【短編】シアター
黒兎
本編
青く透き通るような空の下、柴崎村は今日も何も変わらぬ一日を過ごしていた。朝早く起きて田んぼに行き、そのまま夕方までずっと農作業。田んぼに巣食う害虫との格闘だ。害虫はとってもとっても湧いてくる。次から次へときりがない。
「そっちが終わったらこっちの分もやってくれ〜」
隣の区画で作業をする父が恭平に呼びかけた。
「は〜い」
休みたいのは山々だがそうも言っていられない。不作でも税は変わらない。こんな時は大人だけでなく恭平のような子どもまで駆り出して、少しでも米の収穫量を上げないと食っていけない。自分が米を作っているのに、自分が食っていけないとは皮肉な話だ。
「都会はいいんだろうな〜」
手を動かしながらも不満が口をつく。出稼ぎからたまに帰省してくる人から聞く都会の話は、恭平を魅了していた。光り輝くネオン、夜の闇にも負けないきらびやかな街並み。溢れる娯楽。まさに夢のようだ。
「そんなこと言ったって終わんねーぞ」
隣で作業していた内川がぼやく。
「そりゃ都会も夢みたいだけどよ、まずは自分たちの食い扶持稼がねぇと」
「わかってるよ。でもさ……」
「おーい、まだかー?」
遠くから声を上げる父に遮られ二人の会話は終わった。
仕事が終わると子どもたちは僅かな自由時間を与えられる。その時間は二人の唯一の自由であった。
二人は持ち寄った都会の話に花を咲かせ、互いの話に実りを加え、二人だけの夢の都会を作り上げた。
「将来は都会で遊んで暮らすんだ」
「こんなつらい労働はもうオサラバだ」
この時間だけは一人の子供でいられた。
日が落ちあたりが薄暗闇に包まれる頃になると、二人は明日の約束をして家路につく。家では両親が夕餉の支度をして待っていた。
「ただいま」
「おかえり。そろそろできるわよ」
並べられたのは小盛りのご飯におかず一品。これが家計の窮乏を表していた。米を一口食べれば茶わんの中身がだいぶ減ったように見える。さっきまで都会の話に花を咲かせていた分、余計に我が家がみすぼらしく見えた。
「来年はもっと食べられるからなら、だから今のうちにしっかり働くぞ」
父の聞き飽きた口癖に家族は黙って咀嚼する。
「そういえば内側の倅と今日は何を話していたんだ」
「都会の話だよ」
「また飽きもしないで」
苦い顔をする母を父がまぁまぁとたしなめる。
「都会にはネオンがあって、夜も明るくて、遊び尽くせないほどの娯楽があるんだ!」
「そいつはすごいな」
はっはと笑う父を母はやめてくださいよ。と肘で小突く。
「恭平ね、都会にでてもお金を稼がなきゃ何にもならないよ。そのためにはいずれにしろ働かなきゃ」
ムッとして言い返す。
「そんな事は分かってるよ。でも母さん、都会はすごいところだよ。いつか行ってみたいなぁ」
「そんな機会があればね」
折れない恭平に母はすっかりへそを曲げてしまった。黙り込んで箸を進める母に、父もすっかり気まずそうな顔をしてしまった。
転機が訪れたのは一五歳を迎えた春。来客なんてめったにない柴崎村に旅の一団がやってきた。一五人前後の団体はこの村を越えてさらに向こう、山を越えたところにある都市へ行く途中らしい。村には貸し出す宿などなかったが、一団はテントを張るから結構といい村の一角を貸し出された。
「お前さん達は何者なんだい?」
村の老人がテントの準備を進める一人に問いかけた。
「私たちは芸事を披露しに街から街を移動しておるのです。ちょうど今は神代町で仕事を終えて、山の向こうの北崎町に行くところです」
その言葉を耳ざとく聞きつけた少年少女が集まりだした。
「芸事って?何をやるの?」
「どんなの?私たちにも見せてよ〜」
「俺らも見たい!」
子どもたち次々と声を上げる。その声に周囲の子どもが集まり次第にテントの周りは大騒ぎになった。大人たちも鎮火に駆けつけるものの子供の勢いが強すぎて手に負えない。
「おまえら!困っているだろうが!」
叫ぶ大人もお構いなしに子どもたちは一団の男に熱烈な視線を向ける。集まった視線はさながら虫眼鏡で集めた太陽の光のように一団の男の心を焦がした。
「う〜ん、本来はこんなことしないのですが……」
男がチラとテントの中に目をやる。視線の先にいた男が笑顔で「へい」と頭を下げてテントの中へ消えていく。それを了解したように男は「仕方ない」とはつらつとした顔で群衆に向き直る。
「では一晩の寝床の代わりに、我々がショーの前座として披露している紙芝居をご覧に入れましょう!」
「紙芝居?なんだ?それ」
内川が興味津々に首をかしげる。
「紙芝居ってのはな、物語を書いた絵を見せてくれるんだよ」
内川の父が説明するものの、父も余り見たことがない様子でしどろもどろしている。
「おや、皆さん紙芝居は初めてですかな?」
質問に群衆が首肯する。
「それはよかった。どうか我々の紙芝居をとくとご堪能ください」
男が退くと背後から背格好の小さい初老の男が乳母車のような台を押して前に出た。台の上に倒れていた板を立て、その表面に小さなカーテンが掛けられる。何やらゴソゴソとしたあとに、男は笑顔を見せて、カーテンを開いた。そこには鮮やかな色で描き出された世界が広がっていた。
「では、始めます」
物語は妖怪に人柱として差し出された娘を村の武者が救い出すという物語だった。物語を語る男の口調は次々と代わり、まるでその世界を見てきたかのように語ることもあれば、その世界が絵から出てきたと思わせるほどの迫力で語った。群衆は大人子供問わずその話に夢中になった。手に汗握り、悲しみ、喜び、誰もが作業も忘れ、現実世界の悩みや不安など一切を忘れて、いっとき別世界に飛んでしまったようだった。
「めでたしめでたし」
敵の首魁が討ち取られ、物語は幕を閉じた。群衆は口々に武者を褒め称え、妖怪をけちょんけちょんに皮肉った。
「さぁ、仕事に戻るぞ」
村の大人の掛け声で集まっていた子どもたちも名残惜しそうな視線を残して去っていく。子どもがちらちらと振り返る度に紙芝居の男は笑顔で手を振った。
「さ、俺たちも戻ろう」
内川の言葉に現実に戻った恭平は片付けを始めた紙芝居の男に問わずにはいられなかった。
「あのっ!都会ではこういうの、もっと見られるんですか?」
紙芝居の男はははっと笑うと微笑みながら言った。
「あぁ、紙芝居くらいならそこらで見られるさ。それに、他にももっと色々な物が見られるよ」
「色々なもの?」
「それは、行ってみてのお楽しみだな」
片づけてテントに去っていく男の背を見ながら、恭平の胸には密かに夢が生まれた。こんな風に色々なことを忘れられる紙芝居をもっと見たい。いずれ自分で物語を作って、いろんな人に見てもらいたい。自分の物語で、一人でも多くの、いろんな人を魅了したい。それが恭平の夢になった。
一団は翌日の早朝に旅立った。いなくなったその後も、村の若人の話題は紙芝居で持ちきりだった。話の考察をしだしたり、独自に続きを考えたりもした。恭平の胸には省らの夢が、都会への憧れが、より強く焦げ付いていた。そんな夢とは反対に、家計の窮乏は続いていた。もう何年も満足に米が取れていない。日照りも強く作物が育つには苦しい気候が続いている。成長に反して食卓にのぼるものは質素なまま。満足に食べられたのなんていつ以来ないだろう。そのせいか恭平の身長は父より低いまま止まってしまった。
それから三年が過ぎ、恭平が一八になっても状況は変わらなかった。それなのに税は増え、家族三人が食べる分の米さえも満足に収穫できなくなっていた。
ある日の夜、恭平は父に呼ばれた。父に促されるまま、囲炉裏を両親と囲んで座った。空気が重苦しい。いつも快活に笑う父が、下から照らす炎のせいか一気に老けて見える。その父の様子をうかがう母も、普段は気にならない皺が目についてしまう。何かよくないことが起ころうとしていることは、明らかだった。気まずさに組んだ足を何度も組み替える。
「あのな、」
父がようやく、重い口を開いた。
「お前に言わなきゃ……頼まなきゃならんことがある」
「……なに」
恭平の言葉に父は震える息を吸い込んだ。そして、腹をくくったように何度か頷いて口を開く。
「出稼ぎに、行ってくれ」
「……え?」
我が耳を疑った。出稼ぎに行くかはさておき、都会に行く夢は固く持ち続けていた。それが思わぬ形で成就しようとしている。しかし、懸念もあった。
「出稼ぎって……ここの田や畑はどうするんだよ」
「俺と母さんで耕す」
「それだって無理があるだろう。父さんだって年だ、
全部を扱うなんて……」
「母さんと一緒なら、大丈夫だ」
父は母をみて、お互いに寂しそうに微笑んだ。
「恭平」
首をもたげる父に代わり、母が呼びかける。
「うちの収穫が乏しいのは知っているわね?」
「うん」
「今年の冬は、満足に食べられないかもしれない」
悔しさに膝の上に置いた手が震えている。
「あなたは若いから、たぶん家の分じゃ足りないでしょう?私達も、三人分の食事があるかわからない。だからあなたには、出稼ぎに出て、自分の食い扶持を自分で作って欲しいの。仕送りは要らないわ。あなたが稼いだお金は、自分で使いなさい」
「でもそれじゃ母さんたちは……」
「二人分ならなんとかなる」
父の湖の底のように深い声が言う。
「二人分なら、何とか食っていける。でも三人は厳しい」
「でも……」
父と母を見捨てることになる。そんなことは、できない。
「……あなたの夢を、叶えられるのは今しかない」
「え?」
「あなた昔から言ってたわよね?都会に行って、いろんな紙芝居を観るんだって。そしていつか、自分で紙芝居を作るんだって」
「それは昔で……」
「今もでしょう?」
母のまっすぐな視線が、恭平から偽りを奪う。曝け出された本心に抗う術はない。
「だからお願い、都会に行って、色々なものを見てきて。それが私たちの願いなの」
「母さん……」
「たまに帰ってきて、土産話を聞かせてくれ」
父が眼尻を震わせた笑顔で、恭平の肩に手を置いた。
肩を握る父の手が、彼の奥底の気持ちを物語っていた。その強さに、恭平は理解した。理解してしまった。
工場の朝は早い。寮から工場までのまだ肌寒い道を進み、空気が暖かくなりきるより先に機械を暖める。そして今度は機械の熱で暖まりきった部屋に昼間の日差しが降り注ぎ、灼熱と化す。そんな環境に毎日詰め込まれ、朝から晩まで仕事漬けの日々。都会に行けば娯楽がたくさんある。そう思えたのは最初だけだった。工場は最も近い都市から徒歩1時間ほどの小高い丘にある遠く眼下に広がる平地に都会の賑わいが見て取れる。恭平は都会で紙芝居を見るという希望を胸に懸命に働き、やっと貯まった貯金を握りしめて初めて都会に降りた。しかし探せど探せど紙芝居屋は見当たらなかった。
「あの……!」
町ゆく紳士服姿の老人にたまらず声をかけた。
「はい?」
老人は困ったような顔で恭平を見る。
「この街に、紙芝居屋はありますか?」
「ほう!紙芝居とな」
そもそも皺だらけの老人の顔がさらにくしゃくしゃになる。
「いやぁ、久々にその名を聞いたわい」
「ひさびさ……?」
「あぁ久々だとも。もう最近じゃ見なくなったよ」
「そんな……」
夢が打ち砕かれた。失意で満たされた胸だけを抱えて、恭平は寮へ戻った。
その日以来、恭平はただただ無心で働き続けた。黙々と働き、仕事が終わればまっすぐに寮へ帰る日々。帰路から見下ろす街も、今ではきらめきを失って見える。夢のない街に金を使うこともない。稼いだ給料は大半を実家へ回すことにしていたし、恭平の手元にはその日暮らすに事足りるほどの金しか残らなかった。。
「しけた面してんなぁ」
後から出稼ぎに駆り出された内川が隣で荷物を運びながら言った。
「そんなんじゃ福の神も逃げてくぜ」
「福も何も、ここで面白いことなんてないじゃないか」
「まあそれはそうだな」
はははと快活に笑う内川が、恭平は不思議でならなかった。
「なんでそんなに楽しげなんだよ」
「ん?教えてほしい??」
ニヤニヤとした顔に鉄拳でも飛ばしたい気分だった。
「いいから教えろよ」
「それはな……」
「この前、街でかわいいねえちゃん見つけたんだよ!」
予想の遥か斜め上からの返答に思わず思わず頭を抱える。そうだ、こいつはそういう奴だった。出稼ぎでこっちに来てからというもの、出稼ぎとは名ばかりで休みは日がな一日街で遊び歩いているのだ。こいつに期待した自分が馬鹿だったと後悔した。
「そいつは良かったな」
呆れを隠すこともなく手をひらひらと振って歩き去る。その背を内川が追ってくる。
「お前も見てみればいいさ。すごいぞ~街は」
「知ってるよ。一回行ったし」
「そうなのか?」
「あぁ、紙芝居を探してな」
「あぁ、懐かしいな」
「でも、ないっていわれたよ」
「確かに街で見ることないな。あの時の紙芝居は面白かったよな」
内川は楽し気に手のひらをすり合わせている。
「お前、まだ紙芝居作家になりたいの?」
相変わらず軽い顔をして核心を突いたことを聞いてくる。……どうこたえようか。迷った挙句、重い口の隙間から答えが漏れる。
「まだ……なりたいとは思ってる。でも、無理」
「そうか。それは残念だな」
「聞いてきたくせに、軽いな」
へへっと内川が舌を見せる。
「そりゃ他人事だしな。そんでお前は、頼みの紙芝居屋がなくて失意のどん底にいるってわけか」
「言い方は気になるが、そんなところだよ」
諦めたように肩をすくめて見せる。
「だったら、倫太郎さんの所へ行ってみるといい」
「倫太郎さん?あの、同郷の?」
「そう。その倫太郎さん」
倫太郎さんとは工場にやってきたときに一回だけ面識があった。出稼ぎにきた恭平を工場主に紹介してくれたのが倫太郎さんだ。とはいえ世話になったのはその一回きり。倫太郎さんも喧嘩っ早そうな強面だし、何より恭平自身が他部署への配属となったものだから全く縁がないのだ。一方で内川は倫太郎さんと同じ部署に配属され、その縁で今でも色々話しているらしい。
「まぁ倫太郎さんは正規雇用だから、色々状況は違うだろうけど、それでも聞いてみる価値はあると思うぜ?」
この時二人はまだ、工場にきて一年経っておらず、扱いとしては契約社員のようなものだった。それに比べて倫太郎さんはもう十年以上この工場に勤めている。年季の入り方が違うのだ。
翌日の正午頃、工場に休憩を知らせるブザーがけたたましく鳴り響いた。何が変わるのかと投げやりな気持ちを抱えたまま、恭平は内川に指定された場所へ弁当を持って歩いた。昼休みは一時間、みな我先にと建物から外に出ようとする。おかげで入り口付近はごった返している。弁当をつぶされないように胸に抱き、人波をかき分けて外に出る。そのまま広場に向かう群衆とは逆の方向に歩く。工場裏では既に内川と倫太郎さんが弁当を広げて待っていた。こちらに気づいた内川が大きく手を振っているのに同じように返す。倫太郎さんはこちらを見ることもない。
「倫太郎さん、ご無沙汰しております」
倫太郎さんの斜め前に立ち、恐る恐る語り掛ける。
「仕事は順調か?」
重く低い声、その中に微かな温もりを感じる。見た目より悪い人ではないのかもしれない。
「はい。違う部署にはなってしまいましたが、仕事はだいぶ覚えました」
「そうか、それは何よりだ」
「こいつ昔っから、こういう仕事は得意なんですよ。手先が器用っていうか……」
しゃべり続ける内川にため息をついて倫太郎さんが恭平に視線を投げる。
「さっきからずっとこの調子なんだ。頼むから黙らせてくれ」
思わず吹き出した。
「わかりました」
太陽の光を建物が遮り影になったところで三人は弁当を開いた。
「それで恭平は、紙芝居の作家になりたいんですよ」
頬張りながら行儀悪くしゃべるのは内川だ。
「でも紙芝居なんて今じゃもうなくなっているだろう」
倫太郎も食事を口に運びながら答える。
「そうなんです。それのせいでこいつ、もう落ち込んじまって」
「なるほどな。それで俺のところに来たのか。でもなんだ?俺は何を言えばいいんだ?」
「この前話してたあれ、なんでしたっけ。あの紙芝居みたいな」
内川の問いに倫太郎が一瞬眉間にしわを寄せる。途端に内川が気まずそうな顔をしたが、そんなものには気づかない様子で倫太郎はすぐに合点がいったように「あぁ」と声を上げた。
「映画のことか」
「映画?」
聞きなれない言葉に恭平が聞き返す。
「あぁ、映画。知らないか?」
「初めて聞きました」
「なんて言ったもんかな。映画ってのは簡単に言えば……動く紙芝居みたいなもんだ」
その言葉で静まり返っていた恭平の心に再び風が吹いたような気がした。
「動く紙芝居?」
「そう。でっかい”すくりぃん”ってやつで動く写真を流してな、それに弁士っつう読み手がセリフとか吹き込むんだよ。
「すごい……」
思わず口から漏れた。
「それはどこへ行ったら見れますか?」
食べることも忘れ、頬を上気させて問う恭平の様子に強面の倫太郎もたじろいだ。
「落ち着けよ。全くお前も内川みたいなもんか」
心外な一言だったがそれも耳には入らなかった。
「映画を見るなら神代町だよ。この工場からも見えるだろ」
神代町は恭平が紙芝居の夢を打ち砕かれた町であった。今恭平の胸には、新しい夢が宿り始めている。よもや紙芝居作家という夢を打ち砕いた町が、再び恭平に、今度は映画の作り手という夢を与えようとは、それこそ夢にも思わなかった。聞けば映画というものは紙芝居のように色々な話を、絵ではなく動く写真という不思議なもので流し、そこに弁士と呼ばれる読み手がセリフを吹き込むそうだ。動く写真というものがどんなものか想像もつかないが、倫太郎さん曰く「まるでそこに人がいるかのような感じ」だそうだ。見たことがないのに作家になるという夢を持つなんてちゃんちゃらおかしい。そんな事は恭平もわかっている。しかし感じてしまったのだ。映画というものは間違いなく、自分の胸を打ちぬくものなのだと。この話が、恭平の心に再び火をつけた。
その日以来恭平は再び仕事に精を出した。賃金は基本的には固定だが、出来高に応じて多少の色がついた。映画は決して安くない。そして工場労働者の賃金は他の仕事に比べても安い。倫太郎さんの話では正社員がひと月やりくりしてやっと見に行ける程度の娯楽らしい。これを正社員未満、ましてや給料の大半を仕送りに回す恭平に置き換えれば、なかなかの金額だ。その現実を目の前にしても、恭平の映画への情熱が衰えることはなかった。倫太郎も顔を合わせるたびに次から次へと新しい映画の話を持ってくる。これまで見た者だけでなく、時折新しく上演している物の話まで、まるで倫太郎自身が弁士というもののようだった。恭平は昼休みのたびに倫太郎から映画の話を聞き、その度に期待に胸を膨らませた。映画というものはなんと面白そうなものなのだろうか。田舎にいたころの娯楽なんてコマやメンコくらいなもので、お金を払ってまで享受する娯楽なんて存在しなかった。コマもメンコも自分で作れたし、買うにしても親がポンと変えてしまうくらいのものだった。
あれから数週間、工場の仕事はいつも通り忙しい。休みは週一日だし、大体朝から晩までずっと仕事で、仕事以外のことをしている暇はない。倫太郎さんは休みの日に行ったと言っていたけれど、正直どうやっているのか皆目見当もつかない。休みの日だって、明日の仕込みがあるのに。果たして部署の違いか?いや、内川も自分と同じくらい忙しそうだ。いくら考えてもこの答えが恭平の頭に浮かぶことはなかった。
「おい恭平、結局見に行ったのかよ」
不意に背をたたかれ思わずよろめいた。振り返らずともこの声には聞きなじみがある。
「急になにするんですか。まだ行けてないですよ。ていうか、いつ行くっていうんですか」
「いつってそりゃ、休みの日だよ」
さも当たり前のように言う倫太郎さんに、つい語気が強まった。
「倫太郎さんはいいですよね、正規雇用なんだから」
「あ?」
途端に場の空気が変わった。そこら中に糸が張り巡らされているような、居心地の悪い感じだ。
「正規だろうが非正規だろうが関係ねぇよ。休みをどう使うかなんて手前次第だろう。それをうまく使わずに立場のせいにするなんざらしくねぇ。それともなんだ、もっともな言い分並べてはいるが、実際映画への気持ちが薄いだけなんじゃないのか?」
倫太郎はそれだけ言ってどこかへ行ってしまった。やってしまったと思う気持ちはあったが後悔はなかった。倫太郎さんの言ったことは間違いではないかもしれないが、絶対間違いなのだ。
「お前よく倫太郎さんに歯向かおうと思うよな」
横に並んだのは同郷の内川だ。
「あんな腕っぷしの強そうな人、ふつうは敵に回そうとは思うまいよ」
「敵に回すって、そんなつもりないさ」
「でも結果的にそうなったじゃないかよ。まぁ、お前に映画を教えたのは俺だし、それは分かったうえで言うけどな、非正規の俺らには、映画はちと贅沢な娯楽だよ」
そういわれてしまうと言い返すことができないが、それでもやはり、倫太郎さんは間違っているのだ。
午後の仕事も黙々とこなした。心なしかいつもより作業スピードが上がっているように思えた。終業のチャイムが鳴り、周囲の工員が仕事道具をのろのろと仕舞いだす中、恭平は一目散に工場を出た。工場は大工場の一部で、建物を出てもまだ工場の敷地、周囲には同じ会社の他の工場が所狭しと並べられている。もちろんそれだけ工員の数も多く、地域でも指折りの規模の工場だった。それなのにこの工場には敷地への出入り口が一つしかなく、しかもそこで退勤の検印を押さなければならない。そのくせ終業のチャイムは全工場で同じ時間に流れるものだから、出勤よりも退勤のほうが圧倒的に出口が混んでしまうのだ。今日も例外ではない。就業のチャイムと同時にそれぞれの工場から細い川が流れ出し、出入り口へ至るころで大河を形成していた。しかもその流れは泥水のように遅く、海へと注ぐ河口は流れてくるどの川よりも細く窄まっていた。恭平はさながら魚のようにその濁流に飛び込んだ。どろどろと流れる息苦しい泥川を必死に搔き分け河口を目指す。川幅が小さくなるにつれて川に揉まれ身動きが取れなくなってくる。やっとの思いで押した検印はおそらく他の人の枠にまではみ出していたに違いない。ようやく住み良い大海へ流れ出た恭平はさっきまでの泥水を洗い流すかのように肺いっぱいに新鮮な空気を取り込み、迷うことなく歩を進めた。恭平の暮らす寮は大人だというのに門限が決まっていた。それを過ぎてしまっては、たとえどんな理由があろうとも寮に入ることはできなかった。門限は二三時。今は二〇時。ギリギリだ。とにかく急いだ。本当は路面電車でも使いたい気分だったが、貯えのない恭平にそんな無駄に使える資金などあるはずがない。諦めてひたすら足を前へと突き出した。
久しぶりに来た神代町の道はネオンで彩られ、掲げられた大看板は煌々と照らされている。前に来た時は昼だったから、夜の姿は新鮮だ。道行く人々はみな見るからに高そうな、シミ一つないスーツや煌びやかなワンピースを身にまとい、特に女性は照り付けるネオンの光を美しく反射する宝石で身を飾っていた。対して僕は油に汚れたズボンにタンクトップと工場のジャケット。場違いにもほどがあった。居心地が悪いというより、ただ不快だった。倫太郎さんはどんな格好でここに来たのだろうか。口論などせず真摯に聞いておけばよかったと、この時初めて後悔した。
「おい兄ちゃん、こんなところで何してんだい」
前から歩み寄る見知らぬ男性が僕を呼び止めた。どう見ても酒に酔っている。
「別に」
なんだか自分が恥ずかしくてぶっきらぼうに答えた。
「別にってことはないだろ。ここは天下の神代町だぜ、何の目的もない奴が来るかいね」
酔っぱらいは諸手を挙げて愉快そうだ。あまりに愉快すぎて倒れそうになっている。
「ここに来たなら助け合いよ。日々のことなんて忘れて娯楽に浸ろうぜ」
ニコニコと笑う酔っ払いに思わず心を引き締めていた紐が緩む。
「……映画館を……探してます」
緩んだ隙間から言葉がぽつぽつと零れた。
「映画館?どの映画館だい」
予想もしていなかった質問に思わず言葉を失う。
「……どの?」
ようやく絞り出した言葉が、自らが田舎者である象徴のような気がしてまた恥ずかしさに顔が熱くなる。
「映画館てそりゃ、でっかい“すくりーん”で見るあれだろ?あんな人気なのが一個なわけあるかい。何個もあるよ」
ただでさえ田舎者むき出しなのに、念押しと言わんばかりに場違いだという意識を感じずにはいられなかった。そうなのか、映画館というものは何個もあるのか。てっきり一つの街に一つくらいなものかと思っていた。
「あの、一番安いところはどこですか」
「安いの?そんなんでいいのかい」
酔っ払いは顎に手を当て眉間にしわを寄せる。そして品定めをするようにまじまじと僕の顔を見上げてくる。「こいつ本当に何も知らないのか?」とこちらを訝しむように。
「……あまり銭を持っていないんです」
僕の頭から足元へ、酔っ払いの視線が下に動いたとき、ようやく商人が合点の言ったような顔をした。
「あぁ、兄ちゃん丘の上の工場の人間かい」
「はい」
「さしずめ出稼ぎだな?それなら悪いことは言わん。興味本位だっていうなら、下手に見ない方がいいぜ。虜になっちまう。田舎にはあんなもんないしな」
顔が真っ赤になるのを鮮明に感じた。しかしそれよりも、恭平はむきになった。
「よく知りもしないのに勝手いうのはやめてください」
酔っぱらいの男は「ほう」と不敵な笑みを浮かべた。
「そんなに言うなら、後悔しても知らないぞ。ここいらで一番安いのは角曲がったとこの三橋館だな。が、安かろう悪かろうだ。どうせいいもんなんて見れやしない。だがちょっと無理できるってんなら、その先にある四ツ橋館の方に行きな。これまで味わったことのない、夢のようなような世界を見れるさ」
数日後、空が鮮やかな茜色から黄昏へと移り変わる時間、寮から工場までの道をいつもとは違う装いで歩いた。こんな格好で工場に行けばみんなからの笑いものになることは目に見えていた。でも、それでもよかった。すでにほかの工員はみんな出払っているし、愛用していた時計がないのは残念だが、僕は今、持ちうる最上級の装いをしているのだ。笑いたければ笑うがいい。そんな気持ちのまま工場への道を外れ、堂々と胸を張り、夜のうす暗闇にきらめきを見せ始めた神代町の入口に辿り着いた。やはり周囲の本物を見ていると恭平の心は窮屈になった。着こなしはこれで合っているか、不自然に靴が光っていないか。いつ誰に場違いだといわれるかと気が気ではなかった。それでも歩みは止めない。不格好な僕を見るがいい。僕はこれから、一世一代の経験をするのだ。周りの誰が見ても、恭平の表情は硬いものだったに違いない。顔も赤かったに違いない。それでも恭平は、まっすぐに通りを進んだ。数日前に酔っ払いと出会った通りを抜け、角を左に曲がる。そこには確かに映画館が、三橋館が建っていた。二階部分の壁には上演中の映画の宣伝看板が堂々と飾られている。が、建物自体は随分年季が入り、看板も雨風に汚れている。この映画館がこの町最低料金であることが納得された。それでも映画館にはちらほらと観客が入っていく。出てくる客もいる。しかし彼らの顔に感動の表情はない。あの酔っ払いの言っていたことは正しかったのだ。やはり僕が来るべき場所は、ここではなかった。そう実感せざるを得なかった。後ろ髪惹かれる思いに首を強く降り、再び通りを歩く。その道の先、丁字路の手前にひときわ輝く建物がある。闇夜を打ち消すかのようなきらびやかな電飾、その電飾に飾られた宣伝看板。美しく力強い絵がひときわ輝いて見える。扉の前に扇のように広がる階段、その先には大勢の観客が恍惚とした笑顔で感想を語らっている。ここだ。こここそが、僕が夢見た映画館だ!駆け足から次第に足が速くなる。扉前の階段は真っ赤なカーペットで彩られている。あぁ、なんて美しい、なんで優美なのだろう。手が汗ばみ、瞳孔が開く。震える掌を見下ろし、ぎゅっと固く握る。ここで、僕の人生は変わるんだ!その強い期待を胸に、眩いきらめきに彩られた階段を一段、また一段と昇る。大扉の前に立ち、この世と夢とを隔絶する大扉に手を当てた。僕は地を踏みしめ、大きく深呼吸をし、ゆっくりと大扉を開いた。
【短編】シアター 黒兎 @Kurousagi03
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