ムートンボールの歴史
ムートンボールは一説によると、9世紀中国、唐の時代にその起源を持つとされています。
ムートンボールの創始者は唐の首都であった長安(現・西安市)の商人だった陳元才(???~912)と言われています。
元才は行商から帰ったあと、いつものように自室にひきこもっていました。少しだけ余った羊毛を手慰みになんとはなしに丸めてみたそうです。その毛玉を顔に押付けて、やや獣臭さの残ったふわふわした感触を楽しんでいました。
そのとき、洗濯物を片付けるため部屋に入った母親にその様子を目撃され、元才は大変に赤面したと伝えられています。
このときの様子を、当時は知る人ぞ知る詩人として評価されていた元才自身が詩として残しています。
毛玉是柔柔
感触如極楽
我不知母来
心猶独歩漠
(訳・毛の玉はふわふわだ。その感触はまるで極楽のようだ。私は母が来ることに気が付かなかった。そのときの心持ちはまるでたった一人で砂漠を歩いているかのようだった)
この詩はムートンボールというスポーツの精神を表す名文であると同時に、あまり自身の感情を露わにしなかったという元才の人となりを知るための貴重な資料としても評価されています。
この出来事をきっかけとして元才が考案した遊び、毛頭(マオトン)は長安から中国全土、さらにシルクロードを経由してヨーロッパにも広がっていき、やがて「ムートン」として世界中に定着ました。ただし、初期のムートンは現在のようなチーム戦で行われるものではなく、ゲームに参加している一人一人が一位をめざして得点を競うものでした。
(編集部註:この陳元才による唐起源説には異論も多く、ドイツ起源説、イラン起源説など様々な説が乱立していて、専門家で統一した見解はいまだありません。しかしこのことこそ、ムートンボールが世界中で愛されてきたスポーツである証左ともいえるでしょう。)
さて、このようにして世界中に広がったムートンですが、今知られるムートンボールとして成立したのは1952年のことです。
遡ること1924年、パリオリンピックの実施競技としてムートンの選出は世界中で期待されていましたが、最終的に惜しくも選外となりました。
これを受けて、ムートンボール愛好家として知られたジョージ・グランドマザー卿(1862~1956)の呼びかけもあり、ロンドンの英国ムートンクラブを中心に国際ムートンボール協会(IMC)が設立され、世界各国のムートン団体の代表者が招聘されました。国際的な組織のもと標準的なルールを決定することで、次回のアムステルダムオリンピックでの選出を目指したのです。
しかし、グランドマザー卿の目算は大きく外れることとなります。唐の時代から数えると1000年以上が経過しており、長い歴史の中で地域ごとにルールは変容していました。そのため、世界中のムートナーが納得する統一的なルールを確立するのは非常に大変なことだったのです。
そして、ただでさえ議論が停滞する中で第二次世界大戦が勃発し、標準的なルールの決定はさらに遅れることになりました。
協会の解散なども囁かれる中、終戦を待って再び議論が再開され、1952年、ようやく統一ルールが決定し、国際競技としての「ムートンボール」が成立したのです。現在のように、5対5のチーム戦で争うというのも、この会議の中で生まれたアイデアです。
このとき、グランドマザー卿はすでに90歳になっていました。グランドマザー卿は国際競技としてのムートンボールの成立に際して、このような言葉を残しています。
「我々ははじめ、同じスポーツを愛する仲間として集まった。ここ、ロンドンに、はじめて世界中のムートナーが一堂に会したとき、私にはこんなにたくさんの友がいることを心から嬉しく思った。
だが議論は遅々として進まず、やがて私の目に彼らは強大なライバルのように映った。今だから言える話だが――怒らないでくれたまえよ、ターレン(註・中国語で先生の意。中国ムートン協会会長、方連総のこと)――彼らさえいなければ、と思うこともあった。
しかし戦争が始まり、我々は一度本当の敵として戦うことを余儀なくされた。あれから数年経った今、私はこう思う。私が初めに思っていたことは正しかった。彼らは――我々は、やはり友なのだ。あの悲惨な戦争のあとでさえ、我々は子どものように同じボールを追いかけることができる。
あの壮絶な議論は、我々皆がムートンを愛していたからこそおこなわれたことなのだ。羊毛で作られた柔らかいムートンボールを燃やすことは容易い。しかし我々の絆は、戦火では決して燃やすことはできないのだ」
グランドマザー卿はムートンボール成立に大きく貢献した立役者として、今も世界中の尊敬を集めています。
国際ルールの制定にもかかわらず、ムートンボールはメルボルンオリンピックの実施競技に選ばれることはありませんでした。
スエズ動乱の影響から多数の不参加国が出てしまったことにより、何より平和を重んじるムートンボール協会が、国際オリンピック委員会への協力を拒否したという話がまことしやかに囁かれていますが、この風説を裏づける記録は見つかっておらず、注意が必要です。
ともあれ、現在までオリンピックの指定競技として選ばれることはありませんでした。
しかし、国際ムートンボール協会にとって、国際大会の実施は何よりの悲願でした。そこで、1960年、第1回ムートンボールワールドカップが、協会本部のあるロンドンで開かれることとなりました。このロンドン大会には16の国が参加し、トーナメント方式で試合が行われ、西ドイツ(現・ドイツ)が第1回大会優勝の栄冠に輝きました。
これ以降、ワールドカップは徐々に参加国を増やしながら4年ごとに開催されています。
優勝回数は中国代表の2回が最多で、複数回にわたって優勝を果たしたのはいまのところ中国だけです。
前回ムンバイ(インド)で開催されたワールドカップでは、予選リーグを含めると史上最多の190チームが参加し、ケニア代表がアフリカ勢で初の優勝を果たしました。
次回大会はブラジルのリオ・デ・ジャネイロでの開催が予定されています。次の優勝カップは誰の手に渡るのか? 世界中の期待が注がれています。
さて、これまでムートンボールの、いわば世界史について説明してきました。
これから、日本におけるムートンボールの歴史を紹介します。
日本にムートンボールが本格的に普及し始めたのは、1980年代のことになります。もちろんそれまでにも一部のスポーツ愛好家の間でムートンボールの存在は知られていましたが、外国人コミュニティとの交流の場で嗜まれる程度のものでしかありませんでした。
しかし、日本のバブル経済の後押しもあって海外旅行が一般的なものとなり、それに伴って海外では圧倒的な人気を誇るムートンボールが日本でも広く知られることとなり、ついに1986年、日本ムートンボール協会が設立されるに至りました。
これ以降、日本はムートンボールの国際大会にも参加するようになります。しかし競技人口の少なさもあり、残念ながら1996年のアトランタ大会でのアジア最終予選進出が現時点での最高成績です。
近代スポーツとしてのムートンボールから半世紀以上をかけて、今では日本を含め190の国と地域で愛されるスポーツとなりました。
ですが、日本でのムートンボールの歴史はまだ浅いと言わざるを得ません。
これからムートンボールがどのような歴史を形作っていくのかは、未来のムートナーである皆さんの手にかかっています。
日本ムートンボール協会理事
遅稲田大学スポーツ科学部教授・文学博士
カルーセル刃牙
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