最後の晩餐に、何を食べますか?
誰かの何かだったもの
最後の晩餐に、何を食べますか?
古びたアパートの一室に、ゆっくりと夕闇が満ちていく。
小さな卓上ランプが灯されると、空間の端々に漂っていた埃が、かすかに金色を帯びて踊り始めた。時計の針が午後六時を告げると、部屋の主である老爺――榊原篤(さかきばら・あつし)は、ふうとため息を吐いて椅子に腰を下ろした。
テーブルには、粗末な陶器の皿が一つ。今日の晩餐は、鮭の塩焼きと味噌汁、それにぬか漬けの胡瓜。
「……つまらん食事だな」
榊原は自嘲気味に呟き、箸を持った。そのとき、玄関の扉がノックされた。
こんな時間に、誰が。
警戒心と好奇心を胸に抱きながらドアを開けると、そこには若い青年が立っていた。真っ黒なシャツにジーンズ、長身で目つきが鋭い。だが不思議と、敵意や悪意は感じなかった。
「こんばんは。食事中、すみません」
「……あんた、誰だ」
「哲学の営業です」
「は?」
「失礼。食に関する、哲学的な対話を売って歩いている者です。あなたのような“味の分かる人”を探していました」
怪しい。だが、この“胡乱さ”には、何か魅力があった。
「……いいだろう。入れ」
そして、奇妙な晩餐が始まった。
⸻
「あなたは、なぜ食べるんですか?」
開口一番、青年はそう訊いた。
「なぜって……腹が減るからに決まってる。栄養を取らなきゃ生きられん」
「では、その“生きる”ということ自体に、どんな価値があります?」
「……」
榊原は箸を止めた。沈黙が、部屋を埋める。青年は微笑み、皿に目を落とす。
「今日の料理、とても丁寧に作られていますね。きっと、誰かのために作るように、心を込めた」
「……昔は、妻がね。よく作ってくれたんだよ。もう十年前に亡くなったが」
「なるほど。では、あなたは今でも、彼女のために料理しているんですね」
「……バカなことを言うな。死んだ人間のために、飯なんか作るか」
「でも、誰も見ていなくても、おいしい飯を作る。これはつまり、“自分”のためじゃない。“記憶”のためなんじゃないですか?」
榊原の手が止まる。そうだ。妻がよく作っていた味を、なぞるようにして今も作っている。味の記憶が、彼の食欲を支えていた。
⸻
「人は、なぜ“最後の晩餐”に意味を持たせようとするんでしょうね」
青年がぽつりと呟いた。
「死ぬ前の食事。普通なら何でもいいはずなのに、多くの人が“好きなもの”を望む。“思い出の味”を求める」
「……最後くらい、好きなもん食いたいってだけじゃないのか?」
「それはつまり、人生の“答え”を味覚で出そうとしているとも言えます。あなたにとっての人生とは、どんな味でしたか?」
「……苦くて、しょっぱくて、少しだけ甘い。そういう味だな」
榊原の声は、どこか遠くを見ていた。
「息子に絶縁されて、友人もいない。妻も死んで、いまや誰も来やしない。それでも毎日、飯を作って食ってる。……何のためだろうな」
「その問いの答えを、“あなたの最後の晩餐”で出してみませんか?」
⸻
翌日、榊原は決意した。
最後の晩餐を、自分の手で作ってみよう。自分という人生の“答え”を、皿に乗せてみようと。
彼はかつて、息子が幼い頃に好んでいたハンバーグを作った。中にはチーズと玉ねぎ。外側はカリッと、内側はジューシーに。
味噌汁は、妻の得意だった赤だしにした。豆腐とわかめだけの、あっさりしたもの。
漬物は、母親が作っていたぬか床を再現した。幼い頃、口にして泣いたほど塩辛かったあの味だ。
一皿一皿に、誰かの顔が浮かぶ。笑い声が、遠い記憶の中から漂ってくる。
そして、青年が来た。
⸻
「素晴らしい香りですね」
「これが、俺の最後の晩餐だ」
「……食べて、いいですか?」
「一緒に食おう」
二人は静かに、ゆっくりと料理を口に運んだ。味は格別だった。榊原の目から、静かに涙がこぼれた。
「……ありがとうな」
「いえ、私の方こそ」
「なあ。あんた、何者なんだ」
青年は笑った。
「ただの“空腹”ですよ。人が生きるために生まれる、空腹の象徴。あなたが生きようとしたから、私はここに来たんです」
「……そうか。じゃあもう、腹は満たされたか?」
「ええ。おかげさまで」
⸻
青年が帰った後、榊原はその夜、穏やかな眠りについた。
次の日、彼は静かに息を引き取っていた。テーブルの上には、洗い終えた皿と、書きかけのメモ。
そこにはこう記されていた。
「人生とは、食事である。人は、誰かのために料理をし、誰かの味を覚えている。
そして、最後の一皿を選ぶとき、自分の人生に初めて“意味”が生まれる」
⸻
■ おわりに
この物語は、「食べる」という日常的な行為にこそ、人間の深い哲学と存在理由が込められていることを描いています。
最後の晩餐にあなたが選ぶ一皿は、いったいどんな味でしょうか?
最後の晩餐に、何を食べますか? 誰かの何かだったもの @kotamushi
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