空色のうたを食べた日
誰かの何かだったもの
空色のうたを食べた日
音がなくなったのは、僕が十三のときだった。
ある朝目を覚ますと、世界にはもう“音”というものが存在しなかった。鳥は口を開けても鳴かず、風は吹いても葉を揺らさない。人の声も、車の音も、川のせせらぎも、全部――なくなっていた。
最初は耳がおかしくなったのかと思ったけど、学校に行ってわかった。誰の耳も壊れてなどいなかった。壊れたのは、世界のほうだった。
「音が……ない」
誰もがその異変を、目だけで訴え合った。
それから僕らは、筆談で暮らすようになった。笑い声は、笑顔の形に置き換えられ、怒号は拳の震えで伝えられた。けれどどこか、世界は静かすぎて、寂しすぎた。
その寂しさを一番よく知っていたのは、きっと、僕の妹だった。
⸻
妹――ノアは、生まれつき声を出せなかった。喉に障害があり、言葉を話せない。だから、音が消えても、彼女の日常は変わらなかった。けれど逆に、音を“持たない”ことの重さを、彼女は最も深く知っていた。
ある日、ノアは僕にノートを見せてきた。そこには、こんな言葉が書かれていた。
「お兄ちゃん、音が食べられたらいいね。そしたら、誰でも覚えていられるのに」
「音を、食べる?」
僕は笑った。
「味噌汁の味みたいに、耳じゃなくて舌で覚えるの。うたを噛んで、飲み込めたら……絶対に忘れないでいられるよ」
ノアは、少しだけ寂しそうに笑った。
それから一週間後、彼女は突然、息を引き取った。病気だったなんて、誰も知らなかった。
遺されたのは、一冊の青いノートだった。そこには、一篇の詩のようなものが綴られていた。
「うたをつくりました。
このうたは、声じゃなくて、味で伝わります。
食べると、わたしの“おもい”がわかります。
だから、たべてください。お兄ちゃんへ」
⸻
その日から、僕は“うた”を作る方法を探した。
音が消えた世界で、言葉を味に変える方法を。
最初は何もできなかった。けれど、ノアのノートにあったレシピをヒントに、僕は何度も試行錯誤を繰り返した。
塩と砂糖で音の「高さ」を、ハーブで「響き」を、柑橘で「感情」を表現する。文章を“食材”に変換する作業。まるで化学式のように、言葉を材料へと翻訳していく。
そして、ついに僕はそれを完成させた。
「空色のうた」と名づけられた、一皿のスープ。
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一口、口に運んだ瞬間、涙があふれた。
それは、ノアの声だった。
「おにいちゃん、だいすきだよ」
味がした。聞こえないはずの言葉が、舌の上に広がっていく。優しい甘さと、ほんの少しの酸味。あの日、手をつないで歩いた帰り道の香りがした。
「いなくなるの、こわかった。
でも、うたにすれば、残せると思ったの」
僕はスープを飲み干した。涙が止まらなかった。
音のない世界で、ノアは僕に「声」を遺してくれたのだ。
⸻
それから、僕は“食べるうた”をつくるようになった。
亡くなった人の想いを、言葉を、料理にする。
父が泣いた。母が笑った。
誰かのために、誰かの“声”を届ける皿。
音のない世界でも、記憶は消えない。味覚が、心の奥で共鳴する。
⸻
ある夜、僕は空を見上げた。
星が瞬く音も、風が吹く音も聞こえない。けれど、どこか遠くから、うたが聞こえる気がした。
「……ノア、また、作るよ」
静かな夜に、青いノートをそっと開く。
そこには、新しい“うた”のレシピが綴られていた。
⸻
■ おわりに
本作は、音が消えた世界で「味覚」を通じて“声”を感じる少年の物語です。
聞こえなくても、伝わるものがある。そんな思いを込めた一編でした。
空色のうたを食べた日 誰かの何かだったもの @kotamushi
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