第四話:「移動平均線一本」の教え、基礎修行開始

高柳さんの「お前の新しいFXが、ここから始まる」という言葉は、俺、相馬海斗の心に深く刻まれた。目の前に広がる手書きのチャートと、そこに引かれた一本の赤い線。それが、俺の未来を左右する羅針盤になるというのか。

「海斗、お前がまず向き合うのは、この『20期間の単純移動平均線』…略して20SMAじゃ」

高柳さんは、チャート上の一本の線を指差しながら、静かに言った。

「なぜ20期間なのか、なぜ単純移動平均線なのか。その理由は追々お前自身で見つけ出すことになるじゃろう。今はただ、この線が市場参加者の短期的な平均コストであり、相場の勢いや方向性を示す重要な道標だとだけ覚えておけ」

その日から、俺の本格的な修行が始まった。高柳さんの家の和室が、俺にとっての道場となった。目の前には、過去数年分に及ぶドル円やユーロドルの日足、4時間足、1時間足の手書きチャートの束。そして、その全てに引かれた赤い20SMA。

「まずは過去検証じゃ。この20SMAだけを頼りに、どこで買い、どこで売り、どこで損切りすべきだったのか。お前自身の頭で考え、印をつけてみろ」

高柳さんの指示はシンプルだが、実行は困難を極めた。チャートを睨みつけ、赤い線とローソク足の動きを追いかける。最初は、どこがエントリーポイントなのか皆目見当もつかなかった。過去の自分なら飛びついていたであろう急騰場面も、師匠の言う20SMAの観点から見ると、全く違う景色に見えてくる。

「なぜじゃ、海斗? なぜそこで『買い』だと思った?」

「それは…20SMAをローソク足が上抜けて、線も上向きになっていたので…」

「ふむ。では、その前のローソク足の形は? その時の相場のボラティリティは? 買い手の勢いは本物だと、なぜ判断した?」

俺が印をつけたポイントについて、高柳さんからの鋭い問いが次々と飛んでくる。答えに窮すると、「感覚でトレードしておらんか? お前のその『なんとなく』が、今までお前を負けさせてきた元凶じゃぞ!」と容赦ない叱責が飛んだ。

悔しくて、情けなくて、何度も心が折れそうになった。だが、その度に脳裏をよぎるのは、あの強制ロスカットの赤い警告と、高柳さんの「その目、まだ死んではおらんようじゃ」という言葉だった。

来る日も来る日も、俺はチャートと格闘した。間違えては考え直し、師匠に問われては自分の浅はかさを思い知る。夜は、その日の値動きと20SMAの関係をノートに手書きで記録し、自分なりの気づきを書き込んでいった。それはまるで、終わりが見えない暗闇の中を手探りで進むような日々だった。

数週間が経った頃だろうか。高柳さんが、今度はデモトレード用のノートパソコンを用意した。

「過去検証で少しは頭が慣れてきたようじゃな。次は実践じゃ。ただし、わしが見ている前で、わしの指示、いや、お前が20SMAから読み取ったルール通りにやってもらう」

リアルタイムで動くチャート。証拠金は仮想のものだが、その緊張感は本物のトレードと変わらなかった。師匠から教わったエントリーとエグジットの基本ルールは、「20SMAをローソク足の実体が明確に上抜け、かつSMAが上向きになったら買い。下抜け、かつ下向きになったら売り。損切りは、買いなら直近の安値の少し下、売りなら直近の高値の少し上」というもの。非常にシンプルだ。

だが、そのシンプルなルールを実行することが、これほど難しいとは。

含み益が出ると、すぐに利食いしたくなる衝動に駆られる。逆に含み損を抱えると、「もう少し待てば戻るんじゃないか」という悪魔の囁きが聞こえてくる。その度に、隣に座る高柳さんから「ルールを破るな、海斗! 感情を殺せ! 機械になれ!」と雷が落ちた。

「お前はまだ、線を見ているようで、その奥にある『市場の声』を聞こうとしておらん。ローソク足一本一本の形、SMAの傾き、価格とSMAの乖離…全てが市場参加者の心理の表れなんじゃ」

失敗と叱責を繰り返す中で、それでも俺は、ほんの少しずつだが変化を感じ始めていた。今までただのギザギザの線にしか見えなかったローソク足が、買い手と売り手の攻防を物語る兵士のように見えてきた。20SMAの滑らかな曲線が、まるで戦場を俯瞰する将軍の采配のように感じられる瞬間があった。

「もしかして、これが師匠の言っていた『市場参加者の心理』なのか…?」

そしてある日、デモトレードで、俺は初めて心の底から納得のいくトレードをすることができた。ルール通りにエントリーし、ルール通りに損切りラインを設定し、そしてルール通りに利食いポイントまで我慢する。結果は、ほんの数十pipsの利益だったが、それは俺にとって、何物にも代えがたい大きな一歩だった。

その日の修行の終わり、高柳さんが珍しく俺の肩を叩いた。

「少しは、あの線の声が聞こえるようになってきたようじゃな、海斗」

その言葉は、どんな賛辞よりも嬉しかった。

「だがな」高柳さんはニヤリと笑う。「これはまだ、長い道のりの入り口に過ぎん。本当の戦いは、テクニックや知識などではない。お前自身の、その『心』との戦いじゃ。次は、その心を鍛え、律する修行に移るとしようか」

俺はゴクリと喉を鳴らした。20SMAという一本の線の先に、さらに奥深く、そして厳しい世界が広がっていることを予感しながら、それでも不思議と心が奮い立つのを感じていた。


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