ムードメーカー
祐里
1. 兄貴からのプレゼント
「ただいまー」
バイト帰り、玄関を入るといくつもの「おかえり」が聞こえてくる。俺は靴を脱ぎ、小さいスニーカーを踏みながら家に上がった。
「なあ、
狭いリビングで、やけに真面目な顔をした兄貴が話しかけてきた。魔導戦艦ピカルンの戦艦のところにシミのあるクッションに、俺の尻が下りる瞬間だった。
「何?」
「ムードメーカーってさ、一文字惜しいよな」
「惜しい?」
「ヌードメーカーならムフフなのに」
いつになく真剣に何を言うかと思えばこれだ。大方、ネット動画でプロ野球選手か誰かが『チーム内のムードメーカーです』なんて言われているのを見たんだろう。
「バカじゃねえのクソ兄貴」
「バカかクソかどっちかにしてくれよ」
「じゃあバカで」
「かーさーん、颯太がいじめるー」
「母さん今忙しいだろ。ちっとは気ぃ遣え」
「え、なになに、
台所からひょこっと顔を出したのは、母さんと一緒に台所仕事をしていたはずの
「何が『いじめるー』だ。本当に
「やば、おもしろ。颯太兄ちゃん、何の話してたのよ」
紗季はわくわくした表情を隠そうともしない。
「何でもねえよ、紗季は母さんの手伝いしてろ。俺は弟どもの……って、あっ、こら、ソファで寝るな!」
ソファでじゃれ合っていた小学生の弟三人は、全員うつらうつらしている。喧嘩していないのは何よりだが、こいつらまだ風呂入ってねえだろ。
「
くっそ、親父の長期出張中は本当に大変……いや、あのクソ親父、いても役立たずだった。酒飲んでばかりで何も任せられやしねえ。
「ついさっきまで『いっせーのせ』やってたくせに! 起きろー!」
「きゃはは、無理無理、無理だよー。ほっといていいって。先にお風呂入っちゃえば? あの子たちのお風呂はお母さんが入れればいいし」
「いや、それじゃ母さんが大変だろ。それに今は兄貴が入ってるよ」
「康太兄ちゃんならもう出てくるよ」
「さすがにそれは早すぎ……」
「出たぞー。ほら、颯太、入れ」
紗季は「ね?」とけらけら笑い、台所に戻っていった。
「……パンイチやめろ、そのデカい腹を隠せ。いやそれより、どこ洗ったんだよ。いくら何でも早すぎね?」
「風呂なんかヌかなきゃこんなもんだって。あ、そうだ、おまえにこれやろっか」
クソ兄貴がスマホで見せてきたのは、有名女優のクソコラヌード画像だった。
「翔太はまだ浸かってろよ、あと三十数えるように。ああ、裕太、先に出てろ。龍太、いつまでも泡作ってんじゃねえ、さっさと流せ。ちょっ、裕太、泡! 踏んでる踏んでる! 足流しとけ!」
こんな状況でいつヌけと? つーかあんなクソコラでヌけるかっての。本当にあのクソ兄貴はバカだ。ああ、バカに統一しないといけないんだったか。めんどくせえ、クソとバカ併用でいいだろ。
「颯太兄ちゃん、夕飯できてるよ」
「ああ、さんきゅ」
やっとのことで弟三人を風呂に入れ、歯磨きさせ、寝かしつけた。母さんが風呂に入っている間に、紗季がダイニングに用意してくれた夕飯を食べる。
「紗季、風呂は?」
「私、もう入っちゃった。夕飯前に」
「おまえも大変だよな。せめて兄貴がもうちょっとしっかりしてたら……」
「康太兄ちゃんはあれでいいんだよ」
「ニートなのに?」
エプロン姿の紗季を見上げると、ふふん、と誇らしげに笑う。中学生になってからやけにこの顔が増えた気がする。
「康太兄ちゃんも色々あるからさ。きっとまた真面目に働き出すと思うよ」
「……そうかなぁ……」
クソ兄貴は、あののんびりした性格のせいで、就職先でいじめられたらしい。ある日突然「仕事辞めたわ」と家族に告げ、それからもう三ヶ月も経っている。
「職場でいじめられてたなんて、全然知らなかったじゃない、私たち。楽しそうに会社通ってて」
「……そうだったな」
「いつも明るい兄ちゃんでいたかったんだと思う。辞めたあともさ、『いじめとか最低じゃん? だから辞めてやったわ』って笑ってたよね」
紗季の口真似の上手さに感心する。
「それでもさ、言えってんだよ。くっだらねえことばっか言ってねえで」
「あはは、颯太兄ちゃんのそういうとこ好きだけどね、ま、察してやりなってことだよ」
俺は黙って形の悪いハンバーグを箸で切って口に運ぶ。
「美味えな、これ」
紗季は「豆腐でかさ増しだけど」と笑った。
◇
バイトで稼いだ金をつぎ込んで、土日祝日休むことなく自動車教習所に通った甲斐があった。十八歳になってすぐ、朝早く本免許試験を受けに行った甲斐もあった。よし、これで俺も弟どもを一気に運べるぞ。ボロいハイエースだが。
「ただいまー。免許取ったぞー! これで車運転できるぞー!」
「颯太兄ちゃんすげー!」
「おめでとー、颯太兄ちゃん!」
「やったな、颯太兄ちゃん!」
「おお、ありがとな」
弟どもの尊敬の眼差しが気持ちいい。おまえらはそのまま素直に育ってくれ。
「颯太、一発で取ったのか? すげえじゃん!」
「普通一発だろ」
「俺、三回目で合格したけど?」
そうだった、クソ兄貴はちょっと頭の出来がアレなんだった。
「……三回目で合格できてよかったな」
「そこで! 俺から! プレゼント!」
「マジか! 兄貴やるじゃん!」
と、言ってから気付いた。きっとまたクソコラ画像だ。うっかり喜んでしまった。そんな苦々しい思いでクソ兄貴の言葉を待っていると、「これだ!」という言葉とともに原付バイクのキーが差し出された。魔導戦艦ピカルンの美少女精霊ぬいぐるみキーホルダー付きで。
「……それ、兄貴のだろ?」
「おまえ前から免許取ったら原付もほしいって言ってたよな。俺、駅前でバイトすることになったから、もういらないんだ」
「え、いや、いらなくはないんじゃ?」
「前の会社にはこれで通ってたけど、駅前の駐輪場、原付よりチャリの方が安いだろ」
受け取りながら「そっか、さんきゅ」と言うと、「へっへっへ」とクソ兄貴は笑う。誇らしげ度では紗季といい勝負だ。
「で、駅前のどこだよ」
「あー、本屋、裏方」
「へー、裏方ね。いいじゃん」
この時の俺は、普通自動車第一種免許取得と原付ゲットで舞い上がっていた。
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