第5話 ひとつの舞台に交差する視線


 大広間にざわめきが満ちていた。


 卒業舞踏会の壇上で、第三王子カイン・グランディールが「アリア・フェルネストとの婚約を破棄する」と宣言したとき、誰もが“破棄されたのはアリア嬢だ”と思った。


 だが。


――婚約破棄? ……いえ、破棄どころか二ヶ月前に解消済みですけど?――


 静かに放たれたその言葉は、まるで氷の矢のように空気を貫いた。


 学園の教師たちは事前に知らされており、秘密保持を命じられていたため動揺はなかったが、学生たちはいま初めてそれを知り、卒業後はカインがアリアと結婚し、ミレーネを妾とするのだと思っていたため、衝撃は大きかった。


 * * *


 ミレーネ・ヴァレリアは、カインの背中に隠れるようにして壇上を見上げていた。 けれど、その言葉――「すでに、二ヶ月前に解消されていますわ」を聞いた瞬間、身体の芯が凍るような衝撃に襲われ、彼女はその場にへたり込んだ。


(違う……こんな、はずじゃ……)


 自分こそが“真実の愛”だと信じていた。アリアが黙して語らぬからこそ、勝てると信じていた。あの静かな令嬢が、自ら身を引くに違いないと思い込んでいた。


 しかし現実は違った。

 すでに終わっていたのだ、自分が勝つ前に。


 アリアは、潔く、静かに去っていた。

 そのうえで王太子の婚約者になったというのか。


(じゃあ、私は――何のために、彼の腕に抱かれたの?)


 背中から冷や汗が流れ落ちていた。周囲の視線が痛い。誰も手を差し伸べてはくれない。自ら王族に触れた令嬢として、この場にいられることすら、奇跡かもしれなかった。


(でも、まだ……カイン殿下は私を……)


 わずかな望みにすがるように、カインを見上げた。

 だがその視線の先にいるのは――アリアとユリウスだった。


 * * *


 アリアの隣に立ったユリウス殿下は、凛とした声で宣言を終えると、そっとアリアの手を取った。


「これより始まる舞踏の第一曲、アリア嬢。どうかご一緒に」


 会場がざわつく中、私は頷いた。


 さまざまな視線が私たちに注がれている。

 驚き。困惑。嫉妬。称賛。――そして、あの少女の絶望。


 それらすべてを受け止めながら、私はユリウス殿下とともにダンスフロアの中央へ進んだ。


 音楽が流れ出す。



「緊張している?」


「……少しだけ。けれど、心配はしていません」


「なら良かった」


 彼はそれだけ言って、ステップを踏み始めた。


 私は、ただ黙って身を任せる。

 まるで風に乗るような軽やかさで、私たちのドレスとマントが音に合わせて舞う。


(なんて自然に踊れるのだろう……)


 私たちの歩調が、こんなにも自然に重なること。

 その事実が、何よりの答えだった。


 * * *


 遠ざかっていく二人の背中を、私は見つめるしかなかった。


 まるで舞台の主人公のように、光の中心を歩く彼女。

 “ただのカインの付属品”だったはずのアリアが、いまや王太子と並び立っている。


(どうして……私のほうが……)


 心の中で叫んでも、現実は変わらない。

 第三王子は呆然と立ち尽くし、へたり込む私には誰の助けもない。


 私は、彼に助けを求める手を伸ばすことすらできなかった。


 * * *


 カイン・グランディールは、壇上から舞踏会場を見下ろす形で立ち尽くしていた。


 割れんばかりのざわめきの中で、彼の耳にだけ、すべての音が遠のいて聞こえる。


 ――「すでに、二ヶ月前に解消されていますわ」


 その一言が、アリアの口から発せられた瞬間、彼の胸を刺したのは羞恥というより何が起こっているのかという疑問だった。


 アリアは以前から何も言わなかった。彼女のまなざしには、いつからか彼を見ていない静けさがあった。

 それでも――

 どこかで、彼女は自分を許し、受け入れ続けるものだと思っていた。


(……あれは、ただの沈黙じゃなかったのか)


 遅すぎる理解が、今さらになって胸に突き刺さる。


 だが、彼女の穏やかな声や、距離を詰めようともしない澄んだ目が気に食わなかった。

 自分を上から見下ろすような、誰にも媚びないその佇まいが、卑屈だった自分にはまぶしすぎたのかもしれない。


 アリアの贈り物を返したのも、誕生日に何も贈らなかったのも、彼女への小さな反発心からだった。


 それでも、顔がよく、周囲にチヤホヤされて育った彼は、自分が捨てられる側になるなどとは思っていなかった。


(なのに――)


 今、彼女は王太子の隣に立っている。


 ドレスが揺れ、光が差し込むその中央で、彼女は微笑んでいた。


 そして、ユリウス兄上の指先が、彼女の手を優しく包み込んでいる。


(この女は……俺のものだったはずなのに)


 胸の奥に、どす黒い感情がわき上がる。

 悔しさ、羨望、そして認めたくない感情――未練。


 傍らにいるミレーネが何かを言った。

 けれど、彼の耳には届かない。


(なぜだ。どうして、あんなにも美しくなった)


 あの頃の窮屈な優等生はもういない。

 今ここにいるのは、王太子妃となるべき気品と輝きを宿した一人の女性。


 気づけば、手のひらに力が入っていた。

 視界の端で、ミレーネが怯えたように身を縮める。


「……ふざけるなよ」


 かすれた声が、唇からこぼれる。


 この場に立つ資格が、果たして誰にあるのか。

 そして、自分が何を失ったのか。


 ようやく知った時には、もうすべてが――遅すぎた。


 * * *


 ダンスが終わった後、ユリウスはアリアを伴って、会場の奥に佇む女性のもとへ向かった。


 金糸の織り込まれた深紅のドレス。落ち着いた青の瞳に、上品な笑みを浮かべた――王妃サラベス。


「母上。改めてご紹介いたします。私の婚約者、アリア・フェルネスト嬢です」


 アリアが深く礼をすると、王妃はそっと手を伸ばして彼女の頬に触れた。

 母は、すべてを知っている。

 だからこそ、その場での言葉は少なく、重く、確かなものだった。


「……よく、耐えてくださったわね」


 それだけで、彼女の心は十分に報われたに違いない。


「……はい」


 王妃は目を細めた。


「あなたには、これからたくさんのことを学んでもらいます。でも、それだけの価値があると、私は確信していますよ」


「光栄に存じます、王妃殿下」


 そう返すアリアの声に、一切の揺らぎはなかった。


(アリアは、間違いなく王太子妃として相応しい)


 私は改めて、彼女を選んだ自分に誇りを持った。


 * * *


 舞踏会の後半が始まろうとしていた。


 アリアはユリウス殿下の隣に立ち、静かにその手を握る。


 もう、誰にも支配されない。

 誰にも奪われない。


 私の意思で、私の未来を選んだ。

 そしてその選択に、ユリウス殿下は応えてくれた。


 ――ならば、次は私が、その選択に応える番だ。


 王太子の隣に立つ者として、私は歩き出す。

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