第1話 五月雨のあと、滲む期待

長く続いた五月雨が一旦その重たい幕を下ろし、木々の葉は深緑の色を増し、雨粒の置き土産のようにきらきらと光を弾いていた。湿り気をたっぷりと含んだ風が、新しい季節の到来をそっと告げている。そんな、初夏と呼ぶにはまだ少し早く、梅雨の晴れ間というにはどこか落ち着かない、曖昧な空気が漂う昼下がり。わたし、水瀬雫は、十六歳。ほとんど空っぽに等しい、くたびれたナイロン製のボストンバッグ一つを、震える手で固く握りしめ、今日からお世話になるという家の前に、独り立っていた。


「水瀬雫です。本日から、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」

玄関の引き戸の前で、何度も練習した言葉を、できるだけ落ち着いた、それでいて殊勝に聞こえるトーンで口にする。深々と頭を下げた視界の端に、履き古したスニーカーのつま先が見えた。

「まあ、雫ちゃん! よく来てくれたわね、待ってたのよ!」

からりと明るい声と共に扉が開き、太陽みたいな笑顔を浮かべた女性――佐藤和子さんが顔を出した。その隣には、和子さんとは対照的に、静かな佇まいの青年が立っていた。フレームの細い眼鏡の奥の瞳は、どこか遠くを見ているようで、それでいてこちらの全てを見透かしているような、不思議な深みがあった。大学生の息子さん、橘湊さん。

二人の温かい、けれどどこか探るような視線に射抜かれ、緊張で強張っていたわたしの心が、まるで薄氷が解けるように、ほんの少しだけ、音を立てて緩むのを感じた。でも、それはすぐに、新たな不安という名の冷たい水に覆われてしまう。


案内された二階の角部屋は、南向きの窓から初夏の柔らかな日差しがたっぷりと差し込み、新しい畳のい草の匂いが、胸の奥まで染み渡るように心地よかった。部屋の隅に、持ってきたボストンバッグをそっと置く。解いても、クローゼットの中はがらんどうのままになるだろう。数枚の、季節感の乏しい着替え。角が折れ、表紙には何のシミかも分からない跡がついた、使い古しの教科書。それから、大好きだったはずのキャラクターの絵柄が、もうほとんど剥げ落ちてしまって原型を留めていないプラスチックの筆箱。

「本当に、これだけで大丈夫なの?」

新しい家へ向かう直前、最後に立ち寄った「わたしのいた場所」で、児童相談所の担当の人は、心底からの心配と、そしてもう何度となく同じような光景を繰り返してきたのだろう、どこか諦観にも似た疲れた色の滲んだ顔で、何度もそう確認した。

「思い出のものとか、少しでも持っていきたいものは…本当に、ないの?」

その問いに、わたしはただ黙って、力なく首を横に振るしかなかった。

思い出なんてものは、もうどこにも残っていない。それは、わたしがこれまでの短い人生で、何かを大切に慈しむことを、誰にも、そして自分自身にさえも許されてこなかった、何よりの証だった。荷物が少ないのは、身軽だからじゃない。ただ、心を空っぽにして生きるしかなかった、それだけのことだ。


夕食の食卓は、和子さんの手料理の温かい湯気と、優しい出汁の香りで満たされていた。

「雫ちゃん、お口に合うかしら?遠慮しないで、たくさん食べてね」

「…はい。とても、美味しいです。ありがとうございます」

わたしは、できるだけ自然な笑顔を顔に貼り付けて(そう見えるように、何度も鏡の前で練習した、完璧な「感謝の笑顔」で)答えた。実際に、和子さんの作る煮物は、今まで食べたどんなものよりも美味しくて、涙が出そうになるのを奥歯を噛み締めて必死で堪えた。

でも、この温かい食卓に、わたしみたいな、中身が空っぽで、仮面を被った人間が座っていてもいいのだろうか。そんな居心地の悪さが、まるで喉に刺さった小骨のように、いつまでもわたしをちくちくと苛む。

湊さんは、静かに箸を進めながらも、時折、わたしの顔をじっと見つめている。その、何かを値踏みするような、あるいは、脆いガラス細工でも観察するかのような視線に気づくたび、わたしは自分の薄っぺらい仮面をいとも簡単に見透かされているような気がして、背中に冷たい汗が滲んだ。彼はきっと、わたしのこの歪な「普通」に気づいている。


翌週から始まった、転入先の高校での生活。新しい制服はまだ身体に馴染まず、どこか借り物のようなぎこちなさが付きまとう。教室のドアを開けるたび、心臓が小さな鳥のように胸の中で激しく羽ばたいた。わたしは、できるだけ目立たないように、でも決して「暗い子」や「付き合いの悪い子」だとは思われないように、細心の注意を払って振る舞った。笑顔の角度、声のトーン、相槌のタイミング。全て計算し尽くされた、完璧な演技。

そんな、教室の隅で息を潜めるようにして過ごすわたしに、最初に声をかけてくれたのは、偶然隣の席になった、佐伯莉子ちゃんだった。

「ねえ、水瀬さん、だよね? 私、莉子! 佐伯莉子! よろしくね!」

彼女の、何の屈託もない、太陽みたいな笑顔は、教室の淀んだ空気を一瞬で吹き飛ばすような、鮮烈な明るさを放っていた。大きな瞳がきらきらと輝き、白い歯がこぼれる。

「あ…ありがとう、佐伯さん。水瀬雫です。こちらこそ、よろしくお願いします」

わたしは、練習してきた、人懐っこく、少しだけ控えめな笑顔を返す。この子と、本当の意味で友達になれるだろうか。そんな淡い、そして少しだけ痛みを伴う期待と、どうせまた、いつものように失望されて終わるのだろうという諦めが、胸の中で複雑に絡み合っていた。


莉子は、わたしにとって、今まで出会ったことのない種類の、眩しいほどの光だった。彼女の周りはいつも賑やかで、楽しそうな笑い声が絶えない。わたしも、その温かい光の中に、少しでも長くいたいと思った。だから、彼女の話に一生懸命耳を傾け、適切なタイミングで驚いたり、共感したり、笑ったりした。それは、まるで複雑なパズルを解くように、神経をすり減らす作業だったけれど。

「雫ちゃんってさ、なんかミステリアスな雰囲気あるよね! もっと色々教えてよ! 好きなものとか、休みの日は何してるとか!」

莉子は、好奇心いっぱいの大きな瞳で、わたしのことをもっと知ろうとしてくれる。わたしはいつも通り、当たり障りのない趣味をよどみなく、そして楽しそうに答える。

本当のわたしは、こんな風に誰かと屈託なくおしゃべりしたりできない、いつも何かに怯えて、自分の殻に閉じこもっている、暗くて、臆病な人間なのに。

でも、心の奥の、一番柔らかくて脆い場所で、莉子になら、いつか、この息苦しい仮面の下の、本当の自分を見せてもいいのかもしれない、という小さな、震えるような願いが、雨上がりの若葉のように、そっと顔を出し始めていた。


優しさも、温もりも、きっと期間限定。

それは、これまでの人生がわたしに教えてくれた、残酷で、でも動かしがたい真実だった。

だから今日も、わたしは完璧な“良い子”を演じる。演じ続けなければならない。

この、息苦しくて重たい仮面の下で、本当のわたしは、今、どんな顔をしているのだろう。

五月雨が洗い流したはずの空に、それでもまだぼんやりとかかる薄い虹みたいに、それはまだ、はっきりと見えそうで見えなかった。

ただ、もうすぐやってくる、長い長い夏が、何かを変えてくれるかもしれないという、根拠のない予感だけが、胸の奥で静かに脈打っていた。

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