15話:継ぎ手と封の王
屋敷の地下書庫は、重苦しい沈黙に包まれていた。
壁一面に古い書物が積み上げられ、空気には長年開かれていなかった紙の匂いが漂っている。
足元では猫たちが静かに歩き回り、ときおり棚の影を覗き込んだ。
ミレイナが棚の一角で足を止めた。埃まみれの巻物に指を伸ばすと、ふっとかすかな光が走る。
「これは……」
彼女は慎重に巻物を開いた。中には褪せたインクで記された複雑な図形と、古代語の文字。
「読めるの、ミレイナ?」
セレスが背後から覗き込む。
「一部だけ……封印術の記録みたい」
ミレイナは視線を走らせながら、指で文章をなぞる。
「『月を喰らう災い、地を蝕む獣を、わが魂と契約の石にて封ず』……これ、“月の巫女”って名乗る人物の記録よ」
「契約の石……あの石のことだな」
俺が思わず口にする。
ミレイナは頷いた。
「そう。この巻物によると、あの石は“開きの印”であり、“閉じの印”でもある。封印を解く鍵であり、再び封じる鍵なのね」
そのとき、猫たちが巻物の前に集まり始めた。
文字が記された紋章のあたりに、そっと身を擦り寄せる。
「……猫たちは、知ってるんだ」
セレスの声はどこか遠くを見つめるようだった。
*
深夜。屋敷に静寂が満ちていた。
地下書庫での探索を終えた俺たちは、埃まみれの手を洗い、それぞれの部屋に戻る気力もなく、広間で休んでいた。
そのときだった。
窓の外から、月光がひときわ強く差し込んだ。
それと同時に、屋敷中の猫たちがざわめき始める。毛を逆立て、静かに歩き、次々と窓辺に集まり出したのだ。
「……何か、来る」
ミレイナが呟いた瞬間だった。
夜の闇を切り裂くように、堂々たる黒猫が現れた。
艶やかな毛並み、鋭い金色の瞳。誰の目にも、それがただの猫でないことは明らかだった。
猫たちはぴたりと動きを止め、王の帰還を迎えるように頭を垂れた。
「まさか……あれが、猫の王?」
ミレイナの声がかすれる。
次の瞬間、その黒猫が口を開いた。
「また会ったな。我が名は……“王”と呼ばれし者。おまえたちを待っていたぞ」
その姿にも、その言葉にも、嘘はなかった。
威厳と気高さ。まるで古の貴族のように振る舞うその黒猫に、誰も言葉を返せなかった。
「……しゃべった……本当に、猫が……?」
ミレイナが目を見開いたまま立ち尽くす。
猫の王は、ゆっくりと歩み寄ると、炎の揺らめく暖炉の前に腰を下ろした。
「ルナ・ガルム――月喰いの獣。
あれは、月光と魔力を喰らう災いの眷属。
千年前、我らが巫女の手によって封じられたが……その封印が、今、緩みつつある」
「……そのために、“契約の石”が必要なのね?」
セレスが問うように言うと、猫の王はわずかに頷いた。
「あれは、開く鍵であり、閉じる鍵でもある。
だが、それだけではない。あの石には、我がかつての主――“月の巫女”の魂が宿っている」
息を呑む音が重なった。
猫の王は炎を見つめながら、静かに続けた。
「月の巫女は人ではなかった。我が王家に仕えた最初の契約者。
彼女はその身と術をもって、封印の術式を完成させたのだ。
それが千年の時を経て、今もあの石の中に残っている」
誰もが言葉を失った。
俺たちが手にした“鍵石”が、ただの魔具ではなく、一人の存在の想いと命の記憶だと知ってしまったからだ。
窓の外。
月は静かに、不穏な光を放ち始めていた。
いずれ来る決戦の夜が、近づいている。
⸻
空が静かに沈んでいく。夜が深まるにつれ、満ちゆく月が鋭く光を放っていた。
屋敷の屋根の上で、猫の王が月を見上げた。
「……時は近いわね」
その声に気づいたミレイナが顔を上げ、月を見やる。
まるで空気そのものがぴんと張り詰めているようだった。
そのころ、森では異変が起きていた。
ふだんは静かな夜の林に、鳥の悲鳴が響き、獣たちが一斉に逃げ惑う。
町でも、馬や牛が暴れ、住民たちが怯えながら夜を過ごしていた。
「魔物の出現が増えてる。町の守りを強化したほうがいいかもしれないわ」
セレスが眉をひそめ、地図を広げて対策を考え始める。
一方、地下の祭壇では――
鍵石が淡く光を放ち、まるで心臓のように脈を打っていた。
ミレイナがそっと手を伸ばすと、石は彼女に応えるように熱を帯び、光が強まる。
「これは……封印が動き始めてる……?」
誰も何も言えなかった。
重たい沈黙の中、猫の王がぽつりと呟いた。
「選ばれし者よ。心せよ。闇は既に目を覚ましたのだ」
その声に、誰もが息を呑んだ。
風が鳴り、月が雲の切れ間に顔を出す。
「……間に合うのか」
俺は小さく呟いた。
夜は、静かに、だが確実に深まっていく。
⸻
地下の祭壇に、冷たい風が吹き込んだ。
どこかで、何かが軋むような音がした。
猫の王が、俺の前に立つ。金の双眸がじっと俺を見据えていた。
「問うわ。我が継ぎ手となる者よ」
「お前は……この運命に立ち向かう覚悟があるか。封を継ぎ、獣に相対する、その宿命を受け入れる気があるのか」
その声は、静かで、だが決して逃げ場を許さない重みを持っていた。
俺は答えを迷わなかった。
「もとより、そのつもりだ」
短く、そう言った俺に、猫の王は目を細めた。
「ならば――受け取れ」
王が足元をそっと前に出すと、鍵石がかすかに浮き、俺の手の中へとすべり込んできた。
淡い青緑の光が、掌に宿る。
その瞬間――地下の結界に、音もなくヒビが走った。
「……っ!」
誰かが声を上げるより早く、空間が揺れる。
石壁の奥、封じられていた“月の門”が、ごう、と音を立てて動き始めた。
月光が差し込む。だが、その光は不穏な闇を孕んでいた。
「いよいよね……」
セレスが呟く。
ミレイナが鍵石に手を添え、目を閉じた。
俺は強く拳を握りしめる。もう迷いはなかった。
この先に何が待つとしても――行くしかないのだわ。
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