第一章 最果ての図書館
扉は、音もなく開いた。
だがその静けさは“歓迎”というより、まるで“動作を模倣しているだけ”のような空虚さを帯びていた。
中に一歩足を踏み入れた男──武蔵は、皮膚の裏側を軽く撫でられるような奇妙な感覚に襲われた。
体の奥底が、わずかに浮くような違和感。
時の流れが、外界と“わずかにずれている”とでも言うような、微かな齟齬。
……だが気のせいだ、と彼はすぐにその感覚を打ち消した。
その身に刻まれた旅路の痕。
擦り切れた魔法衣には裂け目が走り、肩の縫い目はほつれかけている。
泥にまみれたローブの裾を引きずる背中は、かつて“大魔道士”と呼ばれた者の姿とは到底思えぬほど疲弊しきっていた。
「……噂どおり、たやすくは辿り着けん場所だな」
誰に言うでもなく、低くつぶやく。
男の名は──武蔵。
現代において、その名を知らぬ術士はほぼ存在しないとまで言われる人物である。
静まり返った空間を、武蔵は見渡した。
四方の壁には書架が天井までそびえ立ち、中心には鉄製のらせん階段が空へと突き刺さっている。
書架の隙間から漏れる空気は乾ききっていながらも、どこか金属の匂いを孕んでいた。
足音は、天井へ吸い込まれていくように響かず、
──いや、“響かないよう設計された空間”とでも言うべきか。
「これが……“終律の書”を収めた、伝説の図書館……か」
そのときだった。
光の届かぬ奥の通路から、重たくも規則正しい足音が響いた。
武蔵は反射的に身構える。
──現れたのは、長身の獣。否、獣の顔を持つ人物だった。
灰銀の鬣、獅子に似た相貌、深く刻まれた皺。
だが──その動きには“喰う側の静けさ”があった。
獣の本能と、書を守る司の理性。その二つが、得体の知れぬ均衡で共存している。
武蔵の背筋に、冷たいものが走る。
その異形の男は、静かに口を開いた。
「……迷い込まれたか? ふむ……それを口にした者は、これまで一人もおりませんでしたな」
声音は低く、朗々としている。
敬意と理性を湛えながらも、武蔵を測るような含みを含んでいた。
武蔵は、視線を逸らさずに応じた。皮肉の滲んだ口元。
「こんな場所、確固たる意志と相応の力がなければ辿り着けまい」
言葉に重ねるように、ごく微かな魔力の波紋が空気に広がる。探るようでいて、押しつけがましくない。老練な手口。
館長は涼しい顔で頷いた。
「まことにその通り。では──ようこそ。客人。この図書館の館長として、あなたを歓迎いたします」
その声音には誇りが滲みながらも、どこか“儀式のような機械的響き”が含まれていた。
武蔵は肩をすくめる。
「歓迎されるとは思っておらなんだ。……だが、なるほど。噂に違わぬ場だな」
書架の高みを見上げる。その“密度”だけで、この空間に流れる歳月と知識の厚みが伝わってくる。
そのとき、武蔵の膝がわずかに折れた。一瞬の浮遊感。
足元が頼りない。──重力が、甘い。
身体が悲鳴を上げていた。
魔境を越えてもなお気を張り続けていた精神が、ついに限界を訴えはじめた。
「すまぬが……まずは一息つかせてもらえぬか」
「この身体、とうに限界でな。書が目の前にあるというのに、読む気力すら湧かぬ」
苦笑まじりに言いながら、武蔵は自嘲気味に肩を落とした。
館長は目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
「それはそれは。大変なご無理をさせてしまいましたな。
では、まずは湯をお使いください。旅の疲れには、清めと休息が何より」
そう言って、背後の通路へ声を張る。
「──リツ。客人を、浴場へ」
しばしの沈黙。
書架の奥から、整いすぎた足音がこちらへと近づいてくる。音の粒が均一で、影も感情もない。
やがて、書棚の隙間から一人の少女が姿を現した。
艶のない黒髪、白く淡い法衣。歩く姿に一切の揺らぎがなく、まるで一枚の絵画が静かに移動してくるようだった。
胸元には、小さな水晶のペンダントが揺れている。
武蔵は、少女のその姿に一瞬だけ息を呑んだ。
どこかで感じた、凍てついた静けさ。
理由もなく、胸の奥が冷たくなった――
リツは、音もなく一礼した。
「お客人様、こちらへどうぞ」
その声には抑揚がなく、感情の陰りもない。だが、水面を打つように澄んでいた。
武蔵は無言で彼女の後に続いた。その足取りは軽く、間隔も音も、すべてが“整いすぎている”。
──この少女は、何者だ。
回廊を進む。壁に灯る魔術灯には、影ができなかった。音と影を拒む空間。知識を守るための“沈黙の構造”。
武蔵の身体は疲弊していたが、その異常な環境に対してだけは、敏感に反応していた。
やがて重厚な扉の前で少女が立ち止まる。
「こちらが浴場です」
扉が滑らかに開く。微かな湯気と薬草の香りが流れ出た。
複数の魔術灯に照らされた水面が、柔らかにゆらめいている。
「着替えとタオルは棚にございます。湯加減の調整も可能ですので、お好みでどうぞ」
すべての所作に“誤差”がなかった。
武蔵は静かに、礼を口にした。
「……ありがたい」
リツはぴたりと動きを止め、首をかしげる。
「なぜ、私に礼を言うのですか?」
武蔵は一瞬、返答に詰まった。
「いや……その……普通は、こんな施しを受けたら礼を言うものだろう」
「私は館長様に頼まれた事を行っただけです。
お客人様に礼を言われる筋合いはありません。」
そう言い切ると、リツは静かに一礼し、
「それでは失礼します」
そう言って更衣室を出ていった。
残された武蔵は、しばらくその無表情な背中を見送るしかなかった。
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