第8話 それぞれの余韻
「……あれ? 日向さん、ひとり?」
放課後の音楽室。
心音は、楽譜を見つめたまま、ぼんやりしていた。
声をかけてきたのは、クラスメイトの女子だった。
「あ、うん。ちょっと譜読みしてて……」
「あの演奏会、よかったよ。最後のヴァイオリンの音、すごく綺麗だった」
「ありがとう」
少し頬が熱くなる。
けれど、演奏の手応えは「よかった」の一言では言い尽くせなかった。
(私、ちゃんとみんなの音、聴けてたかな……?)
まだ心の中は余韻の渦中にある。
演奏中、奏多と目が合ったあの瞬間。
たった一つの和音が、すべての呼吸を変えた。
(あれは、なんだったんだろう……)
胸がざわついたまま、答えは出ない。
一方、図書室の隅。
佐伯陸はチェロの資料を広げていたが、ページは一向に進まなかった。
(……心音、やっぱり、神谷の音を追ってたな)
そのことに気づいた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。
自分の音が、彼女に届いていない気がした。
ステージ上では、ただの「一人の演奏者」。
けれど、舞台を降りたら……ほんの少しだけ、特別な存在になりたかった。
(もっと“うまくなれば”、見てくれるだろうか)
その答えを探すように、また資料へと目を落とす。
けれど、文字はぼやけて見えた。
音楽室の別の一角。
澄香はフルートの手入れをしていた。無言のまま、機械的に。
心音が陸を見るあの瞬間。
そして、奏多が心音を見るあの瞬間。
(……私だけ、誰からも“見られてない”んだよね)
そう思ったとき、フルートの管体を持つ手が止まった。
(でも、いい。私は音で勝負する)
誰かの“心”を奪えるほどの音を──
それが、澄香の中に芽生えたささやかな嫉妬の正体だった。
そして──神谷奏多は、ホールの舞台袖にひとり残っていた。
誰もいない客席を見下ろしながら、昨日の演奏を思い返している。
(……あの最後の音。日向の音に、俺は何を重ねていた?)
誰にも言えない。
あれは、明らかに“答えてしまった”音だった。
彼女が見たのは、佐伯かもしれない。
けれど、あの一瞬、視線が交差したのは──自分だった。
(それが、嬉しかった。……悔しかった)
奏多はそっと鍵盤に手を置き、低い和音を一つだけ鳴らした。
誰のための音かも分からぬまま。
その響きは、しんとしたホールに溶けていった。
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