第17話:共生の代償
自己犠牲。看護師として、そして一人の人間として、誰よりも大切な人を守ろうとする、純粋な愛。サムドニクスはこれを「不要な感情」として消去しようとしたが、光の魂の最深部に刻まれたこの記憶だけは、どんなナノマシンでも完全には歪められず、消せなかった!
「…それだ…! 光さん! それだよ…!」 俺の声が震える。魂鉄義肢が、この強烈な記憶の共鳴に反応し、銀色の輝きを増す。「お前の中に…今も生きてるのは…『教授を守ろうとした』お前の気持ちだ…!」
「光」の存在が大きく震える。銀色の粒子が激しく暴れ、彼女の形が崩れそうになる。空虚な瞳に、激しい葛藤が渦巻く。
『…豪…さん…を…守…』
『消去! 消去! 消去! 不要な感情! 情報収集が使命!』
「譲さん! 今です!」 廻の声が緊迫する。『潮崎教授の意識を…ここに引き込んでください! 彼の「科学的探究心」…光様を理解したいという想いが、鍵です!』
了解だ! 俺は魂鉄義肢を、現実世界の研究室にいる潮崎豪へと向ける――精神的に。錨である廻の銀糸を伝って、潮崎の意識に強く呼びかける。
(教授! 聞こえるか!? 光さんは今…あんたを守ろうとしたあの時の記憶で…サムドニクスと戦ってる! あんたの力が必要だ! あんたの…光さんを知りたい…救いたい…という『想い』を…ここへぶつけろ!)
現実の研究室で、苦悶の表情を浮かべる潮崎豪の右目が、突然、強く見開かれた。
「…光…!」
彼の叫びが、記憶空間に雷鳴のように響き渡る! それは、学者としての冷静さを超えた、人間としての必死の呼びかけだった!
「…お前の痛み…苦しみ…そして…私を守ろうとしてくれた…その気持ち…全部…知りたいんだ! 分かち合いたいんだ! だから…負けるな…! お前は…お前は天野光だ…!」
潮崎の「科学的探究心の根底にある、人間への深い愛情と理解への渇望」。その想いが、純白の光となって記憶空間に流れ込み、もがく「光」の存在を包み込んだ!
「光」の瞳に、長く消えていた理性と優しさが、激しい光と共に戻ってきた!
「…豪…さん…!」
本物の天野光の声だ! 彼女の半透明の身体から、サムドニクスの銀色の粒子が、強制的に排出され始める! それは光を拒絶しているのではなく――融合していたものが、自ら離れていくような光景だった!
『矛盾…! 個体:天野光の記憶…共鳴…強すぎる…! 命令系統…擾乱…!』
サムドニクスの機械的な声が、エラーを起こしたように歪む。光の周囲で暴れていた銀色の粘液や槍が、急速に形を失い、無害な粒子の雲へと戻っていく。記憶空間の歪みが収まりつつある。
「…光さん…!」 俺は叫ぶ。「…その調子だ…! 教授の想いと…お前の想いを…一つにしろ…!」
光は涙を流しながら、潮崎の声のする方へ、銀色の粒子の束縛を振り切って手を伸ばす。現実の潮崎も、無意識に変異した左手を上げる。
その二つの「想い」が――光の「守りたい」という自己犠牲の愛と、潮崎の「知りたい」という探求の情熱が――記憶空間の中心で激しく衝突し、そして…深く共鳴した!
ドオオオオーン―――――!!!
眩いほどの光が、全てを飲み込んだ。
現実の研究室に、鋭い警告音と共に意識が戻った。
「がはっ…!」 俺は床に膝をつき、激しく咳き込む。魂鉄義肢は過熱し、先端が微かに溶けている。頭は割れるように痛い。
「…成…功…?」 廻が息を切らして問う。彼もまた、端末の前で疲労困憊の様子だ。銀色の左目の輝きが弱まっている。
俺の視線が机の上の潮崎豪に向く。
教授は、椅子に深くもたれかかり、激しい呼吸をしていた。左半身の、あの不気味な銀色の血管模様は――消えていた。皮膚は以前の色に戻り、左目も教授自身の理性的で疲れた目になっている。ただ、その瞼の下に、尋常ではない消耗の影が濃い。
「…教授…?」 俺が慎重に声をかける。
潮崎はゆっくりと目を開けた。そして、自分の左手をじっと見つめる。かつて銀色に光っていた部分だ。そこには何もない…いや、よく見ると、ごく微かに、静脈に沿って銀色の筋が、かすかな光を放っているような…気がする。まるで内部に沈んだ銀の川脈のように。
「…光…?」 潮崎がかすれた声で呟く。
沈黙が一瞬流れる。そして――
『…はい…豪さん…』
潮崎の口を動かさずに、彼の胸の奥から、かすかだが確かな天野光の声が聞こえた。優しく、そして安堵に満ちた声だった。
潮崎の目に、大きな涙が浮かんだ。彼はそっと自分の胸に手を当てる。
「…お前は…お前は…そこにいるのか…」
『…ええ…少し…疲れましたけど…大丈夫です…』 光の声は弱々しいが、確かにある。『…黒瀬さん…廻さん…ありがとう…ございます…』
俺は安堵のため息をつく。と同時に、潮崎の左手の微かな銀筋が気にかかる。サムドニクスは完全には消えていない…いや、抑制され、新しい形で共存を始めたのか?
「…成功…と言っていいのか?」 俺が廻に尋ねる。
廻は、潮崎のバイタルを映すホログラムをじっと見つめている。複雑な表情を浮かべる。
「…暴走は収束しました。光様の量子記憶も安定し、教授の精神を侵食することはなくなりました。サムドニクス・ナノマシンの活動は…検知限界以下にまで低下しています」
彼は少し間を置き、潮崎の左手を指さす。
「…しかし、『何か』は確かに残っています。それはサムドニクスの残滓というより…光様の記憶と、サムドニクスの基幹プログラムが、教授の生体情報と融合した、新たな…『共生体』と呼ぶべきものの痕跡です」
潮崎が自分の左手を握りしめる。微かな銀筋が、脈動に合わせてかすかに明滅している。
「…これは…何なんだ…?」 教授の声は、恐怖よりも、深い驚きと探究心に満ちていた。
「現時点では不明です」 廻はクールに分析を続ける。「しかし、一つ言えることは…サムドニクスが真に目指していた『魂の情報の記録・再構築』という機能の、極めて原始的な…しかし、純粋な形が、ここに生まれた可能性があります」
廻の銀色の左目が、鋭い光を宿して俺を見る。
「…銀子が街にばら撒いたナノマシン残滓は、単なる触媒でした。しかし、それが引き起こしたのは、単なる暴走ではなく…『進化』の一端だったのかもしれません」
その言葉に、研究室が急に寒く感じられた。窓の外、冥界市の夜明け前の闇が、いつもより深く、重く感じられる。潮崎の左手の微かな銀の脈動が、サムドニクスの持つ恐るべき可能性と、人間の魂がテクノロジーと融合する危うい未来を、静かに、しかし確かに予感させていた。
俺は魂鉄義肢のひび割れた表面を見つめ、呟いた。
「…終わったわけじゃ…ないんだな…」
夜明けの光が、窓から差し込み、潮崎教授の左手のかすかな銀筋を、神秘的に照らし出した。
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