月灯に灯る夜
アッキー
第1話
街のはずれ、ネオンが控えめに瞬く路地にスナック《月灯》はひっそりと佇んでいる。古びたビルの二階、黒塗りの扉には小さな看板が掲げられ、控えめな筆致で「月灯」と書かれている。ガラス窓から漏れる暖かな光は、通りすがりの者をそっと誘うようだ。だが、その扉にはどこか近寄りがたい空気が漂う。一見さんには敷居が高い、そう感じさせる何かがある。初めて訪れる者は、扉の前に立ち尽くし、躊躇しながらも意を決して手を伸ばす。雨の夜ならなおさら、濡れたコートを握りしめ、肩をすぼめてその一歩を踏み出すのだ。
扉を開けると、柔らかなジャズが耳に流れ込み、ほのかに甘い酒の香りが鼻をくすぐる。店内はこぢんまりとしているが、どこか懐かしい温もりに満ちている。カウンターは六席、奥には小さなテーブル席が二つ。壁には古いレコードジャケットが飾られ、棚には色とりどりの酒瓶が並ぶ。照明は柔らかく、木目のカウンターに温かな光を落としている。カウンターの向こうには、予想外の光景が広がっていた。そこに立つのは、若い女性。月城茜、27歳。このスナックのママだ。
茜はロングのウェーブがかった茶髪をゆるく巻き、今夜はサイドアップにまとめている。白い肌に、童顔ながらもどこか大人の色気が漂う顔立ち。黒のシースルードレスは肩を露わにし、彼女の華奢な体を強調しているが、品の良さがその装いをいやらしさから遠ざけている。茜はカウンターを拭きながら、ふわりと微笑む。その瞳は、まるで初めて会った相手の心を見透かすかのようだ。彼女の笑顔は、緊張した客の心をそっと解きほぐす。
「いらっしゃい。初めて? まあ、ゆっくりしていってよ。」
その声は落ち着いていて、どこか懐かしい響きがある。客は一瞬、言葉に詰まる。スナックのママといえば、もっと年上の、人生の酸いも甘いも知り尽くした女性を想像していたからだ。だが、茜の存在感はそんな先入観を軽々と裏切る。彼女はグラスを手に取り、氷をそっと滑り込ませながら、客の緊張を解くように言葉を続ける。
「何飲む? ウイスキー? それとも、ビールから始める? 初めてなら、私のおすすめで作ってもいいけど。」
彼女の笑顔には、まるで旧知の友を迎えるような温かさがある。客はコートを脱ぎ、カウンターの椅子に腰を下ろす。木の感触がしっくりくる椅子、背もたれの微かな軋み、カウンターの滑らかな手触り。すべてが、まるで家に帰ってきたような安堵感を与える。茜はグラスを磨きながら、さりげなく話を振る。
「外、寒かったでしょ? 何か温まるやつ、作ろうか? ホットカクテルもあるよ。」
客が「いや、ビールでいいや」と答えると、茜は小さく頷き、冷えたグラスに泡立つビールを注ぐ。シュワッと音を立てる泡、グラスの曇りが店内の柔らかな光に映える。彼女の手つきは無駄がなく、まるで小さな儀式のようだ。客は一口飲み、肩の力を抜く。ジャズのメロディが、会話の隙間を優しく埋める。
茜の過去は、この店に初めて足を踏み入れた者には想像もつかないだろう。
彼女は元々、都内の企業でOLとして働いていた。銀座にほど近いビルの一角、雑多なオフィスでデータ入力や書類整理に追われる日々。朝の満員電車は息苦しく、肩が触れ合うたびに苛立ちが募った。デスクに座れば、モニターの光が目に刺さり、エクセルの数字が無機質に並ぶ。ある日、上司に呼び出された茜は、会議室の重い空気の中で叱責を受けた。
「月城さん、この資料、ミスだらけじゃないか。クライアントにこれ出せると思ってたの?」
50代の部長は、眼鏡の奥で目を細め、書類を机に叩きつけた。
「すみませんでした…すぐ直します。」
茜は頭を下げたが、胸の内で苛立ちが渦巻いた。ミスは確かに彼女のものだったが、部長が前夜に急に押しつけた追加作業のせいで、確認する時間がなかったのだ。謝罪しながら、茜は思った。
「この仕事、いつまで続けるんだろう。」
退社後、コンビニのサンドイッチを手にアパートに帰る。ワンルームの部屋は静かすぎて、テレビの音だけが虚しく響く。茜はベッドに腰を下ろし、ため息をついた。
「このまま、ずっとこうなのかな…。」
そんな日々が、彼女の心をすり減らしていった。生活は安定していたが、どこか空虚だった。彼女の心の奥には、いつも別の夢が息づいていた。
茜の心の奥には、いつも別の夢が息づいていた。幼い頃、母が営んでいた小さなスナック。カウンターの向こうで、母はいつも笑っていた。茜がまだ7歳の頃、母のスナックに連れていかれた夜の記憶は、今も鮮明だ。店は狭く、カウンターに5席、壁には色褪せたポスターが貼られていた。客は近所の常連ばかり。母は赤いワンピースを着て、グラスを磨きながら客と笑い合っていた。
「茜、ほら、このおじちゃん、歌うまいんだから! 聞いてみな!」
母はそう言って、常連のサラリーマンにマイクを渡した。酔った客が演歌を歌い始め、店内は笑い声で満たされた。茜はカウンターの隅でジュースを飲みながら、母の笑顔を見ていた。母の声は、客の愚痴も笑いもすべて包み込むようだった。
「茜、大きくなったら、こんなお店やってみる? 楽しいよ、人の話、聞くの。」
母はそう言って、茜の頭を撫でた。その手は温かく、酒とタバコの匂いがほのかに混じっていた。
だが、母は茜が小学生の頃、病で他界した。スナックは閉まり、茜と弟は父の手で育てられた。母の思い出は、茜の胸に小さな灯りのように残った。
「母さんの店、いつかもう一度やりたい。」
その思いが、彼女を脱サラへと突き動かした。
開業は簡単ではなかった。貯金をはたし、銀行から融資を受けたが、条件は厳しかった。担当者は30代の男性で、書類を手に眉をひそめた。
「月城さん、27歳でスナック経営はリスクが高いですよ。経験もないのに、本当にやれますか?」
「やります。母の店をもう一度、この場所で。」
茜は目を逸らさず答えた。友人にも「無謀だ」と反対されたが、彼女の声には、揺るがない決意があった。
ビルの二階、かつて母のスナックがあった場所は、埃と古い酒の匂いが残る空き店舗だった。内装は自分で計画し、知り合いの大工に相談しながら進めた。カウンターは古いものを磨き直し、壁には母が好きだったジャズのレコードジャケットを飾った。酒瓶を並べ、照明を選ぶたび、母の店が少しずつ蘇る気がした。だが、資金はすぐに底をついた。開店前夜、茜はカウンターに座り、空のグラスを手に呟いた。
「母さん、こんなんで…やっていけるかな。」
不安はあった。27歳の女性がスナックのママとしてやっていけるのか。客は来るのか、経営は成り立つのか。それでも、茜は譲らなかった。母の笑顔を、カウンターの向こうで再現したかった。
蓋を開けてみれば、店はあっという間に評判を呼んだ。茜の持つ独特の魅力——包容力と、どこか姐御肌な強さのバランスが、客の心を掴んで離さなかった。開店から数ヶ月で常連客が増え、路地の小さなスナックは、夜ごとに悩める者たちの灯台となった。
「ママ、若いのに、なんか…ほっとするな。」
ある常連が、グラスを傾けながらそう呟いたことがある。茜は笑って答えた。
「ふふ、ありがと。ほっとする場所にしたかったから、嬉しいな。」
彼女の声には、飾らない温かさがある。客はグラスを握り、つい本音を漏らす。仕事の愚痴、恋の悩み、人生の迷い。茜は決して急かさず、ただ静かに耳を傾ける。彼女の瞳は、相手の言葉を一つも逃さず受け止めるようだ。時折、軽い冗談や茶目っ気のある笑顔で場を和ませるが、決して軽薄にはならない。その絶妙な距離感が、客を惹きつける。
だが、すべての客が最初から茜の魅力に気付くわけではない。新規の客の中には、若いママを見て舐めた態度を取る者もいる。セクシーなドレスに目を奪われ、軽口を叩いたり、セクハラめいた言葉を投げかける者も少なくない。そんな時、茜の瞳は一瞬鋭さを帯びる。
「ねえ、お客さん。楽しく飲むために来たよね? なら、ルール守って、楽しくやろうよ。」
その声は穏やかだが、どこか有無を言わさぬ力がある。たいていの客は、そこでハッとして姿勢を正す。彼女の言葉には、相手を否定せず、しかししっかりと線を引く強さがある。酒に強い茜は、そんな客とも堂々と向き合う。
飲み比べを挑まれても、涼しい顔でグラスを空にする。彼女のそんな姿に、客は次第に心を許していく。
「ママ、なんか…負けたよ。参ったな。」
ある夜、酔った客がそう笑いながら言った。茜はグラスを手に、軽く首を振って答えた。
「ふふ、勝ち負けじゃないよ。楽しかったなら、それでいいよね?」
夜が深まるにつれ、そんな客たちも茜のペースに引き込まれていく。彼女の作るカクテル、軽やかな会話、時折見せる茶目っ気のある笑顔。気づけば、彼らは心のどこかをほぐされ、帰る頃にはこう呟くのだ。
「ママ、なんか…すごいな。明日、ちょっと頑張ってみようかな。」
茜にとって、この仕事は天職だった。母から受け継いだ才能なのか、それとも幼い頃に母を失い、弟の面倒を見ながら育った経験が彼女をそうさせたのか。彼女の母性は、訪れる者を包み込み、時にはそっと背中を押す。店の経営も順調で、常連客は増え続けている。カウンター越しに見る茜の笑顔は、まるでこの店の名前そのもの——月灯のように、柔らかく、しかし確かに光を放っている。
ある夜、常連の一人がグラスを手に、ぽつりと呟いた。
「ママ、なんでこんな仕事始めたの? なんか、もっと…派手なことできそうなのに。」
茜は少し考え、微笑みながら答えた。
「うーん、派手なの、向いてないんだよね。私、こうやって人と話して、笑ったり、ちょっとだけ誰かの力になれたら…それでいいかなって。」
彼女はグラスに新しい酒を注ぎ、客に差し出す。
「ねえ、今日はどんな気分? 何か面白い話、聞かせてよ。」
その言葉に、客はふっと笑う。ジャズが流れる中、カウンターは再び温かな会話で満たされる。その夜もまた、《月灯》のカウンターは、誰かの心を照らす灯りとなるのだった。
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