第一章

「えーはい、こちらは国会議事堂前です」


建物の出入り口から車道のタクシーまでの短い距離に、黒いスーツを着た人達が溢れるように集まっている。マイクを持ちながらカメラに向かって真剣な顔で話している厚化粧の女性やここまで必要なのかと呆れるほどに大きなカメラを肩に担いでいる長身の男、かちゃかちゃと無骨な機械を操作している青年などが、試合前の大事な瞬間と同じような並々ならぬ緊張感を漂わせていた。その雰囲気に、何事かと集まった野次馬たちも近づけずにいる。だが彼らの手にも、デジカメやカメラモードにしたスマートフォンが握られているのが見える。


大きなカメラに向かって何か話していた女性がふいに、


「あ!今、問題になった人物が出てきました」


そう叫ぶ。

その声が合図だったかのように、スーツの人たちが一斉に入口の方へと歩み寄り、カメラを向け、精いっぱいにフラッシュを炊く。


「今回の解職について、何か意見を!」

「解職の理由について、何かご存じなのでは?」

「何か一言、一言お願いします!」


そんな声が聞こえているのか聞こえていないのか、人の波をかき分けて進んでいった一人の男性は何事もなかったかのように落ち着いた様子で黒塗りの高級そうな車に乗りこむ。


「何もコメントを得ることはできませんでした。スタジオの田村さんお願いします」

『はい、スタジオの田村です。参議院議員の解職は、それほど珍しいことではありませんが、彼は議員になってからまだ八か月しか経っていないですよね。退職の理由としてはいろいろ考えられますが、もしかしたら裏で何か賄賂のようなものを受け取っていたことも考えら……』

俺の隣でそんな声が聞こえてくる。

黒塗りの車に乗っていったのは、間違いない。親父だ。


「親父?親父⁈」


信じられないという驚きと、間違いであってほしいというわずかな期待だけが、俺の心を包んでいた。その時、

ヴ―ン、ヴ―ン

唐突に右ポケットに入れていた携帯電話が震える。

親父からだ。

「お、」

「明、家へ帰れ」

俺の言葉を完全に遮り、その命令が耳元へやってくる。

「なんで」

「いいから。早く帰って荷物をまとめておけ。引っ越すぞ」

「まっ」

ツー、ツー

通話が切れ、右手の携帯電話が鳴く。

携帯の「通話を切る」を震える指で押したときにはもう、親父を乗せた車はかなり遠くなっていた。

「まって、親父」

決して追いつけるはずがないと分かっていたけれども、俺の両足は段々と小さくなっていくその黒い点を追いかけていた。

「まって、まっ、て」

必死に追う。でも、もう見えなくなった。

「まって、待ってくれよ、親父い!」


「はっ」

がばっと布団を蹴り上げ、跳ね起きる。

窓の外はチュンチュンと鳥の声が鳴り響き、清々しい空気が流れている。遠くでは町の広報マイクが明るいオルゴールの音を鳴り響きわたらせる。そんな、夜の闇が薄くなり、明るい黄色の光が空を覆う時間。少し開いた窓の隙間から肌寒い風が吹き、ぶるっ、と身をよじらせる。


枕元のシンプルな時計が6:32と眩しいデジタル文字を光らせた。

「はあ。またあのこと引きずってんのかな。まさか夢にまで出てくるなんて」

誰に言うのでもなく、自分に問いかけてみる。問いかけたところで答えが出るわけでもないが。

「さて、と」

頭を切り替えるために、ベッドに座り込んだまま軽く伸びをする。すると背中からごきり、という変な音と気持ちよさがやってくる。

とりあえずベッドから降り、部屋から出ることにした。


俺は北条明。金持ちのボンボンだった。親父がスキャンダルを起こし、今じゃ普通の家庭と何も変わらない。俺は普通高に転校し、親父は無職の中年ニートだ。まあ生活には困らないだけの金を持っているだけましだが。

「ま、どうせ俺は金持ちどもと仲良くする気は無かった訳だし」

誰に言うでもなく、独り言を呟く。そして

「よっ、と」


フライパンで焼いていた鮭の切り身を裏返す。魚の油とサラダ油が混ざり、じゅっ、と香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。その匂いを少しばかり堪能した後、フライ返しでそれを皿に盛りつける。

「おーい親父、朝飯出来たぜ」

皿に移した作りたての朝飯をテーブルの上に並べながら言う。おかずは作り終えたので、後はお椀にご飯を盛るだけだ。

「あ、ああ。」

これまでテーブルの椅子に座ったままぼーっと新聞を読んでいた親父が、ようやく俺の方に視線を移す。

しわやほうれい線が目立つやつれた顔に、数本白髪が見えるぼさぼさで生気のない髪。猫背気味の見るからに疲れが目立つ俺の父親はゆっくりと、テーブルの方に体を動かしていた。

そんな父親を横目に見ながらお椀にご飯を盛り、使い古されたテーブルの上に置く。

「いただきまーす」「……」


昔から俺は洗濯や掃除などの家事は俺の仕事。特に炊事は本業の主婦にだって負けない自信がある。その料理を、親父はいつもノーリアクションで食べる。不味いわけではないのに。

会話のない、無味乾燥な朝食。

「ん、」

ふと、新聞に載っている記事の一つが目に留まる。

少しでも空気が変わるようにと、親父に話しかけてみようか。

「なあ親父、この記事見てくれよ。男性用の下着ばかりを盗む空き巣だってさ。被害にあったのってこの近くだぜ」

「……」

「俺らも気を付けないとな」

「ああ」

会話終了。俺にはもう話題も話しかける気力もない。ただ箸を動かしたり咀嚼をする音だけが聞こえる。

「ごちそうさま」

この不思議な空気に耐え切れない。さっさと食事を終らせることにした。

「……」

親父はまだ食事の途中だ。

「じゃあ、俺は先に支度しておくから」

「……ああ」

そう言いながら箸を進める親父の横で、流し台に汚れた皿を置く。

ここ数年、俺らはこんな感じた。


今日は五月六日。短いゴールデンウィークが終わって最初の登校日。「五月病」というものがあるくらいに、五月は何もない。


長袖ブレザーの制服に着替えた俺は、自分の手帳を見ながら何も予定が入っていないことを確認する。そして大きな仏壇の前に座り、線香を立てる。

「おふくろ。今日はそこでの十五日だろ。一応連絡しておくぜ。あ、そうそう俺、もう転校して1か月たったんだ。早いよなもう。でも俺のことは心配しなくていいからな。」

無口な親父と何も語らないおふくろ。もう声を聴くことのできない存在のほうが話しやすいから不思議だ。

「おふくろ、じゃあ行ってくるぜ」

仏壇の前に置いてあった小さな鍵付きのペンダントを勢いよく掴み取り、母親を後にする。

母親の形見のペンダントロケット。中身は若い2人が写っている家族写真だ。野心あふれる顔つきの男性と赤ん坊を抱っこしている優しそうな女性が幸せそうにこちらを見ている。それを俺はポケットに大事にしまう。

「じゃあ、行ってきまーす」

ガチャリと鍵をかけて家を出る。


俺がかつて通っていた学校は、日本でもかなり有名な私立の高等学校だった。

親の七光りもあったせいか俺を知らない人はほとんどいなかった。なにせ俺が持っている肩書きが、俺には重すぎるほどに大きかったからだ。ゆえに俺に近づく人も、友達と呼べるような人もいなかった。そして忌々しい事件、親父に発症した統合失調症。俺は逃げ出すように転校した。

そして――

ドン!

「痛っ」

「ひゃっ」

曲がり角から猛スピードでやってきた少女にぶつかった。目の前で尻餅をついている少女はいてててと腰をさすっている。

艶やかな長い黒髪をあちこちに振り乱し、少し涙目になっている。どうしよう。すごく可愛い。

幸いにも俺は胸に重い衝撃を食らっただけで済んだ。少し息が苦しいだけだ。

「だ、大丈夫?」

とりあえずぶつかったその子に手を伸ばす。

「大丈夫、なわけないでしょう! いきなりぶつかってくるなんて」

はあ、はあ、と息を切らしながらその子は叫ぶ。

えっと、思いっきり走っていたのってこの女の子のほうだよな。もしかしてこれって、あたり屋なのか。「骨が折れたから慰謝料払え」なんて脅されたりするのかな。

「じゃあ私急いでるから」

どうやらあたり屋ではないらしく、俺のことなんて無視するかのように立ち去ろうとする彼女。その膝には薄く血が流れている。

「ち、ちょっと待って」

反射的に、走り去ろうとする少女の腕を掴んでしまう。

「なによ」

焦る俺とは反対に、冷めた目つきで俺を見下すその少女。

「ひざ、膝。血が出てる」

「ああ、それ。どうせすぐ治るわよ」

「ばい菌とか入ったら大変だろ。見せてみろ」

「……はあ」

何故かあきらめたような表情になる。

とりあえず鞄からガーゼや消毒液を、財布から絆創膏を取りだす。

手当てをする俺に向かって

「あんたって、どっかのお母さんみたいね」

なんて言われる。嬉しいかどうかちょっと微妙なラインだけど。

「そう。なんか照れるな」

「女々しいって言ってるのよ」

はあ、と溜息が頭の上から聞こえる。ばかにされている気分。

「まあ、これでよし」

水玉模様の絆創膏を貼りながらつぶやく。

「あっそう」

その少女は長い黒髪を翻しながら去って行ってしまった。

お礼すら言ってない。なんなんだあの女は。


「はあ」

「どうしたんだい、明君」

どかっ、と机に鞄を置いた俺の傍に、少し肌の焼けた童顔の少年が現れる。短く刈り上げた黒髪が特徴的で、身長は高いほうではないがしっかりした体格をしている。まさにスポーツマンを名乗るにふさわしい。だが彼はサッカー部でもバスケ部でもない。野球部でもカバディ同好会でもない。というか運動部じゃない。


彼、浦部翔は新聞部に所属している。両親ともマスメディアに関わる仕事をしているらしくそのせいか彼もジャーナリスト精神旺盛だ。野次馬根性ともいえるが。

「どうもこうも。今朝女の子とぶつかったんだけど」

「なんだそれ。マンガかよ」

にやにやと笑う翔だが、ボーイミーツガールを期待してはいけないと思う。

「それが助けられてお礼もしない女でもか」

「それはそれでいいんじゃね。一つの萌えとして」

「楽観的すぎるだろ」

「お、なになに?何の話をしてるんだい」

ひょこっ、と俺の視界の隅に見覚えのある顔が現れる。栗色の髪の毛をポニーテールにまとめた、明るい女の子だ。校則違反ギリギリの短いスカートを翻し俺達のところにやってくる。

彼女は玉木桜。いつもどこでも元気いっぱいを素でいく少女。

「どうしたの、ぼうっとして」

「えっ、わっ。悪い」

視界の隅にあった少女の顔が俺の目の前までやってくる。ふわんとした女の子の髪のにおいが鼻をくすぐり、心臓から体全体に温かいものが湧き上がってゆく。

「ねえねえ。だーかーら、なんの話してたの」

「明が、美少女と出会ったらしいよ」

「え、ええええっ」

「曲がり角でぶつかって、そのまま一目ぼれ」

「ふえええ、しょ、少女マンガみたい」

桜は耳まで真っ赤になってる。

「……桜はこんなロマンチックな展開に弱いんだ」

翔が俺にだけそっと耳打ちしてきた。なるほど、そうなのか。いいこと聞いた。

「そそ、それでそれで?」

「えっとね、」

「お、おいやめろよ」

「はいはい、ホームルーム始めますよー」

「ちぇ、先生来ちゃった」


がらっと教室のドアを開けて担任の先生が来た。頭のてっぺんから白髪が伸びつつある初老の先生だ。

その先生は俺らにとって物理の先生であると同時に、宇宙物理の研究者でもある。しかし教師や研究者にありがちな驕りや偉そうな態度が全くなく、男女問わず評判が高い。もちろん俺も生徒のことを親身になって考えてくれる先生が担任でよかったと思っている。

「じゃあ、続きは休み時間でも」

「お、おいやめろよ」

「楽しみー」

「こら、お前たち早く座れ」

先生が「座れ」と言うが早いかチャイムの鐘が鳴り響く。グッジョブ。


今は午後三時ごろ。六限目。何もやることがない長いロングホームルームの途中。学級長のお知らせをBGM代わりに各々が読書をしたり、隣人同士でしゃべったり、机と腕に顔を埋めて爆睡していたりと、自由に時間の持て余し中だ。

目を凝らしてみると、友人である翔と桜が二人で何か話をしているのが見える。桜のリアクションから見てみるに今朝の俺の話をしているのだろうか。まあいい。諦めた。

「あ、そうそう忘れてた。今日席替えあるから」

この一言をきっかけに皆が一斉にがばっと起きあがる。

「よっしゃああ」

「イエーイ」

「まじかー」

「……今度こそ、今度こそ、こんどこそおおおお」

「なあなあ、窓際なったら交換しようぜ」

素直に喜ぶ者、心残りがある者、まだ始まってもいないのに交換を申し込む者、必死に祈る者(?)などなど。

俺の心の中は、転校生のために急きょ整えた、隣の人のいない余り物の席から離れることができるという喜びが四割、一人でいる気楽さから離れるという寂しさ一割。残りの半分は席替え特有の期待感だ。

「じゃあ、今回も私のゴットハンド方式でいくからな」

「えーまたっすか」


「つべこべ言わない」

ゴットハンド?


「明君は二年生からこの学校に来たんだよね」

「うん。ってうわっ!」

一番後ろの席であるはずの俺のすぐ後ろに翔がいた。膝立ちの姿勢のまま、いつものにやけた顔で俺の方を見ていた。

「ゴットハンドなんて言ってもそんな大層なもんじゃないよ。先生がランダムに指定した番号、ほら、今黒板に描かれているものなんだけど」

翔の言うとおり黒板には教卓を模した四角と、この教室の机の配置を示した四角が描かれて 

いる。その四角で囲まれた小さな空間に、1、5、18と規則性の見当たらない数字の羅列が描かれてあった。教卓には数字ではなく「教卓」と漢字で書かれているが。

「そしてクラスの番号順に名前と、くじ引きの番号が呼ばれるんだ」

現に今も「安奈、二四番」と先生の声が聞こえてくる。その声が響くたびに、黒板を向き立っている書記がいそいそと数字を消し、聞こえた言葉通りに名前を書き続けている。

「北条、三五番」

「は、はいっ」

「いや、返事はしなくていいから」


あっ


クラスの皆はそれほど気にしていないようだが、一部からくすくすという笑い声が聞こえてくる。ちょっとつらい。

「じゃ、僕は戻るね」

「ああ。ありがとうな」

「こちらこそ」

翔は鼻歌を歌いながら自分の席に戻っていく。あいつ意外と自由人だな。


「じゃあ、今からこの席ね」

皆それぞれ黒板の四角と名前に従って、席を変えている途中。

小学生の頃やったような机と椅子ごと移動するやり方ではなく、自分の荷物を移動するだけの簡単な席替えだ。それに長いホームルーム中だったこともあり、たいてい荷物はまとまっている。


俺は左から二番目、前から四番目の席だった。一番後ろでも窓際でもないが、そこまで悪い席ではないと思う。周りにはまだだれもおらず、いや、今左側のちょうど窓際の席に一人の女生徒が腰を下ろした。


長い黒髪を腰まで伸ばしている、綺麗な少女だった。右手で髪を抑えながら虚空を向いているその姿は、芸術だった。きっと世界中の芸術家達はこの瞬間を切り取ることを生きがいにしているのだろう。窓から吹き抜ける風が教室の中で散ってゆくわずかな間、その艶やかな黒髪が宙で踊る一瞬の間を。

芸術的なその少女が、ふと右を向く。俺のほうを見る。俺と目があった瞬間、


じーとおー


睨まれた。眠たそうな目で睨まれているのでそんなに怖くはないのだが、睨まれた。なぜ?

あれ、この子ってもしかして

「もしかして、今朝あった女の子?」

「だれ、あんた。知らないわよ」

凛とした声で言われた。即答か。

「ほら、今朝通学路で」

「今朝?何言ってるの」

この口調や声色には聞き覚えがある。

「でも」

口を開こうとしたその時、俺たちの周りになぜか人垣が作り上げられていた。

「おい、あいつあの『黒獅子』に話しかけようとしてるぞ」「っていうか、今日『黒獅子』起きてる」「命知らずだな」

俺たちの周りに群がっている人達が口々にそんな言葉を吐き出す。

えっと、どういうこと?まったく状況がつかめない。

「だから、今朝」

「知らないって言ってるでしょ!」

「う、うわっ」

急にがたっと立ち上がり、俺のほうへ詰め寄る。

風のいたずらだろうか。彼女が立ったと同時にスカートが少しばかりめくれ、膝のあたりにある絆創膏が目に留まった。見えたのは絆創膏だけだ。下着は見てない。

誰も彼女の膝にある絆創膏なんて気にも留めなかっただろう。知らないのだから。

でも俺は、あることを思いついた。

「あ、あの。絆創膏」

「絆創膏?」

「うん。ほら」

ぴらっとスカートをめくる。先ほどの見間違いとかではなく確かに絆創膏は貼ってある。

だが俺に今必要だったのは、証明ではなく常識だった。

「ひやあああああぁぁぁっ!」

彼女の体全体が一瞬ノイズのようにぶれた後、突然俺の視界が真っ黒になる。そしてゴキッという鈍い音と衝撃、そして彼女の大きな悲鳴が頭の中で響き渡る。俺は意識を失いながら後ろに倒れていく。


すごく遠い場所から

「おい、あの転校生が黒獅子にセクハラしたぞ」「すげえ。勇者だ」「……変態」

なんて言葉が聞こえた気がした。


ここはどこだ?

俺の視界には、蛍光灯が淡く輝く真っ白な天井がある。

体には重くて動きづらいベッドカバーがかけられていて、頭の後ろには枕のようなものが当たっている感触がある。

重苦しいベッドカバーをどかしながら体を起こすと、ここが薄緑のカーテンで覆われている病院の一室みたいなところだった。

「気が付いた?」

「うわっ!」

カーテンの隙間からにゅっ、と人の顔が現れた。

「な、なな……」

きっと今、俺は信じられないほどに情けない顔をしているだろう。なぜなら

「ははっ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」

そんなことを言いながら、驚かせた本人は目に涙を浮かべながら必死に笑いをこらえているからだ。自分の情けなさとその人の笑いをこらえた表情で、何故だか怒りが込み上げてきた。

「なんだよ」

俺は少し苛立ちながら聞く。

「お前は誰なんだよ」

「ああ私? 私はこの学校の校医だよ。そういえばあんた、転校生だったっけ」

「転校して一か月経ってるけどな」

俺が軽口を叩いている間にその人は俺の方へ歩みを進め、握手を申し込んでくる。

「よろしくね」

「お、おう。よろしく。って、そうじゃなくて」

混乱する頭を整理しながらベッドのふちに座り

「俺は何でこんなところにいるんだよ」

握手のために伸ばした手を無視して、俺は質問を続ける。

「ふう、大変だったわ。君のクラスメートたちが君をここまで運んで、そのクラスメートたちに色々話聞いて。後でお礼言っときなさいよ」

「はい」

「でもまあ君が運ばれてきたとき君は白目向いて失神していたし、そもそも君が失神した理由っていうのが……ぶほっ」

「わ、笑うな!」

そういえば俺はあの女の子に殴られたんだよな。たぶん。

今思い出すととてつもなく恥ずかしい。

「まあ、軽い脳震盪だと思うから心配ないわ。顔がはれたりもしてないし。少し頭にこぶが出

てるくらいだけど、大丈夫よ。深呼吸でもすれば少しは軽くなるはずよ」

「あ、ありがとうございます」

ひとまず落ち着いてゆっくり息を吸いながら、目の前にいる人を見る。


な⁈


「ぶおっふぉ」

「ん、どした?」

「い、いえ。なんでも」

吸いかけた息を思いっきり吐いてしまい、気分が悪くなる。

さっき『学校の校医』だと言っていたよな。この人。ありえない。

目の前には、とても美人の女性がいた。なぜ学校なんてところにいるのか疑問を感じるほど妖艶で、色っぽい女性だ。細長く垂れている眉毛やぽよんとしているアヒル口、そして白衣の間から見える下着と大きな胸(と谷間)にどきどきしてしまう。

「しかしまあ、あなた黒獅子ちゃんに蹴られたんですって?」

「ん、黒獅子?」

朝会った女の子に話しかけた時、たしか周りがそんな感じの言葉を言っていたような……

「あなた、知らなかったの?」

そのセクシーな校医さんは目を見開き驚いた顔をする。

「……そっか、もし知ってたらこんな事しないわよね」

「で、何なんだ『黒獅子』って」

すごい中二くさいネーミングだな。

ふう、と目の前の校医は眉をしかめ、唇に手を当てて考えるそぶりを見せる。まるで俺に話しても良いか考えているみたいに。

「『黒獅子』っていうのは、あの子の名前なの」

朝会ったあの子が黒獅子?

「名前っていうより、通り名ね。いつ誰が付けたか分からない。名前の由来も知らない。でも彼女は皆から『黒獅子』なんて呼ばれてる。本人の意思とは関係なく」


その女医さんは目を伏せ、少し愁いのある表情になった。

「……」

「さて、私はもう戻るわね」

くるりと踵を返し、カーテンを翻して彼女は行ってしまった。

黒獅子。

『本人の意思とは関係なく』『「黒獅子」なんて呼ばれてる』

それって、どういう気持ちなんだろう。こんな名前を付けられて、呼ばれて。

彼女は不満や不服を訴えたりしたのだろうか。

「まあ、考えてても仕方ない」

しかし、すごい人だったな。校医さん。

体の形が、こう、大人の女性っていうか


ばふっ


少し気を抜いた途端、ベッドに頭から倒れ込んでしまう。

まだ少しダメージは残っているらしく、まだ頭はくらくらする。


もう少し眠ろうかな


一人で静かになると、保健室に流れるオルゴールの音がよく聞こえる。その音はまるで子守歌のように、いや実際子守歌でもあるんだろう。

目を閉じるとすぐに眠ってしまった。

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ディシュバリー・クリスティ! そらみん @iamyuki_t

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