第8話:そして、粥は伝説になる

 それからというもの、王都アルセインの空は、嘘のように晴れ続けていた。


 重く淀んだ霧は、すべて消え去った。

 人々は再び朝を迎え、眠り、笑い、歌い始めた。

 それは、長く忘れていた“当たり前”の温かさだった。


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 王宮の厨房。

 その奥の棚に、一つの白い器が静かに置かれていた。


 どこにでもある、白磁の深皿。

 けれど、その内側にだけ、金の文字が刻まれている。


 ――望月 拓海


 それはもう、誰も声をかけても応えない器だった。

 けれどリシェリアだけは、毎朝その器にスプーンを添えて、そっと話しかける。


「おはよう、拓海さん。今日は、青空よ」


 彼がもう声を返すことはない。

 けれど、器にそっと手を添えると、不思議と心が落ち着いた。


 ――それは、彼が確かに「そこにいた証」だった。


 リシェリアはもう病気ではなかった。

 魂の霧病は完全に癒え、身体は日に日に力を取り戻し、彼女は次期女王としての道を歩き始めていた。


「……まだ少し怖いけれど、ね」


 政治、戦争、外交。

 王女としての使命は果てしない。

 けれど彼女は、心の奥にいつも“ひと匙の粥”を持っている。


 ――誰かを癒すことが、力になる。


 それを教えてくれた粥の存在が、今も胸の中にある。


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 数年後。

 王都の外れに、新たな施設が建てられた。


 その名は「癒粥院」。


 病人、傷ついた兵士、心を病んだ子どもたち――

 誰もがここで、あたたかいお粥を口にして癒されていく。


 厨房の中央には、ひとつの鍋が据えられていた。

 古びた鍋に、こう刻まれていた。


「誰かを癒したいと思うその気持ちが、最も強い調味料だ」――料理仙人クルト


 その教えは、リシェリアがすべての料理人に伝えた拓海の言葉だった。


 粥は、世界を救った。

 刃ではなく、魔法でもなく、ただの食事が、心を溶かし、魂を温めた。


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 王宮の裏庭に咲く白い花のそばで、リシェリアはひとり、器を抱えて座っていた。


「ねぇ、拓海さん。わたし、まだあなたに言えてなかったことがあるの」


 春風が、彼女の髪をふわりと揺らす。


「――ありがとう。わたしを、生きていていいと思わせてくれて」


 そしてもうひとつ。


「――好きだったよ。今も、ずっと」


 白い器は何も言わなかった。

 けれどその中から、ふわりと湯気が立ち上るような、そんな気がした。


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 物語は、終わらない。


 世界には今日も、どこかで誰かが誰かを癒している。

 誰かのために、あたたかいものを作ろうとする手がある。

 それが、人の形をしていなくても、言葉を話せなくても――

 想いは、きっと伝わる。


 だから、この物語は語り継がれていく。


 ――かつて、世界を救った“ひと匙の粥”の伝説として。

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転粥 〜異世界に転生したらお粥でしたが、王女に食べられる寸前で覚醒しました〜 永守 @nagamori358

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