第27話 祝福の前夜に宿る想い

 

 王都の空に、淡い星がひとつ、瞬いていた。

 春の終わりももう近い。

 そして明日は、アリア・フェルネストが、王太子妃として正式にその道を歩み出す日でもある。


 王宮には、朝から慌ただしさの波が押し寄せていた。


 華燭の典に向けて最後の準備が行われ、花飾りや衣装、招待客の席次、供される料理や飲み物の順にいたるまで、すべてが入念に整えられていく。

 王宮に従事する者のすべてが明日のために寸暇を惜しんで自分の持ち場の対応をしている。

 でも誰もが自然と笑顔になっていた。


「この白銀の刺繍は、王妃殿下のお気に入りの意匠です。

 アリア様のお衣装にも、同じ意匠をパールをふんだんに使ってあしらってございます」


 衣装係の侍女が手にするのは、アリアのために仕立てられた式服――淡い光を帯びた、アイボリーのドレスだった。生地には光の加護を象った金糸の織りが施され、動くたびに陽光のような柔らかな輝きを放つ。


 サラベス王妃も、厳しくも温かいまなざしでその衣装に目を通し、侍女たちに指示を与える。

 特に専任侍女のエミルは緊張しながら王妃の指示をメモして確認する。


「髪と肌の手入れは完璧に。明日の主役はアリアなのだから、何よりもアリアが輝くように支度をお願いね」


「アリア、あなたも自分を誇って堂々としてね。

 睡眠不足が最大の敵よ。

 そうならないように、香などを使ったりして――」


「はい……ありがとうございます、お義母様」


* * *


 その夜、王宮の晩餐は朝に胃もたれなどを残さないように適量に、軽やかに行われた。

 ごく近しい者たちだけで囲む、静かであたたかな食卓。

 王宮内の緊張感がふっと溶け、自然と笑みがこぼれる。


 食後のティータイムではサラベスと二人になるタイミングがあり、話をした。


「明日はいよいよ“王妃への第一歩”となる日ね」


「……まだ、身に余る気がしています」


「そうかしら? 私は、あなたほど“その日にふさわしい人”はいないと思っているわ」


 アリアは一瞬、胸に熱いものが広がるのを感じた。


「あなたが苦しみを乗り越えてここに立っていること、私は知っています。

 誰かに頼らず、自分の力で立ち上がった姿をこの目で見てきたもの」


 サラベスはアリアのそばに歩み寄ってその手を取った。


「王妃とは、ただ王の隣に立つだけの存在ではないの。

 民の痛みを知り、共に涙し、支えること――。

 あなたがこれまでしてきたこと、それがすべて“王妃の在り方”です」


「……そんなふうに言っていただけるなんて、恐縮です」


「あなたにはいま以上に誇りを持ってほしい。

 この先、どれほど困難なことがあっても、今日のあなたの心を思い出して――

 そうすれば、きっと大丈夫」


 アリアは小さく頷き、言葉を絞り出した。


「……お義母様が、私を信じてくださっていると、わかるだけで、救われます」


 サラベスは優しく微笑んで、アリアをそっと抱きしめた。


「あなたは、もう“わたしの娘”よ。大切な、誇らしい娘――」


* * *


 ティータイムも終わり、アリアはユリウスと中庭を散歩していた。春の夜風が心地よく吹き抜け、花々がやさしく香る。


「いよいよ明日だね」


「……ええ。もう、明日が来るんですね」


 肩を並べ、言葉少なに歩く。けれど、その沈黙は心地よいものだった。


「明日なのに、うれしくて待ち遠しいよ。今日は眠れそう?」


「そうですね。こうして軽く歩けば眠れるかしら。

 気持ち的には半分眠れなくて、半分は眠ってしまいそうです」


「それなら、君が眠るまでそばにいてあげたいところだけど……王太子妃の部屋に忍び込むのは、さすがにまずいかな」


「……ふふ。叱られてしまいますね」


 そんなやりとりのあと、ユリウスはまだ名残惜しくもっと話をしていたい様子ではあったが、明日を思って

 「君らしい夜を」と微笑んで、アリアを部屋へと送り届けた。


 侍女エミルたちにより入念な湯あみを済ませたアリア。

 髪は何度も艶やかに梳かれ、肌は香油で揉みほぐされて、桃の花のようにふんわりと紅を含んでいた。


 扉を閉め、ひとりになった部屋。ランプの灯りが揺れる中、アリアは机に向かって便箋を広げた。手に取ったのは、両親――フェルネスト伯爵夫妻への手紙だ。


《父上、母上へ。


 ここまで育てていただき、ありがとうございました。

 明日、私はこの国の王太子妃となります。

 ここまでの道は、決して平坦ではありませんでした。


 婚約破棄を阻止すべく解消に持ち込んだこと。

 人前で声を上げて涙を流したこと。

 誰にも頼れず、ただ自分を信じて進まなければならなかったこと――。


 でも、それらの出来事がなければ、きっと私は今ここに立ってはいません。


 カイン様とのことも、今なら冷静に思い出せます。

 彼の中にあった迷いと、私自身の未熟さ。

 誰かを責めるだけでは、前には進めないと知った日でした。


 ミレーネ様との対峙は痛い思い出ではありますが、それも……忘れません。

 見下され、笑われた日々。

 でも、私はあの人に「あなたがいたから、ここまで来られた」と思えるになりました。


 そして、多くの民に出会いました。

 遠い村の少女が、小さな花を手渡してくれたあの日。

 “ありがとう”と言われたその言葉が、私の背を押してくれました。


 父上、母上。

 おふたりが与えてくださった愛情が、私の芯となっています。

 どうか、明日、私の歩みを見守っていてください。


 あの日の自分に、ようやく言えます。


 ――よく頑張ったね、と。


あなたの娘・アリア》



 手紙を書きながら過去に思いを馳せ、泣きそうになりながらも、目を腫らすわけにもいかないので堪えながら書き終えた。

 部屋の窓の外には夜の帳がすっかり下りていた。


 机の上にそっと手紙を置く。心の重みがすっと抜けた気がして、アリアは窓辺へと向かった。


 空には星が瞬き、王都の灯が遠く揺れていた。


(明日からの私は、誰かの“希望”でいられるだろうか)


 そんな問いが胸に浮かぶ。

 けれど、すぐにかぶりを振って、微笑んだ。


(……いいえ。そうなれるよう、また一歩ずつ進むだけ)


 ベッドに身を横たえたアリアは、薄い吐息をついて目を閉じた。


 眠りに落ちるその瞬間、胸に響くのはユリウスの言葉。


「君が隣にいてくれることに、感謝しかない」


(わたしこそ……あなたの隣に、この先永く立っていられるよう、また明日からもがんばりますね……)



 静かな夜が更けていく。

 アリアは健やかな寝息を立てている。

 未来へ紡がれる新たな始まりの、その前夜だった。

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