第6話──「君に香りを纏わせた日」
その日、空は静かに曇っていた。
午前中は晴れていたのに、午後になると淡い雨がぽつりぽつりと降り始めた。
天気予報では“降水確率20%”。まるで、心の揺れを映すような曖昧な空だった。
午後二時。
彼は、例の中庭のベンチに座っていた。
見えない目の代わりに、耳と鼻と心を研ぎ澄ませて、じっと待っていた。
風が吹いた。
そして──
香った。
10年分の記憶が、一瞬で蘇る。
──でも、
今日は、もっと柔らかくて、切ない香りだった。
ほんの少しだけ違う。
でも、その“違い”が、なぜか懐かしすぎた。
足音が近づく。
女性のヒールの音。だが、それは控えめで、自分を主張しない歩き方だった。
「……来てくれたんですね」
その声を聞いた瞬間、
彼の手がふるえた。
「……美雨?」
声が震える。香りが、確かにあの日と同じだった。
だけど、もう香りだけを信じてはいけない。
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
「ごめんなさい。何度も近くにいたのに……勇気がなかった」
「どうして、消えたんだよ」
「怖かったの。あなたを壊したのは私だって、思い込んでいた。
だから、私にはあなたに“愛される資格”なんて、ないって……」
沈黙が流れる。
雨が少しずつ強くなってきた。
「でもね……あなたが香りを覚えてくれてたって聞いて、泣いたの」
「……」
「香水は捨てられなかった。でも、もう二度とつけないって決めてた。
でも……それをつけてここに来た。
あなたに会うために。
“心”で見つけてくれるって、信じてみたかったから」
彼はゆっくりと立ち上がった。
足元は少しふらついた。
けれど、その手は迷わず彼女の方へ伸びていた。
彼女の手をとる。
冷たい雨に濡れていたけど、その指先にはかすかに震える想いが宿っていた。
「美雨……君の指は、小さくて、あたたかい。10年前と変わらない」
彼はそっと彼女の手を自分の頬にあてた。
雨に濡れた頬が、彼女の手をすっと包み込んだ。
「そして……君の香りは、
10年前と、少しだけ違う」
「……やっぱり、わかっちゃうんだ」
「うん。でもね──
その“違い”に、10年の時間を感じた。
そして、君が君のまま変わってくれたことに、
今、僕は初めてちゃんと“恋をした”気がするんだ」
雨がやんで、光がさした。
小さな陽の光が、ベンチに落ちた。
彼はもう、香りに頼っていなかった。
“心で、彼女を見つけた”のだった。
「……じゃあ、これからはちゃんと、香水をつけてもいい?」
「もちろん。君が選んだ香りなら、何でも。
だって、
もう僕は、香りじゃなくて“君自身”を愛してるから」
彼女は、涙をこぼした。
でもそれは、
10年間、誰にも見せなかった安堵の涙だった。
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