第二十一話:心の迷宮、ドクター・マインドの囁き
最後の四天王、「ドクター・マインド」との対戦が数日後に迫っていた。俺、相馬海斗は、高柳師匠と共に、これまでの修行とは全く異なる種類の鍛錬に明け暮れていた。それは、技術や知識ではなく、ただひたすらに「心」を研ぎ澄ますためのものだった。
早朝の冷たい空気の中での滝行、寸分の乱れも許されない長時間の座禅。そして、師匠が語る「心の持ちよう」についての問答。
「奴は、お前の心の鏡に映る恐怖や欲望を際限なく増幅させ、お前自身を疑心暗鬼の渦へと引きずり込む。MAが示す客観的な市場の真実だけを見つめ、それ以外の余計なノイズは、お前が鍛え上げた心の盾でことごとく弾き返すのじゃ」
師匠の言葉は、まるで不動の山のように、俺の心を支えてくれた。
Solitary Roseからも、珍しく短いながらも真剣な励ましのプライベートチャットが届いていた。
『ドクター・マインドは、あなたの自信や信念、その全てを破壊しようとしてくるわ。でも、あなたなら…あなたのMAが示す道筋を信じ抜けるのなら、きっと…』
その言葉は、いつもの彼女らしからぬ素直な響きを帯びており、俺の胸を熱くした。
そして、運命の対戦当日。「狼たちの牙」バトルプラットフォームに、最後の四天王がその姿を現した。
ハンドルネームは、シンプルに「Dr.M」。アバターは、意外にも柔和な微笑みを浮かべた白衣の中年男性。その物腰は丁寧で、一見すると知的な紳士にしか見えない。
だが、彼がチャットウィンドウに最初に放った言葉は、その穏やかな外見とは裏腹に、俺の心の奥底を見透かすような冷たい鋭さを秘めていた。
「やあ、相馬海斗君。君のこれまでの戦いは、実に見応えのあるものだったよ。その純粋なまでのMAへの信仰心…実に、壊し甲斐がありそうだ」
チャット欄が、一瞬にして凍りついた。過去、ドクター・マインドと対戦した者が、彼の言葉だけで精神のバランスを崩し、自滅していったという数々の噂が、参加者たちの脳裏をよぎったのだ。
ミニイベント「精神科医の診察室」、KITE 対 Dr.M の戦いのゴングが鳴った。対戦通貨ペアは、神経質な動きを見せることで知られるポンド/ドル。
ドクター・マインドは、序盤、ほとんどトレードらしいトレードをしなかった。ただ、まるでカウンセリングでもするかのように、チャットで俺に静かに語りかけてくる。
「君の師匠、高柳氏はかつて“孤高の鷹”と呼ばれながら、なぜFXの表舞台から忽然と姿を消したか、その本当の理由を知っているのかね? 富と名声の影には、常に深い闇が潜んでいるものだよ」
「君があの時、FXで全てを失いそうになったのは、本当にただ運が悪かっただけなのかな? それとも、君自身の心の弱さが引き寄せた必然だったのか…」
その言葉は、俺が心の奥底にしまい込んでいたはずのトラウマや、師匠に対するわずかな疑念を、的確に、そして執拗に刺激してきた。俺は動揺を隠せない。チャートに集中しようとしても、彼の言葉が頭の中で反響し、思考をかき乱す。
20SMAは、緩やかな買いサインを示している。だが、俺の指はエントリーボタンの上で躊躇した。
「おや、そのMA、本当に心の底から信じられるのかね?」ドクター・マインドの声が、再びチャットで囁く。「私の分析では、この後、ポンドは大きな調整局面に入り、奈落へと向かうと予測されるが…君のなけなしの証拠金が、また一瞬で泡と消える光景は見たくないものだねぇ」
MAを信じたい。だが、彼の言葉が、まるで悪魔の囁きのように俺の判断を曇らせる。結局、俺はエントリーチャンスを見送り、その後の小さな上昇を取り逃がしてしまった。
逆に、ドクター・マインドは、誰もが予想しないような不可解なタイミングで大きなロットのポジションを取り、次の瞬間には何事もなかったかのように小さな損失で決済する。
「おっと、これは私の些細な計算ミスだ。だが、興味深いね。君は、私のミスにすら影響され、自分の判断軸を見失いつつあるようだ」
その言葉は、嘲笑以外の何物でもなかった。
俺は、ドクター・マインドの言葉と、彼が市場に仕掛けてくる不可解な行動によって、完全に自分のリズムを崩されていた。MAのサインが信じられなくなり、恐怖と疑心暗鬼が、まるで毒のように心を蝕んでいく。エントリーしようとすれば、「本当に大丈夫か?」という声が聞こえ、ポジションを持てば、「それは罠だ」という囁きが脳裏をよぎる。
「これが…ドクター・マインドの精神攻撃…!? まるで、心の中を丸裸にされているみたいだ…!」
チャット欄では、俺の苦戦を察したコメントが流れ始めていた。
『KITE、完全にペースを乱されてるな…』
『これがドクターのやり方か…エグすぎる…』
『もう、MAとかテクニカルとか関係ない次元の戦いだ…』
Solitary Roseのアバターは、心配そうに俺のトレード画面を見つめているのが、ランキングボードの片隅に表示されていた。彼女の顔を見ることはできないが、その沈黙が、逆に俺への無言の叱咤激励のようにも感じられた。
ドクター・マインドが、満足げな微笑みを浮かべたアバターの顔文字と共に、チャットに最後の言葉を打ち込んできた。
「さあ、相馬海斗君。君の心の迷宮の散策は、まだ始まったばかりですよ…。出口は、君自身が見つけ出すしかない。もっとも、見つけられるかどうかは、保証の限りではないがね」
俺は、暗く、出口の見えない迷路に迷い込んだような、深い絶望感に囚われようとしていた。MAが示すはずの道筋も、今は濃い霧の向こうにかすんで見えない。
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