第12話:幼き幻影と紡ぐ、赦しの二重奏(デュエット)
漆黒。
無音。
重い闇が全身を覆い、意識の断片だけが漂う。痛みは…ない? いや、ある。魂鉄の左腕が、焼けるような痺れと共に、深い場所で悲鳴をあげている。『神経接続:重度の損傷』『構造的完全性:45%』。警告表示が、闇の中で幽鬼のようにちらつく。
——ザッシャーンッ!!!!!
あの光景が脳裏を貫く。幼き幽子の幻影が振り下ろした、稲妻のような光の刃。盾を、そしておそらく俺の肉体をも切断する破壊の一撃。
「…がっ…!」
酸欠状態の肺が、突如として冷たい空気を吸い込んだ。視界が白く飛ぶ。激しい咳き込みが体を震わせる。痛みが遅れて襲ってきた。全身、特に左半身が、鈍器で殴られたような鈍痛に包まれる。締め付けられていた…あの蔓だ。
「…っ…! ゆ…ず…る…」
かすれた、しかし必死の呼び声。目を凝らす。視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
まず見えたのは、崩れ落ちた俺の体を必死に支えようとする幽子の腕だった。彼女の顔は涙と泥で汚れ、絶望とわずかな希望が入り混じった表情をしていた。そして彼女の背後——あの巨大な花の中心から飛び出した怪物が、歪んだヴァイオリンの弓を凶器のように構え、再び襲いかかろうとしている!
それは紛れもなく、深層心理で見た幼い硯川幽子の姿を下敷きにしている。しかし、今そこにあるのは、純粋な無垢や悲しみを超越した、異形だった。
半透明の魂鉄と、暗く蠢く量子記憶の光が混ざり合った不定形の身体。長い黒髪は無数の細い触手となり、空気を切り裂くようにうねっている。顔は幼い幽子の面影を残しつつ、目は深淵のように空虚で、口は歪み、音もない絶叫を永久に続けているかのようだ。手に持つヴァイオリンと弓は、魂鉄の鋭い棘と刃へと変質し、不気味なオーラを放っている。その一振りごとに空間が歪み、触れた植物は瞬時に灰と化し、記憶を剥ぎ取られる!
「…動くな…幽子…!」
声がかすれる。喉が焼けつく。左腕の義肢は、先ほどの防御と衝撃で深刻なダメージを負っている。動かそうとすると、断線した神経を掻き毟られるような鋭い痛みが走る。
「でも…あれは…!」 幽子の声が震える。怪物の視線が、冷たく彼女を捉えている。
『通信再接続…譲さん、応答を!』 廻の声が、耳元の端末から切迫したトーンで響く。『現状分析! 中心部から出現したエンティティは、幽子さんの深層心理に存在した「核となるトラウマ(無力な過去の自己像)」が、過剰な魂鉄エネルギーと量子記憶を吸収し、擬態生命体として実体化したものです!』
「…当たり前だ…見りゃ分かる…!」 必死に呼吸を整える。地面に手をつき、体を起こそうとする。左腕が言うことをきかない。
『物理的破壊は絶対に不可!』 廻の警告は鋭い。『その存在は幽子さんの精神構造と量子レベルで深く同期しています! 破壊すれば、幽子さんの人格そのものが崩壊するリスクが97%を超えます!』
「…じゃあ…どうしろと…!」 俺の苛立ちが声に滲む。目の前で怪物が、ゆっくりと、しかし確実に弓を振りかぶっている。あの一撃が直撃すれば、幽子もろとも粉砕される!
『唯一の解決策は「調律」です!』 廻の声に、緊迫した状況下でさえ、わずかな驚きが走る。『その存在は「歪んだ記憶」と「暴走した願望」の塊です! 黒瀬譲、貴方こそが「記憶の調律師」でしょう!? それを調律するのは貴方の仕事です!』
…調律? あの怪物を?
冗談じゃない。今の左腕の状態で、どうやって? 相手は物理的な破壊力を持つ実体化したトラウマだ。こちらの言葉が通じるはずも——
その時、怪物が動いた。
「ぎゃああああああっ!!!」
現実の幽子が悲鳴を上げた。怪物が放ったのは光の刃ではない。弓の一閃と共に放たれたのは、無形の衝撃波だった。それは物理的な破壊ではなく、記憶そのものを分解し、存在を無に帰そうとする「忘却の波紋」だ!
幽子がヴァイオリンを必死に掲げて防ごうとする。楽器が青白い光を放ち、盾となる。しかし——パキッ! ヴァイオリンの表面に亀裂が走る! 幽子の顔がさらに青ざめる。彼女の記憶…彼女の存在そのものが、直接揺さぶられている!
「やめろっ!!」
怒りが、痛みと疲労を蹴散らす。左腕が重くとも、体が先に動いた。ダメージを受けた義肢を無理矢理動かし、倒れているそばの魂鉄製の庭園の柵の破片を掴み、怪物めがけて投げつける!
ガシャン!
破片は怪物の数メートル手前で、見えない壁に阻まれ、粉々に砕け散った。怪物は、ゆっくりと首を傾げ、初めて俺の方を向いた。空虚な瞳に、ほんのわずかな…興味のようなものが光ったか?
「…見ろよ…」 俺は喘ぎながら、怪物に語りかける。声は枯れているが、意志だけは揺るがない。「お前が傷つけようとしてるのは…『今の幽子』だ。お前が…『あの時の自分』が守りたかったはずの、未来の姿だぞ?」
怪物の動きが、一瞬止まった。歪んだ顔に、わずかな困惑の影が走る。
「…譲…さん…?」 幽子が、怯えながらも呟く。
「幽子!」 俺は彼女を見据える。ヴァイオリンを抱えた彼女の指は、まだ震えている。「あいつの正体は…お前の『過去』だ! お前が乗り越えようとしてる…いや、乗り越えきれなかった痛みそのものだ!」
幽子の瞳が大きく見開かれる。
「こいつは…お前の言葉なんか聞く耳持たねえ! お前の奏でる『癒やしの音』なんて、こいつの耳には偽物にしか聞こえねえんだ!」 俺は魂鉄の左腕を、グロテスクに歪んだ継ぎ目を晒しながら、怪物に向けて掲げる。「…だがな! こいつの言葉なら…お前は知ってるはずだろ!?」
「…え…?」
「音を出せ、幽子!」 俺の声が庭に響き渡る。「お前の本当の音を! 悲しみも、後悔も、無力感も、全部込めてぶつけろ! 隠さず、飾らず、そのままの音を! それを聴かせてやるんだ、『あの時の自分』に!」
俺は、ダメージを受けた魂鉄義肢の内部回路を、強引に活性化させる。警告音が狂ったように鳴り響く。『オーバーロード! 緊急停止を推奨!』 無視だ。義肢の表面から、銀色の光の粒子が、傷ついた獣の血のように噴き出し始める。
「…俺も…手伝う…!」 歯を食いしばる。激痛が全身を走る。「俺の…『救えなかった無力感』と…『それでも立ち上がる決意』の音を…聴かせてやる…!」
それは、記憶を珈琲豆に転写するのとは次元の違う行為だ。自らの魂の奥底にある、最も生々しい感情の記憶を、魂鉄を介して音と光として直接、外部に解放する! 義肢が軋み、悲鳴をあげる。視界が歪み、祖父の事故の光景がフラッシュバックする。無力だったあの日…それでも星蝕亭を守ると決めたあの夜…!
ヴォオオオオーン…!!!
魂鉄の義肢が、深く重い、地響きのような共鳴音を発した。それは美しい旋律ではない。歪み、軋み、痛みに満ちた、魂そのものの叫びだった。その音に合わせて、銀色の光の奔流が義肢から噴出し、渦を巻きながら俺の周囲を覆う!
幽子の瞳に、一瞬の迷い、そして決意の光が灯った。
「…わ…かった…!」
彼女は深く息を吸い込む。震えていた指が、弦の上で固まる。目を閉じ、そして——魂を込めて弓を引いた!
最初の一音は、歪んでいた。ヴァイオリン本体の亀裂が影響しているのか、それとも彼女自身の感情の高ぶりか。しかし、その音はすぐに、圧倒的な力と切なさを帯びて庭を駆け抜けた!
それは「癒やし」でも「鎮魂」でもない。瓦礫の前で泣く幼い自分への怒り。救えなかった無数の魂への慟哭。全てを背負い込もうとした愚かさへの自嘲。そして——それでもなお、音を紡ぎ続けることへの、狂おしいほどの執着!
ギイイイイイィィ…!! ゴオオオオ…!! ウィィィィィィーン…!!!
幽子のヴァイオリンが奏でるのは、決して調和した音楽ではない。荒れ狂う感情の奔流そのものだ。音は歪み、不協和音を炸裂させ、時に耳をつんざく悲鳴にも似ている。彼女の全身から、演奏と共に青白い光の粒子が吹き出している。彼女自身の生命力…魂の輝きが、音と共に解放されているのだ!
俺の義肢から放たれる「無力感と決意」の重い共鳴音が、それに重なる。二つの音——二人の叫び——が、暴走する記憶の庭で激しく衝突し、絡み合い、そして次第に奇妙な共鳴を始めた!
怪物(幼き幻影)は激しく抵抗した。無数の触手を鞭のように振るい、口を歪ませて無音の絶叫を上げ、二人の音を打ち消そうとする。しかし、幽子の奏でる「偽らざる感情の音」は、怪物の本質たる「過去の痛み」に直接響く。
怪物の動きが、明らかに鈍る。異形の身体が、光の粒子と闇の渦の間で激しくうねり、形が不安定になる。その空虚だった瞳に、初めて感情の揺らぎが映った。それは…困惑。そして…理解への渇望?
「…今だ…! 幽子…!」
俺は痛みを振り切り、一歩、また一歩と怪物へと歩み寄る。義肢から放たれる光の奔流が、俺の道を照らす。幽子の演奏は、さらに激しく、切迫したものになる。彼女の目には涙が溢れているが、弓を引く手は迷いを捨てて力強い。
「…見ろよ…『お前』…」
俺は怪物の眼前に立つ。異形の、しかし確かに幼い幽子の面影を残す顔が、歪みながらも俺を見上げている。その距離から、ヴァイオリンと弓が凶器ではなく、歪んではいるが楽器であることがはっきり分かる。
「…分かるか…? お前の痛みも…悲しみも…全部本当だ…俺にも…痛いほど分かる…」
俺の魂鉄の右手が、ゆっくりと伸びる。怪物が警戒して身構えるが、攻撃はしない。
「…でもな…」 俺の声は、渇ききっていながらも、確かな意志を宿す。「…それでも…立ち止まってるわけにはいかねえんだ…」
右手が、怪物が持つ歪んだヴァイオリンの弓に触れる。冷たい。魂鉄の感触。しかし、その奥に、微かな震えを感じる。
「…お前が…『今の幽子』になるために…乗り越えなきゃいけなかった痛みなんだ…」
ヴオオオオ…
俺の魂鉄義肢が、最後の力を振り絞るように強く輝く。その光が、俺の「祖父を救えなかった無力感」と「それでもこの街と共にあると決めた覚悟」の記憶を、温かくも確かな共鳴として、怪物の持つ弓へと流し込む!
「…乗り越えろ…幽子…! お前なら…できる…!」
——ぎゃああああああっ!?!?
怪物が、突如として鋭い悲鳴とも咆哮ともつかない声を上げた! その身体が激しい光を放ち始める!
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