噓と秘密の告白④
週末の2日間はバイトと部屋の掃除とついでに買い出しをしているうちに過ぎていった。つまり、俺にとってはいつもの通りの休日だ。休みだというのにバイトという労働をしているけど、学生の仕事は勉強だというし、きっと副業をしているということになるのだろう。近頃は副業を推奨している企業も増えていると聞くから、若いうちから体験してたらそのうちいいことあるかもしれない。バイトしてる理由、そんな立派な目的じゃないけど。
とにかく、土日を過ぎて月曜日。いよいよ来週から中間試験が始まるということで、学校の方もそれ相応の空気になってきた。といっても試験準備期間に入るというだけで、中学時代から合わせて5年目となるともう慣れたものではある。それでも、普段はギリギリまで朝練をしているような部活の声が聞こえないとなると、いつもと違う感じでそわそわしてしまっていた。
教室の様子もいつもと違う――というには変化が少ないが、やはり朝練がないためか普段はこの時間に見かけない生徒がいたり、いつも俺より先にいる生徒も暇潰しではなく勉強をしていたりなど、ほんの少しだけど雰囲気が違っている。ホームルームまでの僅かな時間で何ができるのかという話はあるが、そうした僅かな積み重ねの先に試験結果というものが現れるものだ。だったら普段からこのペースで勉強しておけという内なる声に耳を貸さず、俺も英語の単語帳を取り出してホームルームが始まるまで時間を潰すことにした。
「ねー、なんで試験に体育ってないのー? 運動って絶対古文より役立つと思うし、毎回あってもよくなーい?」
「古文やりたくないだけでそんなこと言わないでほしいなー。ワタシは体育が試験になくてよかったって思ってるしー」
「紬も単に運動したくないだけでしょ……芽衣佳、体育なら期末でやるんだから我慢しなさい」
「あれって保健と一緒になってるし、そもそもテストじゃん! そうじゃなくて、試験に100m走あったらよくないって話! ずっと椅子に座ってるのも体に悪いでしょ?」
「そういうテストなら、体育の授業中にちょくちょくやってるじゃない。その上でまだ試験するの?」
「芽衣佳はバカだなー。でも、あーしも英語とか古文やるくらいなら体育で走ってた方がいいかもなー。なんも考えなくていいし」
「……ひーちゃん、そういう試験って多分最終的にマラソンになると思うんだけど、本当にいいの?」
「やっぱなし、体育の試験とか保健体育だけでいいわ。芽衣佳、わがまま言うなよ」
「えー、ウチ、マラソンでもいいから走りたい!」
一方で、早川さんのグループのような試験準備期間中だろうと特に変わらず過ごしている人たちの姿も結構見かける。まだ1週間あるのにもう諦めてしまったのか、それこそ普段の積み重ねによる余裕なのかまでは分からない。ただ、そうした人たちの話題もテストに因んだものが多くなっているので、定期試験というのはなんだかんだで学生生活の一大イベントではあるのだろう。
その後始まったホームルームでも、今日から試験準備期間に入る旨とそれに伴っての部活動とバイトの禁止を告げられ、テスト前最後の1週間の授業が始まる。
授業内容もテスト向けに変わったものとそうでないものに分かれているが、時間割の方は容赦なく変更が加えられ、中間試験にない科目は主要5教科に大体置き換わっていく。例外は体育くらいだが、その体育もテスト勉強のために時短を図られていた。それで作り出された僅かな時間がどれだけ役に立つのか疑問ではあるが、ないよりはあった方がマシだと思っておこう。
いつもと少しだけ違う日常の中でも、流れる時間の長さは変わらない。4時間目の授業が終われば昼休み、勉強をがんばっていた人もそうでない人も一息つく時間だ。この時間にも勉強する人はいるだろうけど、食べなきゃ生きていけないので食事の時間をなくすわけにはいかない。お腹いっぱいで眠くなっても問題だけど、空き過ぎて集中力がなくなるのも問題だ。
俺も昼食のために購買へと向かおうとしたところ、今日も田中さんたちと一緒に行動する早川さんの姿が見えた。また一人で昼休みを過ごすことになりそうだが、テスト勉強をしていれば退屈はしのげるだろう。
何はともあれ、まずは昼飯の確保をしなければならない。特に寄り道などせずに購買にやってきたら、入口で珍しい姿を見かける。
「あ、おにぃだ」
正確には学校で見るのは珍しい姿、妹の優姫だ。こちらが何かする前に気付かれ声をかけられる。
「うっす。パン買いに来たのか? 食堂じゃないんだな」
「食堂使うことの方が多いけど、購買使うこともあるよ。今日は食べながら勉強しようって話になったからね」
そう言いながら両手に持ったパンを見せつけてくる。カツサンドと焼きそばパンだった。女の子らしさが微塵もないが、お腹が減っていたのだろうと気にしないでおく。
優姫と学校で会うのは珍しい。とは言っても普段あれだけ話しまくっているので、会ったところで特に話すこともない。俺もさっさと買いに行くかと中に入ろうとしたところで、
「ユッキーお待たせー! 教室戻って勉強しよ――おお?」
騒がしい購買部の中から、それに負けない声量で優姫に声をかけてきたロングのストレートのギャル風の女子が出てくる。一緒にショートボブで眼鏡をかけた大人しそうな女の子が付いてきており、二人はこちらに気付いて少し驚いた表情を浮かべていた。
「えーっと……あっ、もしかしてユッキーのお兄さんですか? わあ、ホントにかっこいいっ! 写真で見たまんまだ!」
「ゆ、ゆっこ、初対面なのに挨拶もしないのは失礼だよ……」
こちらに駆け寄ってきてキラキラとした目を向けるギャル風女子を眼鏡の子が窘める。言うように失礼な行為ではあるんだろうけど、こんなに楽しそうにされるとなんだか和むので別に嫌ではなかった。
「あ、そうですね! こんにちは、センパイ!」
「えっ……こ、こんにちは……」
「うん、こんにちは。優姫、友達?」
多分眼鏡の子が言った挨拶ってそういう意味じゃないと思うが、その子もなんか押し切られてるし俺がツッコむのも野暮なので、全てスルーして優姫に話を振ることにした。
「そうだよー。これから勉強を教えて教えられる友達」
「そっか。なら、俺からもよろしく頼むよ。優しく教えてあげてな」
とりあえず兄として無難なことを言っておくと、「はい!」「わ、分かりました」と元気な声とおどおどした声で返事をされる。素直に反応してくれると妙に嬉しくなるな。
「……それで優姫、俺の写真友達に見せてんの? なんかさっきそんなこと言ってた気がするんだけど」
「え、そうだよ? イネスタにあげてるから、見ようと思えば全世界の人が見れるけど?」
「ちょっと待て、初耳すぎる。百歩譲って友達に見せるのはいいけど、許可なく人の写真をネットにあげるのはやめてくれない?」
「今の時代にそれくらいで文句言っちゃダメだよ、おにぃ。むしろしない方が不自然まである。どうせ私の友達くらいしか見てないイネスタだし、問題ないない」
SNSに関しては連絡手段用のFINE以外一切やっていないから優姫の言うことが正しいのかは分からないけれど、肖像権の問題とかあるかもしれないから勝手に扱わないでほしい。昨今はそういうのが厳しい時流だって、ネットニュースでたまに見るから気を付けないといけないんだぞ。
「そっちがそう言うのなら今後は一切写真撮らせないからな。何に使うか謎だったから好きにさせてたけど、言うこと聞かないならこっちにも考えがある」
「え、うん、別にいいけど……隠し撮りするし、なんならもう隠し撮りも上げてるし」
「もうやってるの!? ちょっとどころかかなり怖いんだけど!?」
俺の妹がこんなにヤバいやつなわけがない、と思っていたら想像以上にやべーやつで怖くなってきた。なんで兄妹でそんなストーカー染みた真似してんだよ、ブラコンって言ってもほどがあるだろ。シスコンだけどそこまでしないよ、俺。シャレにならないし。
「ほあー……」
そんな風にいつもの調子で優姫と話していると、彼女の友人2人が置いてけぼりにされてぽけーっとした表情でこちらを見ていた。ギャル風の子に至っては謎の擬音を声に出していた。
「と、ごめん。これから勉強するんだったね。優姫を引き留めてたらまずいよな」
「あ、いえいえ! そんな慌てることもないですし、これくらいなら! ただ、本当に仲いいんだなーって思いまして」
「はい……ちょっとそれが興味深くて。じろじろ見てしまってすみません」
今の会話のどこに仲のいい兄妹の要素があったのか理解できないが、どうやら優姫のブラコンアピールの保証にはなったらしい。昔から他人を放置して兄妹だけで盛り上がりがちだから、こっちとしては申し訳ない気持ちのが強かったが、あんまり気にしてなさそうなら特に何か言うこともないか。
「でもいいな、ユッキー。かっこよくて仲のいいお兄さんがいるって羨ましいよー。あたしんとこと大違い」
「ふふふ、いいでしょー? あげないからね?」
「これ以上兄貴はいらないってば。あ、だけどセンパイ、今カノジョさんとかいます? もしよかったら試験が終わった後とか――」
「……ゆっこ? 私のおにぃに何してるのかな? ちょっとこっち来なさい」
「ちょっ、ユッキー、痛いってば! みんなで遊びに行こうって言うつもりだったの! そんな全力で引っ張らないでー!」
「あ、待って、二人とも! あ、あの、すみません、失礼しますね!」
ギャル風女子の腕を引っ張りながら連れていく優姫を眼鏡の子が慌てて追いかける。さっき会話から置いてけぼりにしちゃって悪いなと思っていたが、こっちは物理的に置いていかれてしまった。付いていくつもりはないので別に問題はない。
しかしまあ、聞いてはいたけど実際にこうして上手くやってる姿を見るとやっぱり安心はする。上手くやると分かっていても、直接見聞きしたものに勝るものはないものなんだなと、改めて感じていた。先程の二人が悪い人間には見えなかったのも大きいかもしれない。……そういや名前、聞きそびれたな。
後で優姫に聞いておこうと思いつつ、当初の目的を達成するために改めて購買部に入る。少し時間をかけてしまったため人気のパンは少なくなっていたが、この前食べ損ねたタマゴサンドとコーンマヨパンが残っていたので買っておき、色合いが黄色くなったのでついでに飲み物もパインジュースにして黄色一色に染め上げてみた。意味は特にない。
昼休みの喧騒も購買から離れ、旧校舎へと入る頃には小さくなり、階段を上がると世界に俺しかいないんじゃないかと錯覚しそうになるくらい人の音を感じなくなる。実際、もうこの時期になると旧校舎の2階以上に誰かがいることはほぼないと言っていい。油断しなくても迷うのだから、好奇心だけで足を踏み入れて痛い目に遭いたい馬鹿はそうそういるわけがないのだ。痛い目にあったせいで変態と出会ってしまった俺が言うのだから間違いない。
その変態と出会った場所、長い廊下の先にある旧校舎の図書室の扉を開ける。予想通り中には誰もおらず、カーテンの隙間から差し込む光だけが存在する空間があった。その光を頼りに歩いてカーテンを開くと、一気に陽だまりに包まれた暖かい場所へと姿を変える。今日は暑くもないし、先日軽く掃除して埃っぽくもないから、窓は開けなくてもいいだろう。
いつもの席に座ってパンの袋を開けてさっさと食べてしまう。普段なら早く食べても時間が余るのでゆっくり味わうということをしたりもするが、今日は試験前なので早めに食べて勉強しておきたい気分だ。タマゴサンドとコーンマヨパンをジュースで流し込んで、俺は立ち上がり本棚の方へと足を向けた。
ここにある本は価値のない本ばかりだと聞いているが、単に価値がないといっても様々な理由がある。その理由の一つには『同じ物がすでに存在している』というものがあり、つまり普通の図書室にある物と同じ本が置いてあったりもするのだ。もちろん、同じ物といってもこちらの方が古くなるのは間違いないので、今とは書いている内容が変わっている部分もあるのだが、それでも全部が全部そうというわけではない。むしろ、そう大きく変わっていないところの方が多い。勉強して時間を潰すつもりなのに特に勉強道具を持ってきていなかったのは、ここで調達できるという思惑があったからだ。
そんなわけなので適当に物色し、よさそうな本を見つけたので読むことにする。教科としては世界史になる。試験1日目に出るところだし、勉強するなら早めの方がいい。早速読み始めることとした。
30分後、漢朝の復興を果たせずに志半ばで逝くことになった
いや……違うんだ、ちゃんと世界史の勉強するための本は探してたんだ。でも俺の中学には中国の三国時代を舞台にしたこの漫画を途中までしか置いてなくて、ずっと続きが気になって仕方なかったんだ。暇なときに結構繰り返し読んでた思い出があるから、続きを読めるとなったら読んでしまうのが人間というものじゃないのか。
誰に向けているのか分からない言い訳を心の中でしながら、古い漫画なのに名作過ぎるからもう最後まで読んでしまおうかと思う。が、さすがにこれ以上サボるのはまずいという理性が働いたので、教室に戻って勉強しようと片付けを始めた。世界史の三国時代って軽く触れるどころか名前が出るだけだし、孔明死んだら後は盛り下がっていくだけだからな……
入る前と同じ状態に図書室を戻したら、空になったビニール袋2つと紙パックを手にして再び長い廊下を歩いていく。階段を下りて上って下りて下りる。1階の渡り廊下を通っていつもの校舎に戻り、途中のゴミ箱にゴミを捨て、また階段を上って自分の教室へと向かう。
移動距離がそこそこあるのもあって、教室に着くころには昼休みの時間も僅かになっていそうだが、それでも何もしないよりはマシだろう。すでにだいぶ無為に過ごしてしまった分を少しでも取り戻すために、『廊下は走るな!』という張り紙が貼ってあるのを横目に少し早足で歩いていた。
「――だから、やめなさいって言ってるでしょっ!」
まだ自分の教室まで距離があるにもかかわらず、聞き慣れた声が耳に届いてきた。注意書きを無視して廊下を走る。
声の聞こえてきた教室の前は人だかりができているとまでは言えなかったが、通りがかった人は中で起きている騒ぎを気にして皆一様に立ち止まっている。そこに加わりながら騒ぎの中心へと目を向けた。
「なんなんだよ、愛理沙。さっきから何キレてんの?」
「そーそー、これくらいいいじゃん? 別に何か盗んだり壊してるわけじゃないんだし」
そこにいたのは予想通り早川さんとそのグループ3人。そして、丸内くんだ。面子を見るだけで何かトラブルが起きていると察してしまう。
厳しい顔で田中さんを睨みつける早川さん。相変わらず勝手に俺の席に座り、つまらなさそうに目の前に立つ彼女のことを見ている田中さん。傍に立っている黒磯さんも面白くない感じで早川さんを見ていて、隣にいる白石さんはよく分からない笑みを浮かべているだけだ。丸内くんは自分の席で困惑した表情を見せながらおろおろしていた。
「早川さん、自分は平気ですから。その、お友達と喧嘩をなされるのは……」
「ほら、マルもこう言ってるしさー。愛理沙が気にしすぎなんだよ」
「……そういうわけにもいかないでしょ」
トラブルの最中なのは分かるし現状やや膠着状態なのも伝わってくるが、どうしてこうなったのかはさっぱり分からない。まずは状況を把握しないと始まらないと思い、近くにいた男子生徒に声をかける。
「なあ、何があったんだ?」
「えっ……えーっと」
声をかけられるとは思っていなかったのか驚いた顔でこちらを見てくるが、こちらの質問は伝わったようで彼は戸惑いながらも答えてくれる。
「オレもよく分かんないんだけど、日焼けした子たちが丸内くんの服を脱がそうとし始めてさ。困ってるところを遅れて教室に来た早川さんが怒りながら止めて、それでなんかあんな雰囲気になったというか……」
「……そっか、ありがとう」
一応お礼は言っておくが、結局よく分からない状況なのは変わらなかった。早川さんが問題を起こしたわけではなさそうだというのはなんとなく分かったが、そんなものは最初から予想できたことだった。
「んだよ、全部脱がさないとどこに隠してるか分かんないだろ? こんなエロ本持ってきてるんだから、ちゃんと荷物検査はしないとダメじゃねーの?」
俺の疑問に答えてくれたわけではないだろうが、田中さんが一冊の本を掲げながら挑発的な物言いをする。そちらに目を向けると、優姫がよく読む漫画みたいなかわいらしいイラストの女の子が描かれた表紙が見えた。ただし、そのイラストはちゃんと服を着ており、距離がある程度離れてても判別できるくらいでかでかと『よく分かる高2英語』と書かれているので、田中さんの言うようなエロ本だとは到底思えなかった。イラストだけ見て難癖を付けたのだろうと推測する。
「マジメな愛理沙さん的には、こういうのを取り締まるのも大事なんじゃないのー?」
「どう見てもただの参考書でしょ。中身も普通だったって、さっき確認したじゃない」
「これはそうでも、こんなの持ってくるやつが他にエロい本を持ってないわけがないじゃん。だからちゃんと確認してやる必要があるの。分かる?」
「そうだとしても、わたしたちがやることじゃないって言ってるのっ」
半笑いの馬鹿にした声で煽る田中さんに、早川さんは完全に乗せられている。今まではなんだかんだで冷静な対応を心掛けていたのに、今回はどういうわけか周りを見る余裕が全くないようだった。
「ねー、愛理沙。なんでそんなに必死なの? 外で男子が脱ぐくらいなら、ウチ部活でいくらでも見てるよ? そこまでして止めるほどのこと?」
なんでそんなくだらないことにこだわるのか分からない、といった感じで話す黒磯さん。あくまで外から見た俺の印象だが、田中さんもどちらかというと怒りよりもわけが分かんなくてつまらないといった態度に見える。つまり、彼女たちはそんな悪いことをしているとは思っていないのだ。
実際、教室で男子が裸になるのは女子よりも機会が多いだろう。小学生の頃、暑いときやウケ狙いでふざけて脱ぎだす男子を見たことくらいは俺にもある。教室でそんなことをするのは中学生くらいまでな気はするが、黒磯さんの言うように部活の仲間でふざけあって脱がし合ったりする程度の想像はできる。それを考えると、軽く注意する程度ならまだしも、マジギレして止めてくる早川さんの態度は不自然に思えても仕方がないのかもしれない。
「……芽衣佳が言ってるのは自分で脱いだり、ふざけて脱がし合ったりとかでしょ。それと無理矢理脱がせるのを一緒にしないで、全然違うから」
早川さんもそんなことは分かっている。分かっていて、それでも違うと『知っている』から止めようとしているのだ。
今でこそ脱ぐのが趣味と言ってはいるが、そのきっかけはイジメだ。俺では想像すらできないが、今でも消えない傷になっているから露出をするのをやめることができないであろうことくらいは分かる。早川さんと丸内くんはただのクラスメイトでしかないが、そんな関係はどうでもよくて、自分のトラウマを刺激しそうな行為をただ止めたいだけなのだと思った。
……そして、それを早川さんは二人に告げることができない。イジメられていた過去を話して同情してくれると確信できるほど、彼女たちはできた人間には見えない。黒磯さんだけならもしかしたらがあるが、田中さんは今までの態度を見るにほぼ絶望的だ。むしろ見下してくる可能性の方が高いまであった。
理由を話せないから状況が進むわけもなく、似たようなやり取りを繰り返しだす三人を見て、どうにかできないものかと考える。幸い……と言ってはよくないのだろうが、相変わらず丸内くんの席の近くで言い合っているので、俺が勉強する邪魔になっているという言い訳は一応使えるだろう。ただ、今回は早川さんの方も意地になっているし、話がここまで拗れていたら言うことを聞いてくれるかも怪しい。なにより、この手は何度も使っているから俺も巻き込まれる危険性が非常に高くなっている。
それでも、ヘイトがこちらに向けば時間は稼げるかもしれない。そう判断して、覚悟を決めて教室に一歩足を踏み入れようとした。
「……んー……ねえ、あーちゃん」
そのとき、今まで三人のやり取りを傍観者のように見ていた白石さんが、顎に人差し指を当てながら口を開く。
「もしかして、あーちゃんの付き合ってる人って、マルなの?」
「――はっ!? えっ!?」
いきなり言われたとんでもないことに、早川さんは大声を出して反応してしまっていた。
「……あー、そういうこと! なーんかマルにちょっかいかけたら邪魔されると思ってたけど、そりゃカレシに絡まれたら怒るよな!」
それを見て、田中さんは得心がいったと手を叩いて嘲笑する。黒磯さんも馬鹿にした声音で続く。
「マルなら恥ずかしくてウチらに紹介なんてできないよね! なに、愛理沙ってデブ専だったの?」
「えー、ありえねー! 圧し掛かられて体重かけられるのがいいの? それとも汗でぬらついているのが好きとか?」
「うわー、引くわそれ! ないない、それはないって!」
「違っ……! そんなんじゃないって!」
「そ、そう! 違いますよ! 自分なんかが早川さんと付き合えるわけがないじゃないですか!」
「そんな必死にならなくても大丈夫だって、誰を好きになっても自由? だもんなぁ?」
「そだね! まあ、それでもマルはないけど!」
そう言って田中さんと黒磯さんは大声で嘲り笑う。この状況を作り出した白石さんは、また先ほどまでの何を考えているのか分からない笑みに戻っている。そして、今まで静かに揉め事の様子を伺っていた連中がざわざわと騒ぎ出したのを感じていた。
早川さんにカレシがいないことを知っている俺は、彼女がただの善意で丸内くんを助けていることを知っている。だが、これまでの行動によって周りがそう勘違いしても不思議ではない状況が揃い過ぎているのも事実だった。今も庇うような真似をしていることだし、周りの声も「マジかー」とか「そういうことだったの」など、田中さんたちの言うことを信じているものが大半だ。
丸内くんは別に悪い人間じゃない。彼が早川さんに相応しいかどうかなど、俺が判断することでもないし誰かに何か言われることじゃない。それは分かっていても、しかし周りがどう判断するかという話は別だ。田中さんたちは丸内くんと彼をカレシにしている早川さんを間違いなく馬鹿にするだろうし、今まで同情的に見ていた人たちもどう転ぶかは分からない。
……この状況は最悪と言っていいだろう。早川さんと丸内くんがどれだけ否定しても、誰もその言葉を信じてくれない。認めたところで好転する要素もない。彼女たちではどうしようもないように追い詰められてしまった。
だが、おかげで理由はもらえた。
騒がしい周囲を置いて、今度は躊躇わずに一歩踏み出す。目指すは当然、彼女の隣だ。
「なあ、ちょっといいか」
無意味なやり取りを続ける田中さんたちに横槍を入れると、邪魔をするなという目でこちらを見られる。部外者の視線も急に現れた第三者に対して向けられているのも感じる。
「テスト勉強したいからさ。騒ぐなら他所でやってくれる?」
一応のポーズとして言っておく。理由自体は本当だから、何も後ろ暗いことはない。
「あ? そんなんどこでもできるっしょ。今いいとこなんだから、後にしろ後に」
当然そんなポーズは相手にされるわけもなく、田中さんにしっしっと手で追い払われる。黒磯さんはニヤついているだけ、白石さんは笑顔のまま、早川さんと丸内くんは突然話に入ってきた俺に困惑している。
こんなことに意味がないのは分かっている。分かっていても、人付き合いとは理由を持って行わなければならない。
何の理由もなく感情だけで動くのは、こいつらと一緒だ。
「俺の席なんだからそっちが動け。騒がしいと集中できないから他所でやれよ」
だから、正当な理由を持って譲る気はないと告げる。俺の勉強の邪魔になるから、他所でやる分には文句はないと、もう一度はっきりと。
このあからさまな宣戦布告を察せないほど向こうも馬鹿ではない。邪魔な虫でも見るかのこちらを見ていた目が、明確な攻撃性を持って向けられる。
「はぁ? 何いきなり命令してきてるわけ? つか、牧田も話聞いてたんじゃないの? だったらさー、今一番盛り上がってるの分かんない?」
「知らないなら教えてやろうか? 愛理沙とマルが付き合ってたんだって! ねー、牧田もウケると思うよね?」
「聞いてたよ。で、間違ってるのを知ってるからくだらねぇと思ってる。だから早くどいてくれ」
田中さんと黒磯さんの悪意のある笑いを制すように言うと、しん、と音が止んだ。
もうほとんど事実と化していたことへの強い否定。しかも、何か決定的な証拠を持っているかのような態度。察しのいい人間はおそらく、俺が何を言いたいのかもう分かっていることだろう。
「は? お前、何言ってんの?」
「……っ! 牧田く――」
俺のしようとしていることを理解した早川さんが声をあげようとする。
それを片手で制し、彼女の方へと目を逸らして田中さんの疑問に答えた。
「早川さんのカレシは俺だ。分かったなら、もう余計な邪推はするな」
瞬間、誰かが飲み込んだ息の音だけが聞こえた。
こんなタイミングで切ることになるとは思っていなかった切り札。彼女とした約束は、カレシなんていないとバレそうになったときに使う保険みたいなものだったが、今の状況ではそれが完全に当てはまるとは言えないだろう。
だけど、その約束は彼女の学校での立場を守るためのものだ。クラスカースト下層という、虐げられる立場に追いやられないための防衛策。そのためにした約束なのだから、今使わない理由が俺にはなかった。
「えっ……牧田なの!? マジで牧田!? ウチ、全っ然気付かなかったんだけどっ!!」
黒磯さんの大げさな反応を皮切りに、先程より大きなざわめきがそこかしこから起き始める。どうやら切り札を切っただけの効果はあったようだ。まずは一安心、といったところか。
「……マジかよ、愛理沙」
「……ええ、本当よ」
田中さんも想定外のところから関係者が現れた衝撃からか、いがみ合っていたはずの早川さんに思わず確認を取ってしまう。それを彼女が目を逸らしながらも肯定したことによって、周囲のざわめきは更に大きくなっていった。
ここで変に否定されると余計な騒動になった――というか、俺が完全にヤバいやつになりかねなかったから、話を合わせてくれたのは助かる。アドリブの苦手な彼女だが、事前にこういう展開も想像していたのかもしれない。
とにもかくにも、俺の狙い通りの流れにはなってきている。丸内くんに度が過ぎる弄りをしていたことなど、これだけ大騒ぎになればもはや全員の記憶の外だろう。
「……ふーん。そうだったんだ」
……ただ一人、白石さんだけが騒動なんて気にせずにポツリと呟いた。
早川さんたちを追い詰めるきっかけになった発言といい、何を考えているのか分からないのは気になるが、追求して藪蛇をつつくことになるのも困る。彼女が何もアクションを起こさないことを祈っていると、そんな友人の様子に全く気付かない様子で黒磯さんが尋ねてきた。
「え、でもさ、牧田なら隠す必要なくない? なんかクールでかっこいいよねって、ウチらみんな言ってたじゃん? 牧田なら教えてくれても馬鹿にしたりなんかしなかったよ?」
「そ、れは……」
「俺から頼んだんだ。早川さんと付き合ってるなんて広められると、恥ずかしくてしょうがないからさ」
堂々と言ってのける。実際、一つも嘘は言っていない。露出狂の早川さんと付き合ってるなんて恥ずかしすぎて思われたくないし、俺から頼んでこの関係を隠すようにしたのも本当だ。
「えー、牧田って意外と恥ずかしがり屋? なんかちょっとかわいいね! うん、愛理沙が好きなのも分かる気がする!」
そんな堂々とした態度が功を奏したのかは分からないが、黒磯さんはあっさりと俺の話を信じてくれた。
さっきから色々とデリカシーのない発言が混ざっているのを注意したくはあるのだが、次はこの混乱を落ち着けることが重要だから今考えることではないだろう。降って湧いたこの手の話題に、いい意味でも悪い意味でも興味を持つ人が多いのは分かり切っていることである。まず考えるべきはその対応をどうするかだ。
とはいえ先程までの険悪な空気のことも考えると、遠巻きに見ている無関係な人間が今すぐ俺たちに声をかけてくるとは思えない。すっかり置いていかれた丸内くんはポカンとしているだけだし、白石さんはもう笑顔ではなくなっているがよく分からない態度なのは変わらない。そもそも黒磯さんが俺たちを恋人同士と認識した以上、少なくともこのグループ内では事実として扱われるだろう。
この後は普通に授業があることを考えると放課後まで、上手くいけば明日まで俺たちの関係に突っ込まれることはないかもしれない。時間があればあるほど早川さんも落ち着くだろうし、話を合わせる時間も取りやすくなる。だから、今このときさえ乗り切ることができれば、後はどうとでもなるはずだった。
ただ、そんな俺の思惑を黙って許してくれるとは思えない人物が、一人だけいる。
「……牧田、とねぇ」
田中さんは口の端を吊り上げる嫌な笑みを浮かべながら、早川さんを睨め回すように見てねっとりとした口調で言う。
「なんかさー、散々人のこと顔だけで見るなとか言っておいて、結局愛理沙も顔で選んでんじゃん。自分は違うみたいなこと言っておいて、それはなくない?」
「……別に顔で選んだわけじゃない。牧田くんのこと大して知らないのに、適当なこと言わないで」
……いきなり俺の聞いたことのない話から入られた。自分でこの状況を作り出したからできる限りフォローする気でいたが、さすがに知らない話はどうにもならない。上手く早川さんが対応してくれるのを祈るしかない。
「でもさぁ、牧田と同じクラスになったの2年からだろ? それまで接点なかったのにもう付き合ってるってことは、愛理沙も大して牧田のこと知らないんじゃないの?」
「それは……その前から会っていたのよ。ね?」
「……一人で飯食う場所探しているときに偶然会ってな。話すようになったのもそこからだ」
田中さんから目を逸らしてこちらを見てきたので、どうにか話を合わせて答える。余計な話をしてボロが出るのはまずいので、嘘にならないような言い方をしなきゃいけないのが苦しい。
「そういえば愛理沙、1年のときからちょくちょく抜け出すことあったもんね。そっか、その頃くらいにはもう知り合ってたんだ」
「んー、カレシがいるって教えてくれたのは7月くらいだったっけ? そのくらいに付き合い始めたのかなー?」
「……そうね。みんながしつこかったし、いることだけは教えておこうと思ったの」
黒磯さんと白石さんの言葉に、困ったように目を逸らしながら曖昧に答えている早川さん。その辺の設定など全く考えてなかったから、今は早川さんの言うことに合わせるしかない。
しかしまずいな、去年の早川さんのことなんて全く知らないから、どんな様子だったとか尋ねられると何と答えるべきなのかも分からないぞ。俺が急にこんなことをしたので、早川さんの方でもフォローができるかも怪しい。かなり強引でもいいから、どうにか話題を変えた方がいいだろう。
そう判断はしたものの、けれどどんな話題にするべきか、変な話題を振ってしまうと余計な墓穴を掘ることになりかねないと迷っていたら、
「ほーん……じゃあ、あーしらが合コン行ったりしてる裏で、牧田とヤることヤってたんだ」
今している会話などまるで意に介さない様子で、田中さんがそんなことを言っていた。
「ヤることって……なにその言い方。それだけが目的みたいに言わないでくれる?」
「他にナニするっての? 人が必死にカレシ探してるとき、自分は牧田とヨロシクやってたんだろ? あーあ、清純派の愛理沙がそんなんだったなんて、幻滅しちゃうなー」
突然言い出したことに付いていけず、間抜け面を晒して聞くことしかできない。またも俺の知らない話だから、裏で早川さんがそういうことを注意していた……とかだろうか?
「そもそもそんなことしてないんだけど……仮にそうだとしても、カレシ相手で文句言われる理由もないでしょ」
田中さんの言いがかりに早川さんが正論で返す。恋人関係にある男女でのそうした行為を問題視するほど子供ではない。清純派がどうとか言っていたから男子人気に影響はあるかもしれないが、早川さんがそこにこだわるような人とも思えなかった。
そして、こんなことはいくらなんでも田中さんも分かっているはずだ。指摘したところで何かあるわけでもないはずなのに、彼女はあくどい笑みを未だに浮かべていた。
「そういう言い方するってことは、愛理沙もやっぱヤったことないってわけじゃないんだな。まー、男子にモテるもんな。あーしらより進んでてもおかしくないかー」
「……何が言いたいの?」
早川さんも俺と同じように田中さんのしたいことが分からないようだった。困惑と苛立ちが混じった声で直接的にそう尋ねてしまっていた。
「そりゃお前、愛理沙先生に二人でどんなプレイをしてたか教えてもらいたくてさー。やっぱ、ククッ、そのでかい胸使ってヤってたりしてんの?」
「……えっ、はいっ!?」
悪意を隠そうともしない笑い声の混ざった言葉を聞き、思わず早川さんは顔を赤くし、胸を隠しながら素っ頓狂な声を出してしまう。彼女が反応しなかったら、俺がそんな声を漏らしてしまっていたことだろう。
「うわー、ロコ、エグいこと聞くね。でもウチも気になる! ねー、どういうことしてんの? ってか、男子の感想も気になるかも! 牧田、やっぱおっぱいでされるのって気持ちいいの?」
そんなことはこんな衆人環視の中で話すことでもないだろ、そうツッコむ前に興味津々の黒磯さんが尋ねてくる。
「ちょっと、芽衣佳。今話すようなことじゃ――」
「えー、こんくらいなら全然大丈夫っしょ? ロコや紬は結構話してくれてるじゃん」
「そうそう、このくらい普通だって。……まさかナニもしてないってこともないだろうし」
黒磯さんは純粋に興味本位で聞いているだけだろう。多分、俺の聞いてないところでこの手の話は四人でしていたはずだ。というか、していなければ『サカイくんはエッチが下手』なんて話を早川さんが知っているわけがない。
だが田中さんは、明確にこちらを追い詰めるために言ってきている。彼女が俺たち二人を偽の恋人関係だと察しているとまでは思わないが、何もしていないと言えば確実にそこを指摘するつもりに見えた。かといって、こんなところで性行為の内容を話してしまえば、たとえそれが嘘だとしても早川さんは恥をかくことになってしまう。クラスの立ち位置を気にする必要がある彼女にとって、それは避けなければならないことだった。そもそも以前の反応を考えると、早川さんは経験皆無の処女の可能性が非常に高い。アドリブ苦手な彼女が咄嗟に吐いた嘘を信じてもらえるかも怪しかった。
ざわめいていた周囲も、こちらの会話を聞き逃さまいとしているかのように再び静かになってきている。いや、実際聞こうとしているのだろう。たとえ悪趣味であると分かっていても、高校生がこの手の話題に興味を持たないわけがない。周りに聞かせるように話すことはなくとも、裏で似たような話をしていなければおかしいと言ってもいい。
俺が早川さんのカレシだと打ち明けたときより騒ぎは小さくなっているのに、混乱はますます大きくなってきているように感じる。こうなるともう昼休み終了の時間を待つべきかと考えるが、チラッと見た時計はまだ5分以上残っていることを知らしめてきた。どうにか誤魔化すことができるかどうかも微妙だ。
誤魔化せないなら真正面から向き合うしかないが、しかしそれはもっと難しいことだった。遊んでいるタイプのグループに所属する高校生のカップルが性行為を行わず、かつ偽の恋人関係とも思われない、そう周りに認識させるには相当な理由が必要になってしまう。そんなもの、作り話でも簡単に用意できるものではない。
「……えっと……」
早川さんは言い淀む。嘘の恋人がバレても、嘘の性行為を口にしても、どちらにせよクラスでの肩身は狭くなるのは間違いない。
彼女が何を言っても、この状況がどうにかなるわけがなかった。
「んー? 愛理沙、なんで黙ってんの? もしかして、あーしらにも言えないようなことヤってたりする? 例えば――」
「やめろ」
……だったら、俺がどうにかするしかない。
元々俺が招いてしまった状況だ。理由もある俺が解決してしまうべきだろう。
「なに、牧田。カノジョとヤってることバラされるの嫌だったりするん? そんな恥ずかしがることでもないだろ?」
「違う。そもそも早川さんとはそんなことをしていない。聞いても何も答えられるわけがないんだ」
「はぁ? んなわけないだろ、愛理沙相手に何もしてないとかインポかよ」
「そうだ」
まるで本気にしていない声で言われた言葉を、躊躇いなく肯定する。
「インポテンツだから、何もしてないんじゃなくてできないんだ。これで納得したか?」
田中さんだけでなく、周囲の人間全員に聞かせるつもりで言ってやる。
俺たちが本当の恋人であると思われて、爛れた関係だと思われない『理由』、聞いてもらわないとこっちが困る。
「……は?」
間の抜けた声は、誰の口から漏れたのかも分からない。だが、これ以上ないってくらい静かで気まずい空気に変わったことをひしひしと感じる。
この手の話を冗談として軽口で言い合うことくらい知っている。本当にそんな病を抱えた人がいるとは知っていても、何も考えずにここにはいないものだと思い込んで言ってしまうのはよくあることだ。そうやって何度も何度も経験して、俺は誰かと話を合わせられなくなったんだ。
だからこそ、こうして本物が現れたときに空気が凍り付くのも知っていた。小4になってすぐのとき、クラスでエロ本を回し読みしてるところになぜか俺も巻き込まれ、正直にエロくないから勃たないと話したら、『かっこつけてる』だのなんだの言われた上に変な空気になったことは今でも忘れていない。
もちろん、小学生の頃と今を一緒にしてはならない。色々と配慮が求められることくらい、少し大人に近付いてきた今なら理解できる。デリカシーのない行動をすれば責められるのは自分だ。たとえ本音がなんだろうと、周りの常識に自分の常識を合わせなければ、コミュニティの中で生きていくことはできない。
「……ククッ」
ただし、それには例外も存在する。
「ギャハハハっ!! マ、マジでインポ? インポなの? えー、マジウケる! 終わってんじゃん!」
コミュニティの頂点。常識を、空気を作り出す側。
学校――いや、クラスのカースト最上位は、その場の空気を自分で作ることができる。
「はー、牧田、かわいそうだな、お前。せっかく愛理沙みたいなエロいカノジョがいるのに、チンコ勃たないからなんもできないとかっ! やべー、涙出てきた!」
田中さんは笑っていた。下品に、ご機嫌に、好き勝手に。
きっと彼女の中での常識では、勃起不全の人間はどこまでも馬鹿にしていいのだろう。カレシという存在をステータスとする人間にとって、男らしさを見せることができない人間に価値はない。故に配慮など必要としない。
「クフッ、マジでおもろ……しかもそんなことここで言うとか、頭おかしいんじゃねぇの? なあ?」
クラスカースト頂点の言葉には、みな従うしかない。
「……なんで笑ってんのロコ。ガチで引くんだけど」
――だから黒磯さんが声を出すまで、一人で笑う彼女の周りの空気は凍り付いていた。
「病気を馬鹿にするのはないよ。自分じゃどうしようもできないことなんだし、笑ったりするのはマジでダメだと思う」
「そうだねー。ひーちゃんが言わせたようなものなのに、それで笑うのは性格が悪いとかで済まないよねー」
厳しい表情で田中さんを糾弾する黒磯さんに白石さんも続く。自分の味方だと思っていたであろう人たちの掌返しを受けて、田中さんは慌てて立ち上がって抗議する。
「は、はあっ!? ちょっ、なんだよいきなり! バカみたいなマジメなこと言ってんじゃねぇよっ!!」
「馬鹿でも真面目でもない。足の骨折ってる人が走れないからって笑うのとかないっしょ? 努力でどうにかできない病気や怪我を馬鹿にして笑うのはないよ、ロコ」
真剣な表情で責められて田中さんは思わずたじろぐ。この価値観はおそらくだが、ずっと陸上で努力してきた黒磯さんが培ってきた彼女自身の常識だろう。だが、今この場では彼女の常識こそが絶対的な正しさだ。
始めから彼女たちのグループの中心は黒磯さんだった。田中さんが中心に見えていたのは、彼女のやることを単に黒磯さんが止めなかったから好き勝手やっているように見えただけだ。本当に田中さんが中心なら、カレシのいない黒磯さんはもっと居心地悪そうでなければならないし、群れることを強要しそうなのに早川さんがあれだけフリーに昼休みを過ごすことを許すとは思えない。その辺りのこだわりがないのは黒磯さんであり、また思い返してみれば彼女の言うことには田中さんも無自覚で従っている場面もあった。大体、気付かれないようにしていたとはいえ、平然と田中さんの言うことに従わない白石さんがいる時点で彼女が中心なわけがなかったんだ。
……もっとも、このことに気付いたのは俺ではなく優姫だが。早川さんのグループについての相談をしていたのもあり、一応の報告を兼ねて早川さんから聞いた話を伝えたら、もしかしたらという形で話してくれていたのだ。優姫も直接関わっているわけではなかったからあくまで推測だったし、俺もその話を信じ切っていたわけではないが、現況を見るにどうやら間違いなさそうだ。
「……そういえばー、うちの学校に性的な虐待受けた子がいるから気を付けて接するようにって先生たちが話してたの、前に聞いた覚えがあるんだけどー」
黒磯さんに対して必死に弁明をしている田中さんをしり目に、白石さんが何気ない感じでいきなり言ってきた。
「もしかして、牧田くんのことだったり……あ、ゴメンねー。デリカシーなかった、今のは忘れてー」
「ああ、いいよ。そんな話知ってるなら連想するのもしょうがないし、多分それも俺のことだろうから」
「……それじゃ、言ってることは嘘じゃないんだねー」
この状況で勃起不全と宣言したことが嘘である可能性の方が低いだろうが、念のための証人まで準備されてしまった。勃起不全のことは先生たちも知らないはずだけど、虐待の方は一部の先生も知っている事実だ。その2つが絶対的に関係あるとは言えなくても、無関係だと言うことの方が難しい。
「えー、牧田めっちゃかわいそうじゃん! ホントゴメン、こんなこと言わせちゃって!」
「ワタシからもゴメンねー。ロコが変なこと言わなきゃよかったのに、代わりに謝っておくよ」
話は聞いていたらしい黒磯さんが、田中さんの話を聞くのを中断して謝罪してくる。どうも彼女も噂は耳にしていたようで、何も疑うことなく信じてくれている。
ついでに白石さんも改めて謝ってくるが……先程までと違い行動に迷いがなさすぎる。白石さんは田中さんのことが嫌いだと早川さんが言っていたし、最初から彼女を陥れる機を伺っていたようだ。何を考えているのか分からないように見えたのは、ただ単に様子を見ていただけでしかなかったってことなのだろうな。やっぱ、女子って怖いわ。
「……な、なんなんだよ」
気付けば誰も味方がいなくなっていた田中さんが、泣き出しそうな声を零していた。
彼女の味方といっていい人間は、元々黒磯さんと早川さんだけだった。もっと言うなら黒磯さんが仲良くしてくれているから、田中さんはクラスで浮いていてもカースト上位にいられたのだ。早川さんと対立しただけならまだどうにかなるだろうが、黒磯さんとも対立してしまった時点で彼女は本当の意味でのカースト外へと立場を変えるしかなくなっていた。周囲から聞こえてくる声は、俺への同情と同じくらいに田中さんへの非難と誹謗で溢れている。
傍観者が好き勝手言うこともあまり好きではない。ただ、俺が彼女に声をかけてもどうしようもないのも確かだ。変に後まで引きずるのもよくないだろうし、今はこの場をさっさと終わらせることだけを考えておこう。
「ってか、愛理沙はこのこと知ってたんだよね? じゃあさ、ずっと牧田のこと手伝ってたりしてたの? 何するのか分からないけど、すごそう――愛理沙?」
「え……な、なに?」
「あーちゃん、どうしたの? なんかぼーっとしてたけど」
黒磯さんと白石さんが心配そうに声をかけていたので、俺もそちらに目を向ける。気が付いたらずっと黙り込んでいた早川さんは、顔を俯けてなぜか気まずそうに視線を泳がせていた。
とりあえずとはいえどうにかなったのだから、もっと落ち着いた様子でもいいはずだ。田中さんのことを友人とは思っていそうだったので、今は仲違いしていてもここまで追い詰めるつもりはなかった、とかだろうか?
なんにせよ、本人に聞かないと分からないことを考えても仕方がない。俺も彼女の恋人ということになっているし、何か声をかけようとしたところで、
「お前ら! テスト準備期間に揉め事を起こすとは何事だっ!!」
今更過ぎるタイミングでやってきた生徒指導の先生の声が廊下から響き、ほぼ同時に昼休みの終わりを告げるチャイムが学校中に鳴り響くのだった。
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