第2話 俺が先に手を放したつもりだった。
(カイン視点)
あれは、俺が十二歳の時だった。
王宮の南庭で兄たちの剣術稽古を眺めていた俺の前に、突然ひとりの少女が現れた。
癒しと豊穣の二重の加護を持ち、魔力資質においても王都中の注目を集めていた、フェルネスト伯爵家の令嬢――アリア・フェルネスト。
淡い金の髪を風に揺らし、光をたたえた灰青色の瞳。
大人びた佇まいで、同い年とは思えない気配を纏っていた。
顔立ちは……正直、俺の好みだった。可愛いと思った。
だが、それ以上に――気に入らなかった。
(優等生ぶって……つまらなそうな顔してる)
アリアは周囲の大人に丁寧に挨拶し、控えめに微笑んだだけだった。
けれど、その静けさが俺には、何もかも見透かしているように映った。
「……ずいぶん、大人びた顔してるんだな。緊張もしないんだ?」
そう意地の悪い言葉を投げた俺に、彼女は驚いたように目を丸くしてから、にこりと笑った。
「いいえ。とても緊張しています。
でも、2人のお兄様の隣で肩をすくめている方のほうが、もっと緊張して見えましたわ」
その瞬間、胸の奥に、小さく鈍い痛みが走った。
――図星、だった。
俺は第三王子。
側室イザベラの子で、兄たち――第一王子ユリウスと第二王子テリウス――は正妃の血を継ぐ、誰もが認める『本筋』だった。
剣も学も政治も魔法も、何をやらせても兄たちには敵わなかった。
なかでもユリウス兄上は、いつでも中心にいて、王太子としての貫禄すら漂わせていた。
そんな兄上が、初めてアリアと視線を交わした時――少しだけ、目を細めたのを、俺は見た。
(……兄上が、気にしてる?)
たったそれだけのことだった。
だが、それは、俺の中で何かを決定づけた。
(兄上の興味を惹いた令嬢……なら、俺のものにすればいい)
その夜、俺は母であるイザベラに言った。
「アリア・フェルネストと婚約したい」
わがままのように、ただ強く、そう言い放った。
母は少し驚いたようだったが、すぐに微笑んで、翌日には婚約の話が動き出していた。
アリアは、何も言わなかった。
ただ、静かにうなずき、そして俺の隣に座った。
その後、学園で共に過ごす中でも、アリアは特に干渉してこなかった。
俺の誕生日に贈られた贈り物も、なんとなくすべて箱のまま返した。
学園でダンスに誘われるたびに他の令嬢を選び、アリアとはほとんど言葉を交わさなかった。
――でも、アリアは何も責めなかった。何も言わなかった。
そのことが、逆に苛立ちだった。
まるで、俺を対等に見るつもりもないようで。
周囲の令嬢たちは、俺をちやほやしてくれた。
顔がいい、王子様、優しい――薄っぺらな称賛でも、慰めにはなった。
その中に現れたのが、同級生のミレーネ・ヴァレリアだった。
小柄で可愛くて、よく笑う女の子。俺の冗談に笑い、「あなたはあなたのままで素敵です」と言ってくれた。
アリアとは違って、俺を“王子”ではなく、“ひとりの男”として見てくれているような気がして……心地よかった。
アリアとは、どこまでいっても距離があった。
言葉を交わしても、どこか表面的で、肩を寄せるどころか、手を握ったことすらない。
……だが、ミレーネは違った。
「殿下、今日もお疲れでしょう? 少しだけでも、わたくしの膝をお貸しできますわよ」
ふざけて言ったようでいて、彼女の指先はそっと俺の袖を引いた。
控えめな笑顔。潤んだ瞳。赤い唇の奥から零れる、甘いささやき。
彼女に触れるのは、何も難しくなかった。
アリアとは違い、こちらが手を伸ばせば、彼女は受け入れてくれた。
指先。髪。頬。唇。
最初は軽い口づけだった。けれど、それが「自然」に繰り返され、やがて――
気がつけば、彼女のぬくもりを、直接俺の腕の中で感じるような関係になっていた。
正しいとか間違いとか、考える余地もなかった。
それはまるで、最初から決められていた流れのように、滑らかに、深く――
(……これが、愛、なんだ)
アリアとは築けなかった関係。
互いを必要とし、望み合い、寄り添える相手。
そう思い込んでいた。
ミレーネの甘やかな声は、まるで俺の価値を肯定してくれる魔法のようだった。
「殿下が誰よりも素敵な方だと、わたくしは知っています。それなのに、誰よりも……寂しそうな背中をしていらっしゃるのが心配ですの」
それは――母にも、兄たちにも、アリアにも言われたことのない言葉だった。
俺は、完全に酔っていたのだ。
甘くて、心地よくて、誰も責めない世界。
アリアの沈黙より、ミレーネの優しい嘘のほうが、ずっと優しく感じた。
アリアはどうせ何も言ってこないのだから、婚約破棄という“決断”を下すことで、自分が主導権を握っていると錯覚していた。
だから、俺は宣言した。
――アリアとの婚約を破棄して、真実の愛を選ぶ、と。
……だが。
婚約破棄二ヶ月前にすでに解消済みだと言われる……
涼やかなアリアの声だったことは記憶にあるが事実以外、どんな言葉だったのか記憶も曖昧だ。
全身の血が引いていく感覚があった。
足元が崩れるような錯覚。会場のざわめきが、やけに遠く聞こえた。
(……なに、今の……どういう……ことだ……?)
言葉の意味は理解できた。
だが、それを“受け入れる”までに、ずいぶんと時間がかかった。
(アリアが……俺より先に、婚約を解消していた?)
ありえない。俺が先に見切ったはずだった。
俺の方が、先に手を放したつもりだった。
だというのに、彼女はすでに俺から離れていて――
俺の“破棄”はただの空振り。
まるで、道化だった。
(馬鹿にされた……?)
思いもよらぬ屈辱が、胸の内側をじくじくと焼いた。
ミレーネに微笑んでみせたあの時、俺は確かに優越感に浸っていた。
「お前より、もっとふさわしい相手を見つけた」と、彼女に示したつもりだった。
だが、実際はどうだ。
アリアは何歩も先を歩いていて、俺の選択すら見透かしていたのかもしれない。
しかも、証拠付きで、陛下の承認まで得ていたと――
(嘘だろ……俺は……俺の方が、先に……!)
周囲の視線が、重い。
あざけりと同情が、混ざり合った視線が、俺を突き刺す。
目を伏せたミレーネが、どこか別人のように見えた。
(“真実の愛”だと……思ってたのに……)
けれど、今この瞬間、自分が信じていたその言葉すら、疑わしく思えた。
なぜ、アリアは何も言わなかったのか。なぜ、あんなにも静かだったのか。
それはきっと――
(……最初から、俺のことなんて、何とも思ってなかったんだ)
その事実に、ようやく気づいた。
ただの“義務”として婚約した。
“義務”のままで何も期待せず、“義務”として切り捨てた。
それだけのことを、俺は「俺の勝ち」だと信じ込んでいたのだ。
滑稽だ。
これ以上なく、みじめだった。
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