第4話 わたしの全部をみてください

わたしの全部をみてください①

 校舎から外に出ると、すでに夜の帳は下りて街灯が辺りを照らしていた。


 最終下校時刻になっても校舎に残っていた生徒はいるようで、俺たち以外の人間もポツポツと見受けられる。残っていた理由までは察することしかできないが、単純に居残って勉強をしていたか、委員会か生徒会活動でもあったのだろう。1人で帰るような人間は誰もおらず、少なくとも2人以上の人間が集団で歩いていた。思い思いにお喋りする彼らは、この後真っ直ぐ帰るのかそれとも更に寄り道するのかなんて、どうでもいいことを考えてしまう。


 俺と早川さんも、そんな集団の中に紛れて二人で学校の外へと歩いていく。


 一緒に帰ろう、と話したわけではない。そもそも図書室を出てから、互いに一言も発していない。けれど、互いに距離を離すわけでもなく、かといって隣を歩くわけでもない、なんとも言えない距離感のまま、ここまで来てしまった。


 一応、俺としては何も考えていないわけではない。夜とはいえ7時過ぎ、明かりも十分にあって人通りも多い道に危険がそうあるわけでもないが、それでも女子を一人で帰すわけにはいかないという常識が頭にあったからだ。帰り道も途中までどころか、ほぼゴールまで一緒である。向こうは手間取らせるから遠慮すると言いにくいし、こちらはついでだから送っていくと思わなければ不自然過ぎた。


 ただ、不自然ではないのはそうして一緒に帰る動機だけで、それ以外は全て不自然だといって差し支えない状況だった。


 街道を歩く俺たち二人の距離は常にバラバラだった。なんなら立ち位置も違う。俺が3歩先を歩いていたと思っていたら、彼女がいつの間にか2歩ほど前に出て、気が付くと斜め後ろに4歩くらい離れたところを歩いている。そんな感じで、とても一緒に帰っているとは思えない奇妙な行動をずっと繰り返していた。こんな調子なので、男ができるだけ車道側を歩くというマナーを守るのも大変だった。


 また、俺も彼女もただ俯きがちに歩くだけで会話の一つもなかった。図書室での空気をそのまま引き摺り、気まずい沈黙の中でただただ帰り道を歩いているだけ。偶然帰路が一緒だっただけの赤の他人同士の方が、まだいい空気を吸えたのは間違いない。それでも、その気まずい沈黙と不自然な距離感が、俺たちの関係がそうではないということを証明していた。


 そして、そんな関係なのに一緒に帰っているという事実自体が、不自然の塊だった。


 図書室での幕引きは中途半端だった。ちゃんと終わりの話をしないといけない。お互いにそのことを共有している感覚はあった。不自然に距離を取るような歩き方をして、互いに一言も話さないようにしておいて、何度も彼女とは目が合ってしまっていた。


 常識なんて無視して、彼女を置いて帰ればいい。もう自分がそんな人間だということは、曝け出してしまった。

 遠慮なんてしないで、夜の闇に消えてしまえばいい。もう彼女がそんな人間だと、晒されてしまった。


 そうすればいいのに、互いにそんなことはしない。結局、何もかもが中途半端なままだ。図書室での話だけでなく、俺たちの関係もずっとそうだった。


 あの日、図書室で出会って、互いの秘密を握り合っていると思っていた。他人には話せない、自分たちだけの秘密を共有しているものだと信じていた。


 けれど本当は、互いに嘘を吐き、罪を隠し、裏切り合っているだけの関係だった。


 彼女を責めることはできない。俺も嘘を吐いて裏切っていたから。

 罪の軽重に意味はない。そんなものを量ったところで誰も救われることはない。


 どちらも悪くて、どちらも救われない、中途半端な二人。


 それでも、その中途半端な関係なりに、俺たちは何かを積み上げていたはずだった。互いに心地の良い距離を知っていたはずだった。なのに、今はそれを思い出すことができない。あったはずのものは、幽霊のように消えてなくなってしまっていた。


 結局、彼女のマンションの前まで、俺たち無言で中途半端な距離感のまま歩いてきた。


 近くにはいつかの夜、彼女と語り合った公園が見える。5月の頭、バイト先で偶然出会った彼女と僅かな時間を共に過ごした場所。どんな話をしたのか、もう思い出せないけど、楽しかったという思い出だけは浮かんでくる。


 あのときよりは早い時間だが、辺りに人の姿は見えない。話の続きをするのならば、ここでもいいのではないかと、ふと思ってしまう。


 早川さんの方に視線を向けると、彼女はマンションの入り口に突っ立ったまま、俺と同じように小さな公園を見つめていた。何を思っているのか、考えているのかは分からないけど、俺と同じことを考えているんじゃないかと、どうしても思ってしまう。


「……じゃあな」


 そんな考えを振り払うように目を背けて、簡素な別れの言葉を口にした。何も会話をせずにここまできたのに、別れるときだけは話しかけるなんて、いくらなんでも不自然過ぎてさすがに笑えてきた。


 公園に足を踏み入れようとしたとき、背後から誰かが何かを言おうとした気配を感じたけど、足を止めずに進んでいく。結局、呼び止める声も別れの声も聞こえずに、そこを通り抜けて自分が住んでいるマンションへと辿り着いた。


 エレベーターに入り、目的の階が書かれた番号を押して扉を閉める。少しずつ増えていく数字を何も考えずに眺めていた。


 1分もせずに再び開かれた扉から、ワンテンポ遅れて外に出る。そして、この1年ですっかり馴染んでしまった部屋の扉を開けた。


「おかえり、おにぃ。遅かったね」


 玄関には、いつものお下げにピンクのリボンを着けた優姫の姿があった。長袖の黒と白と基調としたワンピースの上にライトグリーンのエプロンを着ている。料理途中のようだと思っただけで、それ以上の頭は回らなかった。


「あんまりにも遅かったから迎えに行くところだったよ。早川先輩との話はどうなったの?」


 言われてようやく、こんな格好の優姫が玄関にいるのはおかしいという事実に気が付く。そもそもいつ帰るかの連絡を入れた覚えがないのだから、迎え入れる準備なんてできるわけがない。今から外に出ようとしていたところだと、すぐに考えつかなければならなかった。


「……何かあったかな?」


 そんな有様なので様子が変なことはあっさりと見破られてしまう。眉尻を下げ、困ったような呆れたような優しい笑みを浮かべられる。


「……別に」


 だけど、優姫の顔を見るのも怖くて、すぐに目を逸らしてそんなことを口にしてしまう。嘘を吐くにしてももっとマシな態度があるだろうに、取り繕うことすら行わない。これでは何かあったことを察して欲しがっている子供のようだ。自分の幼稚さが嫌になってくる。


「ま、とりあえず、帰ってきたならご飯食べよ。話は後で聞くからさ」


 優姫はそんな俺の態度を歯牙にもかけず、歩み寄って俺の右手を小さな両手で包み込んできた。さっきまで水に晒されていたのか、彼女の手は冷たく湿気を含んでいる。だが、そのおかげで自分の手に熱がこもっていることが分かり、湧き上がってくるナニかがあることに気付く。


「……優姫」


 抱きしめたい、と思ってしまった。

 こんなときなのに――こんなときだからこそ、彼女を抱きしめたい。甘えてしまいたい。

 傷つけるだけで傷つけて、なのに傍にいてくれる彼女に対して、それ以上のことを求めようとする自分に対して嫌気が差す。どこまで堕ちてしまえば、何も考えずに済むようになるだろうかと夢想してしまう。


「そんな顔しない。お腹が空いたまま考えたって碌なことにならないよ。だからほら、さっさと靴を脱ぐ」


 けれど、優姫はそんな俺の自己嫌悪を察しているのかいないのかよく分からない態度で、ぐいぐいと手を引っ張ってきた。体勢を崩して転びかける。


「や、やめろって、マジで転ぶから!」

「転ばそうとしてるからね。ほら、ハンバーグ温め直しておくから、早く靴脱いで着替えてきなさい。それとも、妹に手伝ってほしいのかな?」

「そんなもんは手伝わなくていい。分かったから、とりあえず手を離してくれ」


 俺がそう言うと、優姫は素直にパッと両手を離した。少しだけ名残惜しくはあったものの、変なことをされたせいでこのまま立ち止まっていたい気分ではなくなってしまった。

 きっとこれも優姫の優しさなのだろう。だけど、そのことを認めてしまってはまた甘えて立ち止まってしまうから、気付かないフリをした。


「じゃ、私は先に行くよ。お腹空いてるんだから、できるだけ早く来てね~」


 そう言ってパタパタと駆け去っていく優姫を見送りながら、俺もようやく自身の空腹を感じ取るのだった。


 *


 今日の夕食のメインは、優姫のお手製のハンバーグにとろけたチーズを乗せたものだった。おそらく当初は乗せるつもりのなかったチーズだろう、なぜならばハンバーグの中にもチーズが入っていたからだ。優姫は本当にお腹が減っていたから乗せたと言っていたが、なんか別に一品追加するなりした方がよかったんじゃないかと思ってしまう。とても美味しかったので、文句があるわけではない。


 食後の片付けはいつも通り俺がやる。優姫の言うように、お腹の空いたまま考えても碌なことが思い浮かばなかったのに、満腹になっただけで気分はかなり落ち着いてきていた。この後に放課後の話をするのは気が重いが、こうして皿を洗いながら話をまとめることができるくらいには思考も回りだしている。もちろん、考え事をしているからといって手を抜くわけにはいかない。いつものように、綺麗に汚れを落としておいた。


 片付けを終えると、優姫は二人分のお茶を淹れて待っていてくれていた。再び彼女の正面の椅子に腰を下ろし、覚悟を持って今日あったことを包み隠さずに話す。元々話さなければならないとは思っていたし、俺が優姫に隠し事をするわけにもいかない。それでも、何かを隠さなくてもいいと思えたのは、優姫との間に積み上げてきたものを再確認できたからであろう。


「……そっかぁ。話しちゃったかぁ」


 そうして全てを聞き終えた優姫は、はああぁ、と大きくて長いため息を吐いていた。


「これは面倒なことになりますなぁ。いやホント、明日からどうしよう」

「……悪い。考えなしに話してしまって」


 全部話している最中にも謝罪はしていたが、改めて謝っておく。実の兄に襲われかけたなんて話が知られるのは優姫にとってもよくないことだと分かっていたのに、あのときはそんなことすら見えなくなってしまっていた。本当に自分は、過ちと後悔を繰り返してばかりだ。


「ホントだよ。おにぃが虐待されてたって話が知られたら、私まで疑われるだろうし。ってか、おにぃが早川先輩と付き合ってることになってるから、そこを男子に狙われそうなのも嫌だなぁ。うーん……いや、ガチで困るな、これ……」


 だが優姫は、俺が気にしているところとは全然違うところで困っている様子を見せていた。しかも、割と本気でどうしようか悩んでる感じだ。


「……優姫、やっちゃった俺が言うのもなんだけど、気にするところってそこなの?」

「そりゃそうでしょ。清楚系ブラコンでアピールしてたのに、いきなりその両方が崩されるんだから気になるに決まってるって。というか、なんか今日も変な目向けられていた気がするし、すでに知ってる人もいそうだなぁ……」


「いや、早川先輩との仲を認めないって方向なら、ブラコン路線はいけるか……?」などと言いだしている優姫は、本当にそこが一番気掛かりのようだった。覚悟を決めて全部話したのに、なぜかこちらが困惑してしまう。


「……もしかして、他に気にしてほしいところとかあった?」


 そんな俺の態度を見て、意地悪そうな笑みを彼女は浮かべてくる。


「別に気にしてほしいとかじゃないけど……その、優姫にとっても知られたくないのは、あのことだと思ってたから」

「それはそうだね。でもまあ、早川先輩しか知らないならそっちはなんとでもなりそうだし。私としては、今気にするべきなのはどうしても学校の評判の方になるよ」

「……信頼してるんだな」


 仲良さそうにしてはいたものの、こんな秘密を知られても大丈夫だと考えるほどだとは思っていなかった。本当に意外だったので、思わずそう零してしまう。


「信頼はしてないよ。こっちも弱みを握ってるから、迂闊には漏らせないだろうなって思ってるだけ」


 だが俺の見当違いな感慨を、優姫は冷徹に一蹴する。


「まあ、やけになってバラすみたいなことはあるだろうけど、そんなリスクはいつでもあるからね。というか、今日おにぃがしたようなもんだし」

「ご、ごめん……」

「ホントに反省してよ? いくらおにぃが早川先輩の方が大切だって思ってても、私のことを忘れられちゃ困るんだから」


 またも大きなため息を吐きながら言われたことが、あまりにも予想外過ぎて「え」という掠れた声を出してしまった。


「なんで驚いてるの? 偽恋人の件は私も了承してたからいいけど、EDや虐待のことを周りに話したら私にも迷惑かかるって、ちょっと考えればおにぃにも分かるでしょ? なのに、早川先輩を助けるために言っちゃったんだから、私より先輩のことを優先したんじゃないの?」


 そこまで言われてようやく、もっと前から自分がミスをしていたことに気付いた。


 あのとき、早川さんを助けることばかり考えていたから優姫のことを考える余裕などなかった。目の前にある問題に集中してしまって他を疎かにすることなんてよくある話ではあるが、それでも俺が優姫を最優先にしなかった、という事実はあまりにも重い。


 いつも、いつだって、俺は優姫が一番大切でなければならないはずなのに。


「そ、そういうわけじゃない。早川さんを助けることで精一杯だっただけで、優姫のことを考えてなかったわけじゃないんだ。だから」

「なに、別に責めてるわけじゃないよ? そんな嘘吐かなくても大丈夫だって、安心して」


 罪悪感からつい目を逸らして言い訳してしまっていると、優姫は意地の悪い感じでくすくすと笑いながらあっさり嘘を見破ってきた。彼女の前で嘘を吐いて上手くいった試しなんてほとんどないのに、どうしてまたこんなことをしてしまうのか。自分の学習能力のなさに辟易してしまう。


「以前も言ったかもだけど、妹としては私以外の信頼できる誰かができたこと自体は嬉しいからね。私も早川先輩のことは結構好きだし、おにぃが先輩を信頼しても文句なんてあるわけないじゃん」

「信頼は……してたんだろう、な」


 前に似たような会話をしたときは適当に誤魔化して否定した気がするが、今回はそうすることはできなかった。


 早川さんのことを悪い人だと思わなかったのは間違いのない事実だ。いつの間にか俺は、彼女のことを疑わなくなっていた。違和感に気付いてないわけでもないのに、大したことではないと目を逸らすことだけは上手くなっていた。


 俺の勘違い、思い込み、そう言ってしまうのが正しいと理性では分かっているのに、どうしても裏切られたという想いを抱いてしまう。話そうとしなかったのは事実だとしても、同じことをしていた俺に責める権利などない。そこまで理解できているのに、信頼を裏切られたと考えてしまう。


 だからきっと、俺は心から彼女に信頼を寄せてしまっていたのだろう。


「だろうね。一番の弱みを握ってるから、もう隠し事なんてないだろうって信頼しちゃったんだよね」


 しかし優姫は、信頼とは呼べない歪んだ何かを見逃さない。


「まー、考えてみれば、おにぃがそうなってもしょうがないんだよね。いきなりみんなから隠れて露出してるところを見ちゃったんだもん。そんな秘密を握っていれば裏切られないだろうって、お爺ちゃんたちも未だに疑ってるおにぃが安心しちゃうのもしょうがない」

「……爺ちゃんと婆ちゃんは、俺も信頼してるよ」

「でも、私にしようとしたことを理解されないとは思ってるよね?」


 図星を突かれて答えに窮する。


「どんな風に言われるにしても、気持ちを理解されるとは思ってないでしょ?」

「……そうだな。否定はしない」


 考えたことがないわけじゃない。二人に話してしまえば楽になれる、そんなことはすぐに思いついていたことだ。そして、それをしてしまえば優姫も傷つけると言い訳して、ずっと二人には隠し通してきた。


 本当は気付いている。俺の知っている二人なら、きっと頭ごなしの否定はしない。俺たちの事情を最初から知っているんだ、どこかで歪みが生まれていることなんて覚悟して受け入れていると思っている。


 でもそれは、俺の知ってるものが二人の全てだった場合だ。


 どこかでまだ何か隠しているかもしれない。俺の知らない二人がいるかもしれない。そう考えるだけで、彼らに全てを打ち明けることができなくなる。悪いことではなく、良いことでも隠されてるだけで怖くなる。


 だから俺も、全てを見せることができない。誰とも仲良くなれるなんて、思うことができなかった。


「で、そんなおにぃだから、始めから全裸を晒した早川先輩は逆に信頼できちゃったんだよね。隠さないといけないもの全部見せつけられたら、疑う必要なんてないもん。だからなんだかんだ言いつつも、ずっと協力してきたんでしょ。どう? 何か間違ってた?」


 少しドヤりながら自身の推理を披露する優姫の目を見て、それで合ってると首を振る。


 そんなことを考えながら早川さんと話していたわけではない。だけど、彼女の言う理屈はまさしく俺の心を的確に言い当ててしまっていたから、否定する材料が一切なかった。全部見せてくれていると思っていたから疑わなかっただけという、歪んで捻くれて間違っている信頼関係――それが彼女に抱いていた気持ちの正体だ。


 早川さんと一緒にいるのはさぞ心地よかっただろう。ただの露出行為が、彼女の秘密と思っていたのだから。

 早川さんのことを見ようとするわけがないだろう。もっと酷い秘密があるなんて、考えたくもなかったのだから。


 俺以上に俺のことを見ている優姫は、いつも俺の醜いところを暴いてくれる。


「……なのに、全部の気持ちを知ろうとしないんだよね。知らないものを見つけちゃうのが怖いから」


 ……本当に、よく見ている。

 たった今考えていたことを言い当てられるのは、いくら妹とはいえ怖いところがあった。


「見ちゃいけないものを見ないフリできるほど器用じゃないから、ずっと自分一人で抱え込んじゃうから。最初から、見ない方がいいんだよね?」


 ああ、その通りだ。これに関しては爺ちゃんや婆ちゃん、早川さんだけではない。優姫に対しても同じ気持ちだ。


 彼女がなぜ露出の低い服を好むのか、過去のことをどう思っているのか、俺は本気で聞きだしたことがない。


 ……どうして離れて暮らそうとした俺のところに来たのかさえ、聞けていない。


 これ以上優姫に俺の性処理やらせるのが心苦しくて、養父母から見て不自然ではなく、尚且つ一人暮らしできるような学校としてここを選んだのに、当然のように彼女は付いてきてしまった。兄離れするいい機会だという理由付けがあったにもかかわらずに、だ。


 彼女だって、こんなことをするのは嫌なはずなのに。


「……というわけで、そんなおにぃに対して優姫ちゃんもちょっと本音を話そうと思います」


 そんな風に物思いに耽っていると、いきなり優姫がよく分からないことを言い出した。


「え、なに突然。話の流れが見えないんだけど」

「本音を見ようとしないおにぃには、こっちから本音を見せてやるしかないと、今更ながら優姫ちゃんは悟ったわけです。覚悟して聞くように」


 覚悟をしろと言われても、いきなりの流れでそんなものができるわけがない。何の覚悟もなく、おろおろしたまま話を聞く羽目になった。


「……私はおにぃの性欲処理するの、別に嫌じゃないよ」


 出てきた言葉は、覚悟をして聞いていても虚を突かれるものだった。


「正直、介護みたいなものなんだよね。遠い将来の予行演習というか、まあそんな感じなんで気にされ過ぎる方が気になるんだよ。むしろ少し楽しいまである、兄とはいえおにぃはイケメンだからさ。そんな人が気持ちよさそうな顔を見せるの、ちょっとかわいい」


 少しだけ頬を赤く染めてはにかむ優姫に、こちらがかわいいという感情を抱いてドキリとしてしまう。同時に、下腹部にナニかが溜まる感覚があった。


 介護みたいというのは言い得て妙だと思った。実際にしたことがあるわけではないので想像でしかないけど、下の世話をするという点では同じだと言えるかもしれない。もっと言うなら、赤ちゃんのオムツを変えたりするのとも似ているのではないだろうか。どうしても汚れたものが出るのは仕方なくて、そしてその人のためになるのなら、手助けをするのは当たり前という感覚。それならば、俺にも分かるところがないわけではない。


「……そう言ってくれるのはありがたいけど、変に気遣わなくても大丈夫だ。汚いものに触れたり舐めたりするの、いくら家族とはいえいい気はしないものだろ」


 だが、それでも仕方なくやることであり、やらなくて済むならその方がいいことだ。


 俺自身、汚れたところが綺麗になっていくのは好きでも、汚れているという事実を歓迎しているわけじゃない。初めから綺麗なら、そっちの方がいいに決まっている。どうしても出る汚れも、他人のものなら他人がやってほしいと考えている。


 多分俺だけじゃなくて多くの人がそう考えるであろうから、当たり前のことを言ったつもりだった。しかし俺の言葉を聞いた優姫は、肩を落としながら3秒くらいの長いため息を吐いてきた。


「ほら、そうやってまたこっちの本音を見ないようにする。ってか、ホントに嫌なら触るだけにして、舐めたり咥えたりなんかしないと思うけど?」

「それは……それも気遣いだろ。俺が口でされる方が好きだって、優姫は知っているから」

「知ってても本当にやるかどうかは、また別の話だと思うけどねー。ま、今はそこを話したいわけじゃないから置いとくか」


 はぁ、と今度は諦めたようなため息を吐かれる。


「とにかく、そういうとこだよ。私が何を言っても、おにぃは本音として受け取ってくれない。悔しいけど、もう私じゃ無理なんだよ」


 諦観と後悔の入り交じった声を聞かされ、俺の胸にも後悔の念が紛れ込む。


 あの何かが壊れた音がしたときから、優姫の言葉にも裏を見てしまうようになっていた。もちろん、全部の言葉を見ようとしているわけじゃない。ただ、俺のことを想うような言葉を聞くたびに、どうしてもそれを素直に受け取ることができなくなってしまった。


 あんなことをした俺をただ許してくれるわけがない。憐れみか恐れかは分からないけど、本物の想いで接してくれているわけがない。そんな風にしか、もう優姫の言葉を受け取れない。


 無自覚に分かっていたことを、今言葉にされて自覚してしまった。きっとこれからは、このことについてもずっと後悔していく。


「……だから、今おにぃがちゃんと見てあげることができるのは、早川先輩だけなんだ」


 寂しそうに、優姫はそう言った。


「最初から全部見せてくれないと信頼できないおにぃに、事故とはいえ偶然全部見せてくれたのが早川先輩。……事故や偶然だから、むしろよかったのかな? 頭で考えた言葉を聞かされたって、おにぃは多分見ようとしない。後から見せられたものは信用できない。おにぃはそんな人間だったってことだね」

「……めんどくさすぎるな、俺。最初から隠し事なしで付き合わないといけないのに、後から見せられたものは信用しないとか。第一印象が全てすぎるだろ」

「そうだよ? しかも、秘密を知りたいくせに見ようとしないからね。見たところで自分の好きなように捩じ曲げるオマケつき」


 なんとまあ、めんどくさい人間なのだろうか。自分自身に呆れて苦笑いが出る。


 こうして俺という存在を優姫に暴かれるたびに、どうしようもない人間性に気付かされる。他人のことを信頼できないから、最初から全部知っておかなければ人付き合いなどしない。他人のことを信頼できないから、後から聞かされた秘密をなかったことにする。自分自身さえ信頼できないから、他人に俺のことを話したくない。


 誰かと仲良くなりたいとは思っているけど、始めから誰とも仲良くする気なんてなかった。


「でも、早川先輩だけは例外。先輩が昔イジメをしてたって話も、聞きたくないのにちゃんと聞いたよね」


 そんな誰かが、現れるとも思ってなかった。


「……優姫はあの話、信じてるのか?」

「おにぃから聞かされただけだから、なんとも言えないところはあるね。そこまで凝った作り話しないでしょとは思うけど、凝った設定の偽カレシを作ろうとしてたって前科はあるからなー。ただ、今までの早川先輩を見てたら、おにぃが嫌になって嘘を吐いたというよりも、おにぃに申し訳ないから離れたいって思う方が自然だから、多分本当にイジメてたんだろうなって考えてるかな」


 どうやら優姫から見ても、彼女の過去は嘘ではないように感じるようだった。客観的に見ても、ここまで自分を貶める嘘を吐く理由がなさすぎるから、始めから分かっていたことではあるが。


「……聞くことはできても、受け入れることはできてないんだね」


 そして、また出ようとした俺の悪癖を、優姫は見逃さない。


「まー、それも仕方ない。何かあるとは思ってたけど、まさか加害者側だったなんて私も考えてなかったからね。私より早川先輩に近かったおにぃがショックを受けるのも間違ってないよ」


 フォローなのかなんなのかよく分からないことを言われるが、これはさすがに意識して素直に受け取らなかった。


 何かあるということ自体は俺も分かっていた。違和感なら何度も覚えていた。そのたびに気のせいだと思うだけならまだしも、それが俺にとって都合が悪いことだなんて微塵も考えてなかった。


『わたしが悪い人だなんて発想、絶対にしないよね』


 僅か1ヶ月の付き合いの早川さんにさえ、そんなことを見破られるくらい俺の目は曇ってしまっていたのだ。


 それこそ、彼女こそがイジメの被害者だという傷を勝手に作ってしまうくらいに。


 仮に本当に被害者だったとしても、イジメの程度に付いて何も語っていないのだから、強いトラウマがあるなどと決めつけてしまう理由などなかったのに、そんな想像すら無意識にしていなかった。俺の都合のいいように見てしまっていた。


 俺はそうして、早川さんからも目を逸らそうとしていた。


 でも、彼女が見せてきたものから、目を逸らすことができなかった。


 彼女のことは――彼女だけは、ちゃんと見てあげたいから。


「……どうしたいんだろうな、俺は」


 結局のところ、そんな疑問に行き着いてしまう。


 早川さんの過去を聞いて、自分の罪を晒してしまう行為が意味不明なのは、何度考えても変わらない。そんなことをしようと思った理由が分からない。自分で自分のことが分からない人間に、自分の行動が理解できるわけでもない。


 それでも、今は知らないといけない。

 俺と彼女の関係をどうしたいのか、考えないとダメだ。


 だから俺は、俺より俺に詳しい妹に、情けなく祈り縋る気持ちでそう尋ねていた。


「え、知らんよ、そんなん。おにぃがどうしたいのかなんて、分かるわけないじゃん」


 だというのに、俺の妹は『何言ってんのこいつ? 馬鹿なの?』という目でこちらを見てくるだけだった。


「いや、そんな顔されても本当に知らんよ。私だって、筋が通ってることならおにぃならこう考えたんだろうなーってのはなんとなく分かっても、筋の通ってないことまで分かるわけないって。ってか逆に聞きたい、なんでやけになってそんなことバラしたの?」

「それが分かっていれば、こうして頭を抱えてないんだよなぁ……」


 ガチで頭を抱えながら零してしまう。俺にも優姫にも分からなかったら、この謎は迷宮入り確定じゃないですかね。


「しいて言うなら、意味不明な行動をしてでも何かを避けたとかそんなんじゃない? もしくは欲しがったか、嫌がったか、えーっと、見たがったとか?」


 適当極まりない回答だが、一応考えはしてくれているみたいだ。もっとも、聞いたところでまるで要領を得なくて何も分からないのだが。


「……そもそも根本的な話で、おにぃは早川先輩とこれ以上一緒にいたいの?」


 これ以上このことについて考えても結論は出ないと割り切ったようで、優姫は考えるべきことそのものを変えてきた。


「……それは」


 問いに答えようと顔を上げ、姿勢を正す。しかし、俺はその疑問についても回答を持ち合わせていなかった。


 ぎこちないまま見なかったフリをしてでも関係を続けるか、それとも綺麗さっぱりなかったことにしてしまうか、いっそのこともっと踏み込んでしまうのか。


 今日の帰り道と同じように、彼女との距離は中途半端な気持ちのままだ。


「言い淀んでるってことは、少なくとも離れたいってわけじゃないみたいだね」


 けれど、そんな沈黙でさえ彼女には十分な回答だったようだ。


「……どうしてそう言い切れるんだ」

「簡単じゃない? 昔から嫌なことがある家に帰りたがらなかったし、どうでもいい人間とは露骨に距離取るし。でも本気で嫌じゃない相手だと、中途半端に距離を取るんだよね。どこか遠くに行ったりせずに、ギリギリ実家から通える高校に通ったりとかね」


 そう言われてしまうと、思い当たる節しかなくて何も返せない。


「だから、本音では早川先輩とまだ仲良くしてたいんだと思うよ。……私からすると、素直にそのまま仲直りしちゃったらいいんじゃないって考えるけど」

「……そんな簡単な話じゃないだろ」


 たとえ俺の本音がそうだとしても、理性と感情はそれを許してくれない。


「イジメの話を聞いて、何も思わないわけがない。彼女と一緒にいることが正しいのかどうかから、ちゃんと考えないとダメだ」


 無意味に、無自覚に、他者を傷つける。友達だと、大切な人だと思っていた相手を見ずに、決して消えない傷を残す。


 そんなこと、認めるわけにはいかない。


 俺が罪を裁くわけでも許しを与えてやるでもないが、人として、今までの人生を振り返って、彼女の罪を認めてしまうのは抵抗がある。


 それは、決して許したくはない誰かを許すことを意味するのではないかと、考えてしまうから。


 くだらない意地であり、どうでもいい感傷であり、考え過ぎの自意識過剰だ。彼女から離れるための理屈作りでもあるかもしれない。


 だけど、たとえそうであったとしても、俺は彼女の罪を許すことができない。


「実の妹に欲情する人が、倫理観を持ち出してもねぇ」


 そして俺のそんなくだらない話を、優姫は予想通りくだらないと鼻で笑った。


「そんな人間だからこそだろ。俺は優姫に絶対してはいけないことをした。取り消すことはできなくても、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。腐った倫理観の持ち主だからこそ、せめて外面は取り繕う必要があるはずだ」

「それを早川先輩にする必要ある? 私にだけしてれば十分じゃない?」

「……ないさ。だけど、こういうことは一つ認めると、あれもこれもと認めてしまうものだ。ちょっとしたことでも気が付いたら大きくなるのに、いきなり他人を自殺に追い込むような罪を認めることなんてできるわけがないだろ」


 他人に言われるまでもなく、意志薄弱な自覚はある。優しくて甘いと、彼女にも言われた。


 だからこそ、ちゃんと意志を持って否定しなければならない。彼女は決してしてはならないことをした。過ちであると認めないといけない。


 目を逸らすのは、終わりにしないといけない。


「……本当にそれでいいの?」

「ああ」


 厳しい目で確認してくる優姫に、俺は頷き返す。

 彼女の罪と共にいることなど、俺にはできない。



「今も早川先輩がイジメをやってるとか、考えもしないの?」



 また、脳を取り出されたかと思った。


 存在しないと想い込んでいたことを、再度思い知らされてしまった。


「……やっぱりおにぃ、早川先輩のことが大好きじゃん」


 言葉を失った俺の反応を見て、優姫は呆れたように軽く笑う。


「私たちが見てる範囲だと、もう早川先輩がイジメなんてやってないと思う方が自然だよ。でもね、前科があるのに同じことを繰り返さないって、普通は思わないんだよね。話を聞いただけの私は、いつかどこかでまたやるんじゃないかって、ちょっと疑っちゃってるもん」


 それは、そうだ。前科がある俺は、今も繰り返して優姫を穢している。


「だから、そんなことを疑いもしないくらい、早川先輩のことをおにぃは好きなんだと思う。……あ、一応言っておくとライクの方ね? 別にラブでもいいっちゃいいけど、この場合は人間として好きって意味だし」

「……そう、なんだろうな」


 二度も早川さんのことを疑えなかったとなると、それはもう認めるしかないのだろう。


 俺は、彼女のことが好きだ。


 とてもかわいくて綺麗だけど、趣味が露出の変態で、過去に人を自殺未遂にまで追い込んだ経験がある女の子のことが、好きなんだ。


「……ははっ」


 乾いた笑いが漏れる。自分自身に呆れて、笑うしかなかった。


 ずっと目を逸らしていると思っていた。正しい見方を知っているのに、俺が歪んで捻くれて間違っているから、目を逸らしてしまうんだと思っていた。


 本当はそうじゃなくて、歪んで捻くれて間違っている見方しか知らないことから、目を逸らしていたんだ。


 最初から、俺が見てきたものは全部間違っていた。俺の中に正しいものなんてなかった。


 だって、それが分かっても、彼女のことをって思うから。


「……私ね、これが最初で最後の機会なんじゃないかって思うんだ」


 唐突に、優姫はそんなことを話し出す。


「おにぃの壁を取っ払う最後のチャンス。おにぃはめんどくさいからさ、最初から全部見たと思わないと何も信じようとしない。理解されないと思っちゃう。でも、ただの偶然でも早川先輩はそこを乗り越えてきた」


 そう、ただの偶然だ。俺が迷って、あの図書室に辿り着いたという偶然で、出会ってしまった。


「こんなことは多分、もう二度とない。未来のことは分からないから断言はできないけど、変質者と遭ってその人と意気投合するなんて、もう一度ある方が珍しいのは分かるよ」


 それもそうだろう。俺だってそんな人間、彼女一人だけで十分だ。


「でもおにぃはそんな相手でも、自分の理想と違ったら結局すぐに離れようとしちゃう。どれだけ仲が良くたって……距離を置いちゃう」


 胸が痛む。かつて理想を全て押し付けていた女の子から、そう言われてしまうことに。


「……だけど、理想と違ってもまだ彼女のことを信じて、好きなら」


 彼女は言う。寂しげで、悲しそうで、優しい微笑みを湛えて。


「――きっと、その人のことを、おにぃはずっと見ていたいんじゃないかな」


 俺が本当にみていたかったものは、そこにある、と。


「……ああ、そうなんだろうな」


 ありのままに全てを見ることは難しい。いつだって俺は、歪んだ眼差しで、捻くれた目線で、間違った想いでこの世界を見てきた。今だってきっと、人を、自分を、ありのままになんて見れていない。


 そんな人間の見えたものが、正しいなんてわけがない。目を逸らしたいくらい醜いものも、ずっと見ていたい綺麗なものも、自分がそう思い込んでいるだけの幻覚だ。


 そう、俺が見ていたいものは自分にとって都合のいい幻だけ。


「ずっと、あいつのことを見ていたからな」


 だから、俺の望みは、願いはそれなんだ。


 綺麗な彼女の醜いところを見ても、まだ綺麗だって思うから。


 この感情に色々な言葉を、名前を、理由を与えられるだろう。でもそれは全部後付けの、目を逸らした先にあるものだ。


 ありのままを見れない目で見て、それでも歪んで捻くれて間違っていられるなら。


 見続けて得たこの答えだけは、もう


「……ま、おにぃが何を思ったところで、人間関係ってのは一人だけでは決められないわけですが」


 優姫は俺の様子を見て、またも意地悪くそんなことを言ってくる。


「先輩から一緒にいたくないって言われたらお終いだし。その辺考えてる? ストーカーになったりしない?」

「ならねぇよ、犯罪は色んな意味でもう十分だ。ちゃんと自分で考えるから安心しろ」


 冗談めかして言うが、しかし大事なことではある。俺個人のこだわりだけなら、もうこれで解決したと言ってもいいが、この話には相手の存在がある。一人で満足して終わりにしてはならない。


 関係を最初に終わらせようとしたのは、彼女だ。おそらく、俺への後ろめたさと自身への罪悪感を理由にして。


 その後に自分の気持ちを理解できずにやらかした男がいたため、今現在の彼女がどう考えているのかは分からないが、何事もなく話が付くとは思わない方がいいだろう。多分、あいつもだいぶめんどくさいやつだからな。


 俺はまだ、この関係を終わらせたくはない。

 その気持ちを今度はちゃんと、見せてやらないといけない。


「……うん、自分で考えなよ。それでフラれたら、私が慰めてやるからさ。安心しな、おにぃ。最悪、兄妹二人で閉じた幸福の中、爛れた関係を築いて生きていくって手もあるぜ?」

「ハハハ、シャレになってねー。……でもまあ、そうなったときは頼むわ」


 真面目な話をし続けた反動か、とんでもないブラックジョークを言われてしまった。妹相手にしか勃起しない兄に言うことではない。

 まあ、景気付けのために言ったという意図くらいは読めるので、こっちも素直に頼むつもりで返してやる。失敗する気はないが、そうなったときでも俺のことを見てくれる誰かがいてくれるというのは、やっぱり安心できた。


「……えっ、あ……うん……」


 が、なぜかそれを聞いた優姫は頬を赤く染めてそっぽを向き、右手の人差し指でくるくるとお下げを巻きだしていた。


「……そこで照れないでもらえる? 素直に答えた俺も恥ずかしいんだけど」

「うぇっ、いやっ、そこまで素直に返ってくるとは思わないでしょ!? よくてドン引き、悪くてめっちゃ凹まれるくらいのつもりだったんだよ!?」

「そのレベルのつもりだったのかよ、ブラックより性質の悪いジョークを言うな。ってか、素直になれって、超遠回しに言ってきたのお前だろ……」


 ずいぶん長々と話してしまったが、超適当に要約するとこれである。それを言うためだけにこんなに話したのかこの妹は、話下手か? などと思わないでほしい。どう考えても素直になれと言われて簡単に素直にならない俺が悪いので。


「それは、そう、だけど……」


 そう言いながら未だに照れてお下げを巻けるだけ巻いていた優姫は、突如ハッとした顔をして巻くのをやめて俺の顔を見る。そして、すぐに目を瞑って何度か頷きながら、何かを考えているようだった。何してるんだこいつ、かわいいけど意味分からんぞ。


「……ま、素直になるっていうなら、一つ私からも手助けしてやりましょう」


 やがて再び目を開いてこちらを見た優姫は、にやぁ、と妖しげな笑みを浮かべながら言う。


「私も、早川先輩とはもっと色々お話したいからね。テスト勉強とかお菓子作りの約束もあるし、そのとき兄と先輩が気まずい関係だと私まで気まずくなる。だから、上手くやってよ?」

「ああ……分かった、がんばるよ」


 今度はさっきと違って真っ当な応援だった。優姫のためという理由は、俺のモチベーションにもなるし、話のきっかけにも使える。素直にならなくてもシスコンなんだから、妹のためなら無限にがんばれてしまう。


「じゃ、そろそろ風呂にでも入るか。優姫、お茶ありがとう。それとハンバーグ、美味しかったよ」


 話している最中に一口も飲まなかったせいで、すっかり温くなった麦茶を一気に飲み干す。椅子から立ち上がり、優姫の分のコップも流し台に持って行って洗おうとした。


「いいよ、おにぃ。それくらいなら私が洗っておくから。先にお風呂入っても大丈夫」

「そうか? なら任せた」


 風呂の順番は特に決めたわけではないが、バイトがないときは俺が先に入ることが多い。洗い物は基本俺の仕事だが、コップ2つ分くらい大した手間でもないし、特に気にせずに任せてしまうことにしよう。


「……でもその前に、考え事するならスッキリしてた方がよくない?」


 俺の目に留まるように優姫は親指と人差し指でOKサインを作ると、それをリズムよく前後に動かした。その手の本もビデオも見ないし、子供の頃の記憶はもっときつかったものばかり印象に残っていたので、一瞬その意味が分からなかった。だが、彼女の浮かべるいやらしい笑みを見て、何を言いたいのか察する。


 優姫の方から性処理の提案をしてくることがないわけではなかった。しかしそれは、間が空いたから気遣いで言い出すときか、優姫の都合で間が空きそうなときに言われるだけのものばかりだった。こんな風に直接誘惑するような形でされたことはない。


 ゴクリと生唾を飲み込む音に、下腹部に血流が溜まる感覚。同時に、胸の奥の方でチクリと痛みが走った。


 ……正直な話をすれば、優姫にこういう行為をされることは嫌いではない。罪悪感でいつも死にたくなってはいるが、簡単に快楽に抗えるようには人間はできていない。そして、人間を失格している人間である俺も、生物学的には人間であることは間違っていなかった。


 素直になると決めたのならば、こんな間違った感情も受け入れるべきなのだろうか。人を自殺するところまで追い詰めた女子とこれからも付き合おうというのだから、この程度の倫理観は無視してもいいのではないか。


 ……ただまあ、今回の場合はそんなに悩む理由もない。


「……サンキュ。でも大丈夫だ、どっちかっていうと俺は悶々としながら考える方が性に合ってるからな」


 単純に、考え事するときはある程度のストレスが欲しいタイプだった。過度なストレスは当然逆効果だし、スッキリしてからの方が頭も回ることが多いのは分かっているけど、どうも開き直りみたいな結論になりがちなことに気付いて以来、どうしても煮詰まったとき以外は先に考えるだけ考えるようになっていた。リラックス目的なら掃除をするか、それこそ風呂に入るくらいがちょうどいい感じだ。


 なので、今回は好意だけをありがたく受け取っておくことにする。早川さんとのことがどうにもならないくらい拗れてきたら、どうせ頼る羽目になるだろうしな。


「そっか。……まあ、一歩前進ってとこかな」


 軽く息を吐いて手を下ろし、優姫はやや残念そうに言う。言い方的に俺の覚悟を試してみたようだが、反応的にギリギリ合格点ってところだろうか。いざとなるとヘタれる兄貴で申し訳ない。


 とはいえ、素直になるのと開き直るのもまた違うものだ。やっぱりこういうのは難しいなと思いつつ、俺は優姫に軽く手を振ってから自室に着替えを取りに行くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る