04. 本性に気付いた夏(2)

 ぼくは、おそるおそる優子ゆうこさんの隣に移っていった。


 陽の光にきらめく広い海をむような入り江を形作る、背の低い山々のすそは黒々としていた。部屋はどんどんと蒸し暑くなっていった。しかし爽やかな浜風が、ぼくたちにまとわりついてきてもいた。優子さんは、茫洋ぼうようたる大海の向こうの水平線の方へ目線を投げているらしかった。


 子供たちが鳴らす鐘の音は、まるで遠くで奏でられているかのように、はかなげに聞こえていた。松の木の枝葉は燃え立つように色濃く、庭に落ちている陰は、風雅ふうがに見えながらも、こちらを不安にさせるような不気味さが感じられた。たとえるなら、異界へ繋がる洞穴ほらあなのようだった。


千弘ちひろくんには、彼女がいるの?」

 いないということを言うのは、どこか恐ろしかった。強盗を前にして、自分が軟弱なんじゃくであることを宣言するのと同じようなものだと考えられた。


「いまはいないです」

「そう……」

 入江の向こうの大海の上を、風に乗った雲がくように横切っていく。雲が落とす陰が、ひとところに安定しないのは、美しくもあったし、落ち着かなさを感じさせもした。しかしその根底には、ぬぐいきることのできない感動のようなものがあった。


「彼女がほしいって思わないの?」

 どうしてそんなことをくのだろう。しかし、そうした疑問を口にするのははばかられた。ぼくがそれを言うのを、優子さんは待っている。そう感じ取ることは難しくなかった。獲物えものわなにかかるのをじっと待つような態度で、優子さんは、入江の向こうの大海を眺めている。


「むかし、康太こうたに遠足の写真を見せてもらったのだけど、その中に千弘くんが映っていたの。すぐに康太に訊いたわ。千弘くんのことを。名前も、性格も、友達付き合いも、学校での様子も……」


 身震いをためらうことはできなかった。しかし優子さんが纏っている雰囲気には、どこかぼくを昂奮こうふんさせるものがあった。どうやらすでに、優子さんのてのひらの上に乗っかってしまっているようだった。


「写真で姿を見ただけなのに、好きになっちゃったの。千弘くんには、それくらいの魅力があるのよ。いまは彼女がいないと言っていたけど、これから先、何人もの女の子を泣かせるに違いないわ。だけど、わたしは千弘くんになら、泣かされてもいいと思ってる。どう? いまはわたしも彼氏がいないから、付き合うことができるのだけど」


 優子さんは、窓障子まどしょうじ敷居しきいに置いたぼくの手の上に、その可憐かれんな手をそっと乗せて、品を感じさせる妖艶ようえんな微笑をみせた。

「どうかしら?」

 ぼくは優子さんの魅惑の前に、あえなく陥落かんらくしそうになっていた。

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海の匂いのするハンカチ 紫鳥コウ @Smilitary

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