半分いじめられてるらしくて、星野の腰巾着になってどうにか生き延びてるって話」
いつも自分を殴ってくる名前が出た瞬間、腹の奥にじわりと嫌な感覚が広がった。井浦は真面目そうなツラして、裏では平気で悪さもする二枚舌だし、谷川は取り巻きの中でも明らかに序列が低くて、それをごまかすために他人を蹴るタイプだ。
「あとは、時と場合によって、三年B組の誰かが一緒にいたりする感じかな。詳しく説明しようか?」
「ううん、いいよ。全員知ってるから」
張り切る皓太を、灯里がやんわりと笑って制した。
そう、よく知っている。星野たちが金井をいじめていたことを。たぶん、入学してからずっといじめは続いていたと思う。金井は、正直言ってちょっと変な奴だった。いつもぼーっとしていたし、声をかけても的を得ない答えが返ってくることも多かった。勉強も運動もできなかったし、どこか動きがとろくて、その様子と苗字をかけて誰かが"カナヅチ"と呼び始めた。もしかしたら、それが始まりだったのかもしれない。
いじめは、たいてい放課後だった。人気のない場所に連れて行かれて、暴力を受けたり、訳もなく物を壊されたり、理不尽な仕打ちを受けたり。――今の自分と、同じように。
「本人たちに直接聞くわけにもいかないから、まずはまわりから探ってみるのがいいかもな」
「うん。宮本先生とか、他の先生たちにも、それとなく話を聞いてみようよ」
灯里は担任の宮本をずいぶん信頼しているようだが、悠からしてみればそれも少しずれている気がしていた。あの中年のおっさんが、有益な情報をくれるとも思えない。
「あとは、警察署にも足を運んでみよう。何か手がかりがつかめるかもしれないし。それでも収穫がなければ、最悪、星野の家を張り込むしかないな」
皓太がそう言って、キーボードを音を立てて叩いた。ふと、その紫に光る筐体が気になって、聞いてみる。
「なあ、そのパソコン、買ってもらったのか?」
皓太は不思議そうにこちらを一瞥する。
「いや、父さんの仕事用のをお下がりで。スペックだけはやたらいいんだよな、無駄にさ」
やっぱり、という気配が胸の奥でぴたりと重なり、つい前のめりになる。
「ってことはさ、CADとかも入ってる?」
「入ってるけど……なんで?」
「今度、ちょっと貸してくれないか? 作りたいものがあるんだ」
CADというのは、3Dの設計モデルを組んだりできるソフトのことだ。そんなもの、金のない高校生にとっちゃ夢のまた夢だ。それが使えるなんて、久しぶりに胸の奥が躍るような気がした。
その後も少しだけ話し込んで、時間があるときは三人で、それが難しければ手分けして調べる、ということで話はまとまった。調査の方針が決まったところで、その日はお開きになった。
「じゃあ、また来週な」
廃工場の出口で皓太と別れた。灯里とはしばらく同じ方向なので、そのまま並んで歩き出す。まだ少し冷え残る夕暮れの風が、足元をなぞるように吹いていた。
「最近は、大丈夫なの?」
こちらを見ながら、灯里が小さく尋ねる。
「そんなわけないだろ。あいつら、毎日飽きもせずに殴ってきやがって」
吐き出すような言葉に、ため息が重なる。灯里は少しだけ歩調を緩めて、心配そうにこちらを覗き込んできた。
「……ごめんね、何もできなくて。早く星野を懲らしめてやろうね」
顔を向けると、長いまつげに縁どられた大きな瞳がぱちりとこちらを見返してきた。その中の煌めきに目を奪われ、一瞬言葉を見失う。
灯里がどうして自分たちと一緒にいるのか、その理由は正直なところ、よくわからなかった。学校という名の狭い社会の中で、自分と皓太の立ち位置は決まっている。ピラミッド型のヒエラルキーで言えば底辺。いや、そもそもその構造の外に放り出されているようなものだ。
一方で灯里は、いわゆる「普通」に属する側の人間だった。特別目立つわけでも、いじめられているわけでもなく、日々をうまくやり過ごせるだけの友達や場所が、ちゃんとあった。
だからこそ不思議だった。なぜこんな外れ者のグループに、彼女が加わっているのか。好奇心なのか、気まぐれなのか、それとも――。
"ねえ、そのカメラ、使ってみてもいい?"
初めて灯里と言葉を交わしたのは、一年生の体育祭の日だった。校舎の陰で寂しく一人で休んでいたところに、眩しい声がすっと差し込んできた。手にしていたNikonを渡すと、彼女は迷いなくレンズを空に向けて、シャッターを一度だけ切った。
"どんな写真が撮れたんだろう?"
そう首をかしげる姿が印象に残って、律儀にも写真部の部室へ行って現像した。仕上がったのは、ただの青空。ピントも合っていない、お世辞にも良いとは言えない写真だったが、それでも灯里は心底嬉しそうに笑って「ありがとう」と何度も言った。それがきっかけだった。気づけば、彼女は自然と話しかけてくるようになり、やがてあの廃工場にも顔を出すようになった。皓太と二人で始めた秘密基地に、もう一人、仲間が増えた瞬間だった。
"なんか、女子同士って面倒くさいんだよね。気を使ったり、見栄を張ったりしなきゃいけないし。ここにいるほうが楽なの"
そんなふうに灯里がこぼしたのは、たしか曇った日の放課後だった。お菓子の袋を膝に広げながら、ぽつりとつぶやいたその言葉が、どこまで本気だったのかは、今でもよくわからない。わからないまま、今日も灯里は当たり前のように隣にいる。その理由を、問いただす勇気もないままで。
「じゃあね」
現実の灯里がそう言って、小さく手を振った。歩道の端でその姿が遠ざかるのを見届けてから、ゆっくりと歩き出す。古ぼけた家の前にたどり着くまで、あたりはすっかり暮れていた。
電気は消えたまま。錆びた引き戸が、ぎい、と嫌な音を立てて開く。靴を無造作に脱ぎ捨てて玄関をくぐると、鼻先を冷たい空気が刺した。
「……ただいま」
返事はない。息を潜めたような静けさが、家じゅうを満たしている。たぶん、母親はまだ眠っているのだろう。
部屋に入って、乱れたシーツの上にそのまま倒れ込む。さっき見た灯里の瞳の煌めきだけが、薄暗い天井の向こうで、妙に鮮やかに焼きついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます