その翡翠き彷徨い【第25話 そこに在る証】
七海ポルカ
第1話
『運良く陛下に拾われただけだろうが』
すれ違い様にそんな言葉を言われたのは、このサンゴール王立魔術学院に入学して間もない頃だった。
十五歳の春、メリクは晴れて魔術学院に入学した。
元来勉学に対して好奇心旺盛なメリクは、確かに他の学生と同じように当初は初めて立ち入る学院という未知の領域に期待し、心躍らせていた部分もあるだろう。
何かが劇的に変わるような……そんな気がしていたのかもしれない。
ただし予感と願望は全く別のものだった。
誰に紹介されるまでもなく【サダルメリク・オーシェ】の名はすでに学院中に広まっていた。その彼が入学して来ることも。
――女王の養子の「ような」男。
そんな冗談みたいな存在は今までは陰で笑われるだけだった。
だがこの学院に入ってそのことに対して、メリクは別の感覚を向けて来る人間がいることに早々に気づき始める。
初めて向けられる目だったが……何だろうかと考えているうちに分かったのだ。
それは、恐れと煩わしさ。
目障りな者を見る時の目。
ここが大陸中でも屈指の学務機関ということは知っていた。
サンゴールの魔術学院を出れば、とりあえず一通りの知識人としてどの国でも認められることになるのだから。
そのため、もちろん誰もが入れる場所ではない。
入ったあともそれで安泰ではなかった。
四カ月に一度総学のテストがあり、そこで一度でも一教科でも基点以上を取れなかったら、容赦無く退学を宣告される。
猶予を与えるような制度は一切無く、一瞬たりとも勉学から心を離したいのなら、どうぞ出て行ってもらって構わないというのが、この学院の決まりである。そうしたとしても入りたいと望んで押し掛けて来る学生は、掃いて捨てるほどいるのだ。
それもそのはず、この魔術学院に隣接するもう一棟の研究棟は【知恵の塔】と呼ばれ、サンゴール宮廷魔術師団の本拠地になっている。
学院の更に上にはいつも学びを旨とする彼らの存在が在り、それは学生の知識とは比べ物にならない。
学生達は国に戻れば、それぞれが第一級の知識を持っていると呼ばれても、ここで学生でいる限りいつも劣等感を感じなければならなかった。
上には上がいると思って奮起すればいいが、中にはそう思えず心が折れそうになっている人間も大勢いるのだ。
そんな緊張感ある日常に、彼らがいずれ仕えるべき王城から突然一人の少年が送られて来たのだ。
女王の養子のような、という曖昧な立場も彼らの緊張した神経をさぞかし逆撫でたのだろう。
自分達と同じなのに、自分達とは違う。
平民でありながら今まで王宮で第一級の教育をのうのうと受けて来たのだ。
採点の鬼である冷徹な魔術学院の教官でさえ彼の前では勢いを失うのだから、他の学生がそれを特別視だと思って苛立つのは無理もない。
【鋼の女王】と呼ばれるアミアカルバの庇護と、
王女ミルグレンからの親愛と、
宮廷魔術師団を事実上統括する【魔眼の王子】リュティス・ドラグノヴァ唯一の弟子。
眩いばかりの特異な環境に囲まれて――。
囲まれて、皮肉なことに……そして当然ではあるのだが、メリクは表面上は普通の少年だった。
アミアのような覇気も無く、華も無く、
ミルグレンのように愛さずにはいられないような、心を溶かすしか無いような雰囲気も持たず……そしてリュティスのように、例え恐れ疎まれようとも本人を目の前にしては必ずその口を塞ぎ、黙らせるような圧倒的な存在感も無い。
競争社会であるこの王立学院で、メリクがそうあることを本当に期待して望んだ人間はいない。
だがそうでないならないで、彼らは何故だと訝しむ。
平民であるからという答えを知っていながら、彼らはまるでそういう事情を揃えたメリクが自分達より勝っていて当然ではないかと考えるのだろう。
だが事実は――メリクは幼くして帝王学を叩き込まれて来たわけでもなければ無論、玉座に関わるなどという話題を投げ掛けられたことも無い。むしろ、その逆なのだ。
メリクの教育環境がきちんと整ったのはこの数年のことであり、リュティスが順を追って教えてくれる魔術以外の知識は、ほぼ独学に近く偏っているものが多い。その偏りのある知識の波を、平らにする為にこの学院に来たのだとメリクは思っていた。
だから、魔術学院に入る為に血の滲むような努力をしてここに集った人々なら知っているはずのことを、まだ知らないことも沢山持っている少年だったのだ。
メリクはむしろそれを学んだ時にこそ、来た甲斐があると嬉しさを覚えていたのだが、その他愛無ない喜びさえ他の学生にとっては反感を掻き立てるものだったのだろう。
その程度のことを知らなくて何故ここへ入って来れたのか、という噂がたちまち広がり、結果として女王陛下に関わる者だから特別扱いをされているのだという話にまとまってしまった。
知識の量のみを評価されている彼らからしてみれば、特別扱いなどというやり方で自分達の領域に入って来る人間は、卑怯以外の何者でもないという思いがあったのだろう。だから学生達は皆メリクを異端を見るような目で見て来る。
冷徹であろうとも公平に評価されている、ただそれだけが日々を過ごす支えだった人間達にとって、アミアカルバに拾われたというだけで将来の安定を約束されているメリクは、忌むしか無い存在だった。
不協和音には、早くに気づいていた。
何故そうなるのかもメリクは分かっていたから、ただ黙って日々をやり過ごして行くだけだ。
僕は将来を約束などされていない。そういう主張が何の意味も無いことを彼はよく知っていた。
そんな時、すれ違い様に二十代半ばほどの学生三人がそんな風に呟いた。
『運良く陛下に拾われただけだろうが……』
目障りだ、と向けられたその目が忘れられなかった。
メリクは自分は果たして運がいいのだろうかと考えていた。
確かに……一理はある。
そもそも覚えてはいないが、故郷の惨状を思えばあの中で一人無事だったというところが、すでに幸運だったと言えるだろう。
拾った相手がアミアであったというのも救いだった。
それまで決して裕福だったとは言えない暮らしをしていたメリクが、迷うような大きな城、食べるものも着るものも一級品のものを与えられるようになったのは、全ては彼女に拾われたからだ。
アミアはメリクを自分の娘であるミルグレンと、何一つ区別する事無く愛情を与えてくれた。
不運であったはずが無い。
でも。
メリクは何も自分の幸運に溺れたわけではない。
めまぐるしく変わる環境の中で、気を抜けば自分を見失いそうな中で……リュティスに出会い、その宿縁を信じ、その宿縁を守る為に魔術を見つけた。
それは決して運命に流されたのではなく、メリクが自分の手で選び取ったものだ。
何故なら。
(僕が手を放せば)
それはすぐにでも無かったことになるだろうから。
リュティスはメリクの前から去り、二度と会うことも無くなる。
そして魔術も、リュティスが存在しなければ志しても仕方のないものだった。
魔術という世界は好きだ。
……でも好きなだけでは、ここでは生きられない。
メリクは魔術の先にリュティスという存在を、いつだって結びつけて見ている。
リュティスの前に行くのは今でも怖い。
彼の前だと一瞬たりとも気が抜けなかった。
リュティスに失望されたり本気で遠ざけられたら、本当にリュティスが限界だと言えばアミアはリュティスを選ぶだろう。
それほどリュティス・ドラグノヴァの生きる世界というものは切迫しているからだ。
それに比べてメリクの生きる世界は平凡だった。
何か一つ失ったところで少し悲しくても、命を失うようなことは無い。
自分が王城にいるという違和感を、ここで叫んで何になるだろう?
誰にも理解出来ない。
何故なら彼らはそれを聞いたってこう返すのだろう。
『その違和感だって分不相応な幸運で得たものじゃないか』と。
魔術学院に入ると世界は広がるのではないかとメリクは思っていた。
だがそんなことはなかった。
むしろ狭まっただけだ。
こんなに大勢の人間がいるのに共感出来る人間は一人もいなかった。
……結局また手元に残ったのは、知識を得るという暇つぶしだけ。
メリクは人の少ない書庫の一画で本を捲りながらつい、ふっ……と笑ってしまった。
(でも……知識を得るのは好きだけど)
これが暇つぶしなら、よほど相性が良かったんだろうなと思う。
自分がもし勉学を嫌うタイプの人間だったらとても生きてはいけなかっただろう。
(じっと過ごすには一日は長過ぎる)
それは【契約の儀】直後から訪れた、リュティスと離れて暮らした三年間がすでに教えてくれた。
周りに誰もいなくなり――学ぶ時間だけが手元に残る。
それに退屈しないのだから、まあ運が良かったと言えば、言えるのだろう。
鐘が鳴った。
メリクは立ち上がると次の講義が行われる大講義室へと向かった。
当初はこういう大講義室では、まるで腫れ物に触るように例によって「女王の養子だ」とメリクの周りには人が寄ろうともしなかったのだが、メリクがあまりに普通でいて目立たない平凡な少年だった為、騒ぎは早々に収まったのである。
メリクは環境柄人の視線や注目を集める少年ではあったが、性格上、人の群に溶け込むのは得意な方だった。
今ではサダルメリク・オーシェの名は知っていても、顔と一致していない人間の方が多いだろう。
高い天井に続く窓硝子から、春の温かい光が差し込んでいる。
その中で教官が来るまでの時を、軽く目を閉じて頬杖をついていた時だった。
「――なぁ……」
つんつん、と突然背中を突つかれる。
ぼんやりしていたメリクは再度突つかれた時に、気づき振り返る。
「……あ、はい?」
「ごめん。寝てた?」
そこに、ありとあらゆる年代の人間が入学して来る魔術学院では、若い部類に入るだろう、メリクの数歳上くらいの青年がいた。
くるくると癖の付いた茶色の髪と、同じ色の目をしている、明るい表情の青年だった。
「いえ、」
「な、教本忘れちゃったんだけど、見せてくれないか。隣行っていい?」
「え……あ、は、はいどうぞ……」
メリクが慌てて、隣においていた荷物を椅子の下に下げると、青年は良かったー! と笑顔で胸を撫で下ろし、そのまま机を越えてメリクの隣に着席して来る。
「今日のところは絶対覚えておかないと、オレ真面目に退学になるからな」
彼は独り言のように呟いた。
メリクが何かを言おうとした時、部屋に教官が丁度入って来た。
学生達は立ち上がり教官に一礼した。
教官が挨拶をして着席すると学生達も着席する。
座った途端、隣からノートの端を差し出された。
そこには走り書きで「ごめん! 自己紹介とお礼はあとで」と書いてあった。
隣で教官の目に留まらないよう素知らぬ顔をしている青年に、メリクは思わず笑いそうになり、頷いてから前を見て講義に集中することにした。
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