4話 - 逆さまの秒針

「全員、正気に戻せ!黒瀬!」


 時雨が叫ぶ。その声には、もはや余裕のかけらもなかった。

 俺は頷くと、キッチンカウンターへと駆け戻った。豆を掴み、ミルに放り込む。俺にできることは一つだけだ。


「記憶珈琲……鎮静ブレンド!」


 暴走する記憶の奔流に精神をかき乱されながら、俺は全神経を集中させる。左腕の魂鉄義肢を通して、店内に渦巻く憎悪の正体を探る。怨み、妬み、そして深い、深い孤独。この記憶の持ち主は、長い間、誰にも気づかれずに苦しんでいた。


 豆を挽き、湯を沸かす。立ち上る湯気の中に、俺の右目は断片的な映像を捉えた。――アウグリア。未来の可能性や、深層心理を映し出す俺の力だ。

 暗い屋根裏部屋。質素なベッド。窓から見えるのは、豪華な屋敷の庭。そして、その庭で楽しげにダンスを踊る、主人の夫婦の姿。

 違う。この視点は、亡くなった老婆のものじゃない。


「どうしてだ……なぜ、こんな記憶が……!」


 時雨は自らの懐中時計を握りしめ、震えていた。その左腕で、魂鉄が埋め込まれた時計が、彼の心臓と同期するように不規則なビートを刻んでいる。


「俺は……また、しくじったのか……!」


 彼の口から、絞り出すような声が漏れた。

「昔、愛した人がいた。彼女は病で、日に日に弱っていった。俺のこの時計は……無情にも、彼女の死期を正確に告げた。あと七日、と。だが、俺には何もできなかった!医者でもない俺には!ただ、その時が来るのを待つことしか……!」


 時雨の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「だから、誓ったんだ!もう二度と、ただ見送るだけの時間にしない、と!せめて、残された記憶だけでも、安らかにしてやりたい!そのために、俺は……!」


 彼の絶叫が、暴走する記憶の叫びと重なる。

 そうだ。時雨のトラウマと、この暴走する記憶は、どこか似ている。無力感と、拭えない後悔。


 だが、俺は確信していた。湯気に映った映像は、老婆ではなかった。もっと若く、小柄な、一人の少女の視点だった。

「時雨!しっかりしろ!」俺は淹れたての珈琲をカップに注ぎながら叫んだ。「この記憶は、あんたが思っているものじゃない!これは……この記憶の持ち主は、老婆じゃない!」



 俺の言葉に、時雨ははっと顔を上げた。

「……違う、だと?」


「ああ!これは、老婆に仕えていた、若い使用人の記憶だ!」


 俺は確信を持って断言した。記憶結晶に混入していたのだ。主人の幸福をすぐそばで見つめながら、報われぬ想いと孤独を抱え、誰にも知られずに死んでいった、名もなき使用人の魂が。彼女の強すぎる残留思念が、老婆の幸福な記憶に共振し、暴走したんだ。


 時雨は呆然と、憑依された夫婦と、宙に渦巻く憎悪の記憶を見つめた。彼の脳裏に、何もできずに見送った、かつての恋人の姿がよぎったのだろう。彼の顔が、苦悩に歪む。


 だが、次の瞬間、彼の目に強い光が宿った。


「そうか……そうだったのか……」


 彼は震える手で、自らの逆回転式時計を強く握りしめた。

「俺は、間違っていた。時間を巻き戻すことも、死の運命を変えることもできない。だが……!」


 時雨は立ち上がると、憑依された夫婦の間に、毅然として歩み寄った。

「だが、安らかな時間を与えてやることはできる!死期を告げるための時計じゃない!過去へ還るための、道標だ!」


 彼は暴走する記憶の核――空間に渦巻く、孤独な使用人の魂の残滓――に、真っ直ぐに向き合った。そして、自らの魂鉄懐中時計の蓋を開け、その歯車を、恐ろしいほどの集中力で調整し始めた。カチ、カチ、と金属音が響く。それは、運命に抗う音だった。


「鎮まれ!そして、還るんだ!お前が最も望んだ、幸せな時間へ!」


 時雨は調整を終えた時計を、使用人の魂の核へと突き出した。

 時計の針が、ゆっくりと――逆さまに回り始める。


 その瞬間、店内に吹き荒れていた憎悪の嵐が、ぴたりと止んだ。

 使用人の魂を縛り付けていた怨嗟の鎖が、音を立てて砕け散る。魂は、憎しみの形相から、穏やかな少女の姿へと変わっていった。彼女は驚いたように自分自身を見つめ、それから時雨に向かって、ふわりと微笑んだ。


 光の粒子が、彼女の体を包み込む。

 俺の右目には、彼女の最後の記憶が見えた。屋根裏部屋の窓から、主人のダンスを眺める彼女。その表情は、もはや嫉妬ではなく、ただ純粋な憧れと、ほんの少しの寂しさを浮かべていた。

 魂は、安らかに光の中へと溶けていき、消えた。


 憑依されていた夫婦は、糸が切れたように椅子に崩れ落ち、やがて静かな寝息を立て始めた。星蝕亭に、いつもの夜の静寂が戻ってくる。


「……すまなかったな、黒瀬さん。店をめちゃくちゃにしてしまった」


 時雨は、少しだけ吹っ切れたような、それでいてひどく疲れた顔で、俺に頭を下げた。


「いいさ」俺は肩をすくめた。「おかげで、あんたの時計の、本当の使い方を見れた」


 記憶を弔う。それは過去を改変することじゃない。ただ、その記憶を受け止め、その魂が安らかに還るべき場所へと、道を示してやること。

 俺はカウンターに戻り、自分のために一杯の珈琲を淹れた。その苦みが、やけに心に沁みた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る