【1-2】 ある晴れた昼下がりのこと


 午後二時十分。


 昼休み明けの五限。淡々とした授業風景の中で、睡魔と戦うことを放棄し机に突っ伏して授業終わりのチャイムを待つ。

 終鈴が鳴り終わると、一時間ぶりの喧騒が教室によみがえった。


 私立海南うみなみ高等学校。


 網目状に入り組んだ学園都市の国道沿いに位置する正門を抜けた先にある、そこそこの敷地面積を持つ高校。

 横に長い本校舎から伸びる渡り廊下が、体育館と武道場を備えた武道館とを繋いでいる。本校舎に並行してそびえる建物が、現在俺が一室の鍵を握る旧校舎だ。


 二つの建物に囲まれるようにして、グラウンドと野球場、テニスコートがひろがる、取り立てて珍しい特徴のないようなこの高校には、しかし、のである。


 それは海南に限った話ではないが。魅力なぞ微塵も感じない、学校、というよりは学生間に存在する集団意識のようなもの。

 皮肉にも、青春という若人たちの世界を着飾るには適しているような……、



天川あまかわ。おっきろー」


 ああ? なんだよ、人が物思いに耽っているときに。


 不意に声をかけられて反射的に肩を上げてしまった。その両肩を揺すられ、不機嫌ながらも仕方なく顔を上げる。

 しょぼしょぼする目を開け、かすむ視界に入ってきたのは一つの人影だ。


「……滝田たきた


 滝田すばる。俺と同じ二年五組の生徒で、よくつるむ友人が眼前に立っていた。脇には教科書と筆記用具が抱えられている。


「なんだよ滝田、人が気持ちよさそうに寝ている所を邪魔するなんて」

「そんなお前を起こしに来たんだよ。次、現国だろー? 早めに行って席とっとこうぜ」

「ああ。ちと待ってくれ」

 言われて、ごそごそと机を探る。


 うちの高校は、いわゆる単位制を採用している。


 一般的な学年生の授業とは異なり、ある程度とはいえ自分で履修教科を組むため、同じクラスでも一緒に授業を受けることが少なくなる場合がある。ゆえに他クラス間での交流が増えることもあるのだ。

 通常ならば他クラスの生徒と密接に関わることは少ないが、多感な思春期を生きる高校生にこの制度が作用し、学年全体で近い認識を得ることがある。


 そう。この海南の教育指針は、他の高校と比べて独特な色を持つ。ひとつは単位制授業システム。

 そしてもう一つ、成績優秀者ヘの好待遇。それにより引き起こされる生徒間の差別意識。


 あろうことかこの学園には、校則として――抗い難い法律として生徒間の階級カースト制度が敷かれているのだ。



 かくいう俺もスクールカーストには苦い思い出がある。中学時代、分不相応にもカースト上位――いわゆる一軍の人間に噛みついて、痛い思いをした。というか俺がイタいやつだった。

 当時の俺といえば、それはもうイタくて青くて、弱い人間だった。さぞかし大勢の人から槍玉にあげられたことだろう。


 なにせ、学年のさらし者にまで成り下がっていたのだから。



 とまあ、俺の黒歴史なんてどうでもよくて。スクールカースト――学校ぐるみで植え付けられた集団意識だけれど、しかし。世の中にはそんなシステムすら歯牙にもかけないような特別な人種も存在するもので。



「あ」


 教室への移動中。廻戸先生から預かった特別棟の鍵が、ひょいと繰っていた俺の手から抜け落ちた。

 控えめな金属音を立てて転がる鍵は、やがて一人の人物の足先で止まる。


 それは降りしきる花弁のように。快晴の青を背に咲き誇る一本の櫻に吸い寄せられていった。

 櫻と見紛うほどの存在感を放つ、一人の少女――。


「これ、落としたよ」

「ああ、サンキュ……って」


 春風が吹いた。

 鈴のような声に顔を上げ、俺の寝ぼけ眼が丸く見開かれる。



桜川さくらがわ、さん」



 手を伸ばしたまま呆けた俺の視界に、彼女は存在していた。


 桜川ひたち。

 海南高校に通う、一人の女子生徒の名である。


 肩まで伸びた亜麻色の髪と、引き締まった顔立ちは子供らしい愛くるしさと上品な大人っぽさが上手く調和されていて、万人受けするようなスタイルの良さを併せ持つ、魅力的な姿。


 正真正銘、この海南で一番の人気を博する美少女だ。


 その美貌もさることながら、彼女の真価は万能性にある。

 ペンを握れば、その優れた頭脳で数々の難問を容易く突破していく。県内有数の進学校であるうちでも成績は学内トップ、どころか全国規模で上位層に名を連ねている。


 運動神経に関しても秀でている。高校二年間において、彼女が体力テストで記録した数字は誰にも破られたことはないというのは有名な逸話だ。身体能力だけにとどまらず、あらゆるスポーツに精通しており、助っ人で招集された大会では必ずと言っていいほど優秀な成績を収めており、そのたびに各部活から勧誘が来るほどだとか。


 おまけに性格もいい。男女問わず、人種問わずすべての人間に対して友好的であり、教室の四角はおろか学年中のほとんどの生徒と親しくしている。


 そんな完璧美少女と、俺は今、言葉を交わしている、だと。



「えっと。あまね、くんだよね」

「え。は、はい」


 いきなり下の名前で呼ばれて、とくんと鼓動が高鳴るのを感じた。

 なんというフレンドリーさ。直接話したことなんてないはずなのに、普通科の俺なんかのことを認知しているなんて。やはり話に聞いたハイスペックぶりは本当らしい。


 そんな桜川は身構える俺をずいっと前のめりで覗き込んできた。なんでこの手の陽キャ女子ってこんなにも距離が近いんだよ。もはや位相バグ起こして顔がめり込みそうなまでの勢い。


 気恥ずかしくなってしまって、俺はつい反射的に顔を逸らしてしまう。学園一の美少女と顔を合わせるせっかくの機会なのに、彼女がどんな表情をしているのかすら判らない。


「これ、なんの鍵? 家とか自転車のじゃなさそうだけど……」

「なに、ただのお守りだ」

「なにそれっ」


 咄嗟に出たセンスの欠片もないユーモアにも、桜川は微笑んでくれた。互いの吐息が重なりそうな距離で桜川が破願しミディアムボブが揺れるたび、リリーとかジャスミンのほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐってヘンな気分になる……。


 ぎこちなくて甘酸っぱいような、そんな一瞬。

 だけどそんな空間は、長くは続いてくれない。



「おい、来たぞ!」


 不意に聞こえた太い掛け声を皮切りに、廊下が揺れる。


「我らがヒロイン、今日も美しい……」「どこだ! おいどけ、今日こそ話しかけてやるんだ!」「いってーな、邪魔すんな!」「いいや俺だ! お前らはひっこんでろ!」


 どこからともなく響いてきたのは、桜川の来訪を目にした男子生徒たちのまさしく黄色い声であった。

 扉を出ようとする者、それを押さえつける者。窓に顔を擦り付けて熱烈な視線を送る者。クラス内外の男子たちが、めいめいに『ヒロイン』の存在に釘付けになっている。


「やば……。そろそろ行かなきゃ」


 連中の影を視界に入れた桜川の顔に苦笑が浮かんだ。

 その光景を見て再確認させられる。桜川ひたち、彼女はやはりこの学園を代表する有名人なのだ。男子女子問わず学内人気はダントツ、廊下を歩けば人の波が押し寄せてくることはもはや当然の慣わしと化しているのだろう。


「じゃあね! 鍵、落とさないように気をつけてね!」

「あ、ああ……」


 慌てた様子の桜川は薄紅に染まった頬を翻し、その場から立ち去ってしまった。

 そよ風が過ぎた後、一人佇む俺の様子を見ていた滝田が肩に手を置いてきた。



「得したな?」

「バカ言え。視線が痛えっつの」


 桜川ひたち――数いる学園の有名人をはるかに凌駕する知名度。学内関係者なら誰もが知る、誰もがその容姿に見惚れたに違いない。


 頭脳明晰、スポーツ万能、おまけに人懐っこい。


 架空の美少女キャラ顔負けレベルの理想的な女性像から、『ヒロイン』が彼女を飾る通り名となっている。



 ……まあ、そんな話をしたところでなんだって言われれば、なんでもないんだが。

 俺なんかとは縁遠い存在なのは自明だ――謙遜でも嫌味でもなく、ただの事実だ。

 俺だけじゃない。入学当初こそ、宝とも呼べる彼女を狙って、数多の男が桜川に近づいたものだ。


 気持ちも分からなくはない。少しでも出遅れれば、またとないチャンスを逃してしまう。一時期は告白の行列ができるほどで、彼女が登校してくる前に教室の前で並ぶという習慣ができていたとか。真偽は不明だが、テントを張って待ち構えていた猛者もいるらしい。スマホの発売日じゃねえんだから……。


 ともあれ。数々の男子が桜川を手にしようとしたが、結果として誰一人、彼女の心を射止めた人間はいなかったのである。誰一人。百戦錬磨のイケメンも、サッカー部のエースも、バスケ部の高身長男子、華のある精鋭たちが仕掛けるも、全て玉砕。

 圧倒的な壁を見せつけられたのだ。当然、挑む者も少なくなっていく。これならウォールマリアとかの方が簡単に破れるだろう。


 そうして、桜川はみんなのものという考えが広まっていった。

 桜川ひたちは学校のヒロイン。みながそう理解しつつも、意識せずにはいられないのである。



「しっかし、相変わらずすっげえ人気だよなー、ヒロインは」


 視線をお互いへと戻すと、滝田がそう切り出してきた。


「まあ、な」


 俺は聞き捨てるように頷く。

 実際、入学して二年経った今でも、廊下を歩くだけで盛り上がりを見せるほどだ。大した人気を博していると思う。


「ひたちちゃん、彼女とかいるんだっけかー?」

「俺に色恋沙汰の話を振るんじゃねえ。そういうのはお前の方が詳しいだろ」

「っはは、そうだった。聞いた限りじゃいないと思うぜ。っつーか彼女、今まで一人もそういう話を聞いたことがないんだよなー」

「ほーん。もったいねえな、選び放題だろうに」

「いや、これは逆にひたちちゃんを射止めれば賞賛されるまであるぞ。……自分、いっちゃっていいすか」

「……俺は止めねえけど」


 他愛もない会話を繰り広げていると、黒板の上部に備えられたスピーカーから電子的な鐘の音が鳴り響いた。


「やっべ、遅刻だ!」

「ったく、滝田の世迷言につき合わされたからこうなったんだ」

「俺のせいかよ。ともかく! ほら急ぐぞ、天川」


 右手に教科書、左手に筆記用具を握り、目的の教室へと駆ける。

 、学園のヒロインの衝撃的な秘密などつゆ知らず。


 ある騒々しい昼下がりが幕を閉じた。

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