15話:継ぎ手と封の王

 屋敷の地下書庫は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 壁一面に古い書物が積み上げられ、空気には長年開かれていなかった紙の匂いが漂っている。


 足元では猫たちが静かに歩き回り、ときおり棚の影を覗き込んだ。


 ミレイナが棚の一角で足を止めた。埃まみれの巻物に指を伸ばすと、ふっとかすかな光が走る。


「これは……」

 彼女は慎重に巻物を開いた。中には褪せたインクで記された複雑な図形と、古代語の文字。


「読めるの、ミレイナ?」

 セレスが背後から覗き込む。


「一部だけ……封印術の記録みたい」

 ミレイナは視線を走らせながら、指で文章をなぞる。


「『月を喰らう災い、地を蝕む獣を、わが魂と契約の石にて封ず』……これ、“月の巫女”って名乗る人物の記録よ」


「契約の石……あの石のことだな」

 俺が思わず口にする。


 ミレイナは頷いた。

「そう。この巻物によると、あの石は“開きの印”であり、“閉じの印”でもある。封印を解く鍵であり、再び封じる鍵なのね」


 そのとき、猫たちが巻物の前に集まり始めた。

 文字が記された紋章のあたりに、そっと身を擦り寄せる。


「……猫たちは、知ってるんだ」

 セレスの声はどこか遠くを見つめるようだった。





 深夜。屋敷に静寂が満ちていた。

 地下書庫での探索を終えた俺たちは、埃まみれの手を洗い、それぞれの部屋に戻る気力もなく、広間で休んでいた。


 そのときだった。


 窓の外から、月光がひときわ強く差し込んだ。

 それと同時に、屋敷中の猫たちがざわめき始める。毛を逆立て、静かに歩き、次々と窓辺に集まり出したのだ。


 


「……何か、来る」


 ミレイナが呟いた瞬間だった。


 夜の闇を切り裂くように、堂々たる黒猫が現れた。

 艶やかな毛並み、鋭い金色の瞳。誰の目にも、それがただの猫でないことは明らかだった。


 猫たちはぴたりと動きを止め、王の帰還を迎えるように頭を垂れた。


 


「まさか……あれが、猫の王?」


 ミレイナの声がかすれる。

 次の瞬間、その黒猫が口を開いた。


 


「また会ったな。我が名は……“王”と呼ばれし者。おまえたちを待っていたぞ」


 


 その姿にも、その言葉にも、嘘はなかった。

 威厳と気高さ。まるで古の貴族のように振る舞うその黒猫に、誰も言葉を返せなかった。


 


「……しゃべった……本当に、猫が……?」


 ミレイナが目を見開いたまま立ち尽くす。

 猫の王は、ゆっくりと歩み寄ると、炎の揺らめく暖炉の前に腰を下ろした。


 


「ルナ・ガルム――月喰いの獣。

 あれは、月光と魔力を喰らう災いの眷属。

 千年前、我らが巫女の手によって封じられたが……その封印が、今、緩みつつある」


 


「……そのために、“契約の石”が必要なのね?」


 セレスが問うように言うと、猫の王はわずかに頷いた。


 


「あれは、開く鍵であり、閉じる鍵でもある。

 だが、それだけではない。あの石には、我がかつての主――“月の巫女”の魂が宿っている」


 


 息を呑む音が重なった。

 猫の王は炎を見つめながら、静かに続けた。


 


「月の巫女は人ではなかった。我が王家に仕えた最初の契約者。

 彼女はその身と術をもって、封印の術式を完成させたのだ。

 それが千年の時を経て、今もあの石の中に残っている」


 


 誰もが言葉を失った。


 俺たちが手にした“鍵石”が、ただの魔具ではなく、一人の存在の想いと命の記憶だと知ってしまったからだ。


 


 窓の外。

 月は静かに、不穏な光を放ち始めていた。


 いずれ来る決戦の夜が、近づいている。





 空が静かに沈んでいく。夜が深まるにつれ、満ちゆく月が鋭く光を放っていた。

 屋敷の屋根の上で、猫の王が月を見上げた。


「……時は近いわね」


 その声に気づいたミレイナが顔を上げ、月を見やる。

 まるで空気そのものがぴんと張り詰めているようだった。


 そのころ、森では異変が起きていた。

 ふだんは静かな夜の林に、鳥の悲鳴が響き、獣たちが一斉に逃げ惑う。

 町でも、馬や牛が暴れ、住民たちが怯えながら夜を過ごしていた。


「魔物の出現が増えてる。町の守りを強化したほうがいいかもしれないわ」

 セレスが眉をひそめ、地図を広げて対策を考え始める。


 一方、地下の祭壇では――


 鍵石が淡く光を放ち、まるで心臓のように脈を打っていた。

 ミレイナがそっと手を伸ばすと、石は彼女に応えるように熱を帯び、光が強まる。


「これは……封印が動き始めてる……?」


 誰も何も言えなかった。

 重たい沈黙の中、猫の王がぽつりと呟いた。


「選ばれし者よ。心せよ。闇は既に目を覚ましたのだ」


 その声に、誰もが息を呑んだ。

 風が鳴り、月が雲の切れ間に顔を出す。


「……間に合うのか」

 俺は小さく呟いた。


 夜は、静かに、だが確実に深まっていく。





 地下の祭壇に、冷たい風が吹き込んだ。

 どこかで、何かが軋むような音がした。


 猫の王が、俺の前に立つ。金の双眸がじっと俺を見据えていた。


「問うわ。我が継ぎ手となる者よ」

「お前は……この運命に立ち向かう覚悟があるか。封を継ぎ、獣に相対する、その宿命を受け入れる気があるのか」


 その声は、静かで、だが決して逃げ場を許さない重みを持っていた。


 俺は答えを迷わなかった。


「もとより、そのつもりだ」


 短く、そう言った俺に、猫の王は目を細めた。


「ならば――受け取れ」


 王が足元をそっと前に出すと、鍵石がかすかに浮き、俺の手の中へとすべり込んできた。

 淡い青緑の光が、掌に宿る。


 その瞬間――地下の結界に、音もなくヒビが走った。


「……っ!」


 誰かが声を上げるより早く、空間が揺れる。

 石壁の奥、封じられていた“月の門”が、ごう、と音を立てて動き始めた。


 月光が差し込む。だが、その光は不穏な闇を孕んでいた。


「いよいよね……」

 セレスが呟く。


 ミレイナが鍵石に手を添え、目を閉じた。


 俺は強く拳を握りしめる。もう迷いはなかった。

 この先に何が待つとしても――行くしかないのだわ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る