第十六話:指標の嵐、MAの道標
米国非農業部門雇用者数(NFP)発表までのカウントダウンが、バトルプラットフォームの画面隅で冷酷に時を刻んでいた。あと、5分。俺、相馬海斗の心臓は、嫌でも高鳴ってくる。チャットウィンドウは、固唾を飲んでその瞬間を待つ参加者たちの異様な熱気に包まれていた。
高柳師匠はかつて言った。「大きな経済指標の発表時は、市場という名の眠れる巨人が目を覚ます時じゃ。その足音一つで、相場は天地がひっくり返ることもある。嵐の直後は決して飛び乗るな。嵐が過ぎ去り、新たな道筋が見えてくるまで、じっと待つのじゃ」
その言葉を胸に刻み、俺は目の前の豪ドル/米ドルの15分足チャートと、そこに引かれた赤い20SMAを睨みつけていた。ワールド・エコノミスト高遠は、自信に満ちた表情のアバターで、「真実は常に一つ。市場はやがて、その真実へと収斂していくのです」と、哲学的な言葉をチャットに残している。彼の豪ドル買いポジションは、まだ大きな含み益を抱えたままだ。
そして、運命の時刻。
【米国非農業部門雇用者数(NFP):結果 XXX.X万人(市場予想 XX.X万人、前回修正値 XX.X万人)】
【米国失業率:結果 X.X%(市場予想 X.X%)】
発表された数値は、市場予想を大幅に上回る、驚くほど強い内容だった!
その瞬間、豪ドル/米ドルのチャートは、まるで爆発したかのように垂直に近い角度で急騰した。数十秒の間に、50pips、100pipsと、信じられないような値幅で上昇していく。チャットウィンドウは阿鼻叫喚の坩堝と化した。
『うわあああ!なんだこの動きは!』
『ロスカット祭りだ!』
『高遠先生、神すぎる!予言的中!』
高遠のポジションは、この急騰で一気に利益を倍増させていた。彼の長期的なファンダメンタルズ分析が、短期的な指標の追い風を受けて完璧に機能したかに見えた。
だが、俺は動かなかった。師匠の教え通り、嵐の直後のエントリーは見送る。チャートは依然として激しく上下に揺れ動き、方向感が定まらない。高騰した価格は、すぐに利益確定の売りに押されて急落し、かと思えば再び買い戻される。まさに市場の狂騒だ。
「落ち着け…落ち着くんだ、俺…」
黒い「道しるべの石」を握りしめ、俺は必死に自分に言い聞かせた。この狂騒の中で、MAは何を語っている?
数分後、まるで何事もなかったかのように、市場の乱高下は少しずつ収まりを見せ始めた。そして、20SMAが、ゆっくりと、しかし明確に新たな方向性を示し始めたのだ。それは、指標の強い結果から単純に予測される「ドル買い=豪ドル売り」の方向とは、少しだけ角度が違っていた。市場は、強い米経済指標を認識しつつも、それ以上に豪ドルの底堅さ、資源価格の上昇といった、高遠が指摘した長期的な上昇要因を、より強く織り込み始めているように見えた。MAは、その市場の「本音のコンセンサス」を静かに映し出し、緩やかながらも確かな上向きを示し始めていた。
(MAは嘘をつかない…!これが、市場が本当に向かいたい方向なんだ!)
俺は、MAが示す新たなトレンドの初動、指標発表後の最初の押し目からの反発を捉え、ロットを慎重に調整しながら買いエントリーを入れた。それは、高遠の大きな買いポジションと同じ方向だったが、タイミングと根拠は俺自身のMAが導き出したものだ。
一方、高遠は、その長期的な視点とファンダメンタルズ分析の正しさに自信を持っていたが、指標発表直後の市場の「過剰なまでの熱狂」と、その後の利益確定売りによる短期的な調整の深さまでは予測しきれていなかったようだった。彼の巨大なポジションは、短期的な乱高下によって、一時的に大きな含み損を抱える場面も見られた。
俺は、師匠に叩き込まれたMAの基本に忠実に、短期的な乱気流を冷静に乗りこなし、的確な利食いと、必要とあらば小さな損切りを繰り返した。それは、大きなトレンドを狙う高遠の戦い方とは対照的だったが、着実に俺の収益を積み上げていった。
そして、バトル終了の時間が迫る頃には、俺の収益率は、高遠のそれを僅かながらも上回っていたのだ。
チャットウィンドウは、再び驚きと賞賛の声で埋め尽くされた。
『KITE、またしても大金星!高遠先生を破るなんて!』
『MA一本でファンダの化け物に勝つとか、漫画かよ…』
『指標トレードの新しい形を見た気がする…』
バトル終了後、高遠からプライベートチャットが届いた。
『…見事だ、若きテクニシャン。君の移動平均線は、指標発表という名の嵐の中で、市場が本当に進むべき道筋を正確に照らし出していたようだ。私のマクロ分析も、短期的な市場の熱狂や、数字だけでは測れない参加者の心理の前では、時に無力な場面もあるということか…』
そして、彼は静かに語り始めた。彼がかつて、世界中の膨大な情報を分析し、完璧な経済モデルを構築しようと試みたこと。しかし、どんなに精緻なモデルも、リーマンショックのような未曾有の危機や、市場参加者のパニックという「感情」の前では脆くも崩れ去った経験。情報を持ちすぎることの弊害、そして、その中から本当に重要な「シグナル」と、惑わされるべきではない「ノイズ」を見分けることの難しさ。
『君のそのシンプルなMAは、その複雑怪奇な市場の「感情」の平均値を、ある意味で最も純粋に、そして素早く映し出しているのかもしれないな。…この資料が、君の「眼」をさらに鍛える助けになるかもしれん』
高遠は、彼が長年かけて編み出した、膨大な経済情報の中から本質を見抜き、主要なファンダメンタルズの転換点を捉えるための独自の分析フレームワークと、彼が信頼する情報ソースのリストを、俺に送信してきた。
『ファンダメンタルズは劇薬だ。使い方を誤れば、自身を焼き尽くす猛毒にもなる。だが、君のような澄んだ眼を持つ者ならば、あるいはそれを正しく使いこなし、市場の未来を照らす灯火とできるかもしれんな…』
その言葉を残し、高遠は静かにバトルルームを去っていった。
俺は、彼から託されたものの大きさに、しばらく言葉を失っていた。新たな武器と、そしてそれ以上に重い課題。Solitary Roseは、この衝撃的な結果を、そして俺の戦いぶりを、画面の向こうでどう見ていただろうか…。
四天王二人撃破。俺のMAは、そして俺自身は、確実に進化を遂げている。だが、その先には、さらに手強い敵が待ち受けているはずだ。
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