第2話
タワーマンションの影が見下ろしている。
朝の東京医大通り。希望と絶望と、現実の忙しない足音に満ちていた。
公園の炊き出しの列のみが、影に切り取られている。
男たちに会話は無い。
ただ、ニット帽と軍手とジャンパーが、桜を眺めていた。
花は散る。
風に揺られたそれは、カレーの鍋を飾る。
ニット帽が視線を上げた。
軍手はポケットに手を入れた。
ジャンパーの背中が丸くなる。
神父はただ、桜の花びらを皿の外に滑らせた。
「主の平安を」
カレーが動いて行く。
市販のルーに痛みかけの安い根菜。少しの鶏肉。喜捨された米。
鍋は減る。米も減る。列は減らない。
奉仕者は列を見ない。
「あの人、三回お代わりしたわよ?」
「良くそんなに入るわね、まぁ普段ろくな物食べれないんでしょうけど……」
「しょうがないわよ」
神父はそれを背中で聞いた。
マリア像はここにはなかった。
ロザリオが神父の動きに合わせて揺れる。
タワーマンションの後ろ、十字の光の筋は公園だけに影を落とした。
皿が戻る。スプーンはなかった。
人参の欠片だけが残っていた。
「さて、神父様、そろそろ片付けしますか。だいぶ行き渡ったようですし」
一人がそう言って鍋を手に取る。
中には少し、ルーが残っていた。
遠くの桜の上。カラスは毛づくろいをする。
薄紅は黒点を覆い隠していた。
「失礼、お手洗いに行ってきます」
「あら、どうぞごゆっくり」
神父は主婦たちの軽やかな話し声に背を向ける。
声はどこまでも追いかける。
隣接する高校の鐘がなる。
告解はしない。
公衆トイレ。
発酵した臭気と湿度は、朝の冷気を拒んでいた。
便器は泥に汚れ少し欠けている。
前に立ち、尿を放つ。
小さく息を吐く神父。
水音が響く。
隣の便器に影が差した。
ジャンパーは何も言わない。
神父も何も言わない。
ただ、吐き出していた。
カラスが鳴いた。
ジャンパーが口を開いた。
「……カレーもいいが、たまにはオムレツとか食いてぇな」
視線は交わらない。
声だけが、公衆トイレに鈍く響く。
「……考えておきます」
神父の声にジャンパーが呻く。
「よせよ」
水音は、とうに止んでいた。
ジャンパーが丸まり、シワができる。
「……俺だって、若い頃は違ったさ
でもなぁ、ムリなんだよ。……もうムリなんだ……
なぁ、だめか神父さん。
ただ飯食って、糞して寝るだけじゃ」
「…………」
黙ってズボンに裾をしまい。便器の前で十字を切る。
嗚咽が響く。
高校の、鐘がなる。
ジャンパーにシワができる。
シワは、すぐに張り詰めて消えた。
「……俺はなぁ、アンタぐらいの歳の頃は、会社経営だってしてたんだ。しかも、三つだ。
金も女もいくらでも手に入ったんだ。
あんな粗末なカレーじゃなくて、銀座の一流レストランのカレーだっていくらでも食えた。
できるか? アンタにはできるのかよ?」
神父は答えない。
応えないことで、答えていた。
ジャンパーは薄汚れていた。
ゴミ捨て場で、拾ったジャンパー。
発酵した臭気に、タバコの香りが僅かに混じった。
「……何か言えよ、黙ってないで」
ジャンパーが覗き込む。
マリア像はない。
ロザリオが裏返った。
カラスが鳴く。
神父は微笑んでいた。
高校の鐘が鳴る。
懺悔は公衆トイレに響いている。
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