星蝕亭の量子珈琲は記憶を映す

銀狐

第1部:サムドニクスは星を消化する

1話 - 星蝕亭の珈琲は冷たい


 鉛色の空が視界を支配していた。


 列車を降りた瞬間、潮風が運んできたのは鉄錆と腐敗の芳香——冥界市の歓迎式だった。携帯の地図アプリは既に狂っており、画面に映る街路は現実の廃墟と同期しない。


 ネットの怪奇現象フォーラムで見た「黒い喫茶店」を探しながら、舗装の割れた路地を歩く。埃まみれの看板が風に軋む音だけが、この街に時が流れていることを証明していた。


「星蝕亭」は突然視界に現れた。煉瓦造りの廃ビルの谷間で、黒曜石の扉だけが異様な光沢を放っている。扉に刻まれた銀河模様が、触れた指先で微かに脈打つのを感じた。


 錆びた呼び鈴の紐を引くと、奥から珈琲豆を挽く音が聞こえてくる。死んだ街の住人に会うような、不謹慎な期待が胸を掠めた。


 内部は外観と違ってモダンな空間だった。天井から吊るされた分子構造図のような照明が、青白い光を撒き散らす。壁一面の棚には、錬金術の実験器具のような抽出機が並んでいる。


 だが最も不気味だったのは、無機質な清潔感よりも、むしろ完璧すぎる「人間らしさ」を計算された内装だ。人の温もりを模したデザインが、逆に非人間性を強調していた。


 カウンターの向こうで、銀河を内包した瞳の男が氷を削っていた。指先の動きが幾何学的で、まるで分子配列を操作する外科医のようだ。彼は氷の破片をグラスに落としながら、私を見もせずに呟いた。


「初見さんはカプチーノがおすすめです。記憶のエキスがよく合います」


 声の質感が奇妙だった。耳朶の奥で共鳴する、合成されたような倍音。メニューには「追憶ブレンド」「トラウマエスプレッソ」といった不穏な名称が並んでいた。私はためらいながらも、祖父の死に関わるという悪夢を解きたくて注文した。


 店主——後に枢(とぼそ)と名乗る男——は珈琲カップの底に、針の先で採血したような一滴の液体を垂らした。それがミルクの渦に溶ける瞬間、店内の空気が歪んだ。


 壁の分子照明が突然血管のように脈動し始め、珈琲の表面に映った自分の瞳が、いつの間にか別人のものになっているのに気付いた。


 飲み干した最後の一滴が喉を通り過ぎるや、視界が暗転した。1998年11月17日午後3時26分——鉱山の坑道で、祖父の懐中電灯が照らし出す光景が脳裏に焼き付く。岩盤を穿つ奇妙な金属光沢。作業員たちの悲鳴。


 そして、地底から這い上がる「何か」が人間の影を飲み込む瞬間。最も鮮明に覚えているのは、祖父が振り向いた最後の表情ではない。坑道の奥で脈動する、生きた鉱脈のような巨大な「目」だ。


「……ッ!」


 現実に戻った時、私はカウンターに額を打ち付けていた。珈琲カップは逆さまになっており、残った液体が黒い血のように広がっている。枢は相変わらず氷を削り続けながら、天体の運行を語るように淡々と言った。


「ご祖父さんは幸運でした。魂鉄に触れても自我を保てたのは0.3%の確率ですから」


 彼の銀河の瞳が、私の恐怖を正確に計測している気がした。この男は人間の感情を、顕微鏡で観察する学者のように扱う。その非情さが、逆に不思議な安心感を生んでいた。恐怖に溺れかけた者にとって、感情のない浮き輪は救いに見えるものだ。


「なぜ私を選んだ?」


「選択したのはあなたの方です」枢は氷削器を置き、初めて真正面から私を見つめた。「量子もつれの原理です。鉱山事故当日、あなたは母胎内で被検体と量子干渉を起こしました」


 窓の外で潮風が唸り、錆びた看板が音を立てて落下した。その轟音さえ、この男の不気味な台詞の余白を埋めるBGMに思えた。


 私はカウンターの上に転がった氷の破片を見つめながら悟った——この邂逅は偶然でも必然でもない。祖父の亡霊と、この異形の店主が、量子のもつれ合いのように私を引き寄せたのだ。


 星蝕亭を出る時、背後から枢の声が追いかけてきた。


「次は骨鳴浜で会いましょう。潮崎さんがあなたを必要としています」


 雨が降り始めた。滴り落ちる水の中に、まだ鉱山の悪夢の残像が揺らいでいる。傘もささずに歩く私の影は、いつの間にか三本に増えていた。

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